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外伝17 劉協の脱出

 ある日の夜中過ぎ、劉協は懇意にしている宦官にいきなり起こされた。

 その宦官とは件の中黄門である。

 宦官とはいっても、皇太子の寝室に行くのは容易ではない。

 だが日頃から各所に賄賂を贈り、皇太子の侍女、側近にも顔が効く中黄門には、それが可能なのである。

 中黄門は劉協の傍らに寄ると、静かに劉協を起こした。

 

「……殿下。起きて下さい。ここは危険でございます」

「……む? 何だ? 趙高ではないか? どうしたのだ?」

「殿下を殺めようとする者が、こちらへ向かっております……」

「ええっ!?」

「しっ……お声が高う御座います」

「……衛兵はどうしたのだ?」

「衛兵どもは買収されております。このままでは危険です。私が逃げ道を用意しましたので、こちらへどうぞ」

 

 中黄門趙高の指示により、皇太子劉協は宮殿の隠し通路を使って外に出された。

 そこには日頃から趙高に世話になっている壮士と御者がいた。

 更に趙高は劉協を急かせ、こう述べた。

 

「この者が殿下を守って下さいます。ささ、早く」

「……何処へ向かうのだ?」

「まずは南陽に向かい、劉岱殿の下へ向かうのです。劉岱殿は忠義の士。必ずや殿下をお守り下さいます」

「中黄門はどうするのだ?」

「私は時間を稼ぎます。さぁ、早く。それとこれをお持ち下さい」

「これは伝国の玉璽ではないか!? 何故、このような物を!?」

「これさえあれば、何進一族に朝廷を意のままにされる事が無くなります。ひいては殿下と朝廷の為になります……それに」

「……分っておる。我が母親の仇は義母様ということは……」

「そういう事でございます。では、お急ぎに……」

「感謝致すぞ。中黄門よ……。この恩は何れ……」

「そのような事、お気遣い無用で御座います。さぁ、早く……」

 

 中黄門の趙高は御者を急かし、劉協と壮士を馬車に乗せた。

 趙高はそれを見送ると、思わず吹き出しそうになった。

 これで途中、劉協が殺されてしまえば、後は思い通りになるからである。

 あとは玉璽を袁術の下へ届けさせ、袁術が劉協を殺した下手人にすれば手筈は整うのだ。

 

 趙高が見送った後、馬車は途中まで南へ向かったが、途中で北西の方角へと方向を変えた。

 劉協は暫くその様子を窺ったが、何かおかしい。

 北極星がずっとこちらを照らしているからである。

 南の方角であれば、ほぼ真後ろに北極星がないといけないからだ。

 そこで劉協は恐る恐る御者に訊ねた。

 

「そこの御者よ。……本当に、この方角で合っているのか?」

「へい。こちらに連れ出す手筈なので、間違いねぇですわ」

「しかし、方角が違うぞ。南であれば北極星がある訳がない……」

「あ……気付いちまいました?」

「……まさか!? お前ら!?」

 

 そう劉協が叫ぶと、後ろから強い力で押さえつけられた。

 壮士が劉協の口を塞いだのである。

 劉協が幾ら、もがこうにも所詮、まだ六歳の子供である。

 そんな劉協をせせら笑いながら、御者はこう言った。

 

「協ぼっちゃん。アンタを殺しはしねぇ。アンタは俺らの頭になってもらわんと困るからね」

 

 そのままずっと北へ向かうと、途中で一人の婦人のような美しい顔立ちをした者が馬車を呼び止めた。

 そして御者に話しかけて来たのだ。

 

「どうだね? 上手くいったかい?」

「へぇ。この通り。しかし、この王子さんは利口ですねぇ。北極星で勘付きやがった」

「成程。所詮、子供と思っていたが、それは私の予測外であった」

「皆さんは既に居るんで? 張の旦那」

「ああ。既に準備は整えて終えている。後は追手が来ても、どうにもなるまいよ」

「別に追手が来ても、おいらの馬車には追いつきませんがね」

「念には念をだよ。それよりも紀信。畏れ多いぞ。早く殿下から、その汚い手を離せ」

 

 紀信と呼ばれた壮士は大人しく劉協から離れた。

 すると張の旦那と呼ばれた者は、劉協の前に跪いたのである。

 

「殿下。失礼の儀、心からお詫びいたします」

「何故、このようなことを? そもそも、そなた達は何者ぞ?」

「私は姓を張。名は良。字を子房と申す者。涼州の韓遂の下で働いている者です。そちらの二人は私の部下で、夏侯嬰と紀信と申します」

「なっ!? 韓遂だと!? 謀反人ではないか! 余を人質にするつもりか!?」

「いえいえ。殿下には王となって頂く所存です」

「王に? どうやって?」

「そこには伝国の玉璽がある筈です。それを使うのですよ」

「……玉璽と関係あるのか?」

「大ありです。既成事実を作ってしまうのです。帝が『殿下を後継ぎに指名した』という既成事実をね」

「そんな事が可能なのか?」

「私にお任せ下さい。韓遂だけでなく、馬騰、辺章、さらには……」

「さらには?」

「おっと、ここから先は着いてからお話ししましょう。それでは殿下をお連れ致します」

「………断ったとしても、無理やりであろう?」

「どの道、殿下には後がございません。『殿下が玉璽を持ちだした』と、既に宮中では噂になっておるでしょうし……」

「………余はまだ生きたい。死にとうない」

「その手助けをするのが我らの役目です。では、参りましょう」

 

 劉協は覚悟を決め、自ら馬車へと乗り込んだ。

 張良も馬車へと乗り込み、暫くは沈黙が続く。

 劉協は居ても立ってもいられず、思わず張良にある質問を投げかけた。

 

「張良とやら、余は君に聞きたいことがある」

「仰せの通りに。どのような事でしょう?」

「そなた達は中黄門の配下ではないのか?」

「ハハハ。それは半分そうで、半分は違います」

「どういうことか?」

「あの趙高は殿下の抹殺を、そこに居る紀信に命じたのです」

「なっ!? 何だと!?」

「そもそもおかしいと思いませんか? 殿下を逃がすならば、わざわざ玉璽などという重要な物を預けはしないでしょう」

「それは余には分らぬが……」

「殿下は聡明な方です。何れ分かる日も来るでしょう。涼州は寒いですが我慢なさって下さい。何れ我らが都にお連れ致しますので」

「……それで、我が兄はどうなるのだ?」

「……既に、この世にはおりませぬ」

「今、何と言った!?」

「『既にこの世にはおりませぬ』と申しました。今いる者は、趙高が瓜二つの者を密かに替え玉として潜らせた所謂、偽物です」

「………」

 

 劉協は直には信じることが出来なかった。当然である。

 だが、思い当たる節は幾つもあった。

 それは今まで優しく接していた兄劉弁が、ある日を境に態度をガラリと変えたことである。

 

 十歳程、齢の離れた劉弁は実直な性格で、猫を可愛がる大人しい性格であった。

 ところがある日を境に、飼っていた猫を引っ掻いたという理由で、無残に殺してしまったのである。

 それまでは家臣達が猫を殺そうとすると、怒って止めさせていたのにだ。

 

 さらに食事の好みもガラリと変わった。

 今までの料理人をクビにして、別の者を雇ったのである。

 言葉使いも今まで上品だったのが、怒ると下品な言葉を浴びせかけてくる。

 

「確かにここ二年ほど、おかしいとは思っていたが……。まさか……そんな……」

 

 劉協は兄の劉弁が好きであった。

 義母にあたる何皇后は劉協に対し、つらく当たってきたが、劉弁はそんな劉協を思いやってくれた。

 董太后は、自分を実の子のように可愛がってくれるが、子供心にそれは偽りと見ていた。

 何皇后が嫌いだから自分を可愛がってくれているのだ。

 しかし、劉弁はそんな損得で動いてはいなかった。

 

 劉協にはフツフツと憎悪の念が込み上げてきた。

 趙高と偽の兄に対してである。

 そして何もしないで遊び呆けている実の父親である帝にも、その恨みは向けられたのだ。

 劉協は深呼吸し、張良にこう告げた。

 

「張良よ。余は決めたぞ。帝に即位し、佞臣どもを駆逐する。そして、この漢を復興させてみせる」

「おお、やはり分って頂けましたか。この張良の目に狂いはなかった」

「……して、涼州に着いた後に余はどうすれば良いのだ?」

「それは我らにお任せを。機を見て一気に攻め込みます」

「しかし、どうやって………?」

「殿下は我らの兵力をお疑いのようですね。まぁ、すぐに分りますよ」

 

 そう言った後、張良はニコニコと微笑むだけで、特に答えようとはしなかった。

 その様子を見て、劉協もそれ以上、問おうとはしなかった。

 

 一週間ほどかけ、涼州武威郡の治所、姑臧県こぞうけんへと更に進む。

 既に姑臧県の政庁では首を長くして者達がいた。

 韓遂、馬騰と始めとする涼州軍閥の面々である。

 

 そして劉協が城内に入ると一斉に、その者達は跪く。

 それと同時に代表して韓遂が声を高らかに、口上を述べた。

 

「今日まで、我らは逆賊の汚名を被りながら、戦って参りました。しかし、今日を以って晴れて王の軍となることが出来ます!」

 

 劉協は驚き、韓遂に恐る恐る聞いた。

 王の軍というのが理解出来なかったからである。

 

「その方の名は?」

「以前は韓約と申していましたが、今は韓遂と申します」

「……それで王の軍とは?」

「はっ! 殿下には今日から涼州の王と成って頂きます!」

「何と!? 余が涼州の王に成ると申すか!?」

「はい! そして、我らで都に攻め入り、佞臣どもを全て取り払って御覧に入れます!」

「西涼の兵は確かに精強と聞く。だが、それだけでは……」

「ハハハ! ご案じめされるな! 我らには心強い味方がございます!」

「心強い味方?」

「はい! お入り下され!」

 

 入って来た者は、精悍な顔つきの若者であった。

 見るからに漢人ではなく、顔立ちは彫が深く、どう見ても北方の民である。

 その若者も劉協の前に近づき、口上を述べた。

 

檀石槐たんせきかいの一子。和連かれんと申します! 我らもご助力致す所存です!」

「檀石槐だと!? 鮮卑の英雄ではないか!?」

「ハハハ! これは実に嬉しい限りです。まさか宮中にも噂が轟いているとは」

「………」

「ご安心下され。我らはお味方です。鮮卑と呼ばれる我らの力は殿下もご存じの筈」

「………う、うむ」

「それとも、何かお疑いでも?」

「いや何故、貴公らも余に力を貸してくれるのだ?」

「ハハハ! それは漢に大きな貸しを作る為です」

「大きな貸し?」

「はい。ここで大きな貸しを作り、共に漢の覇道を歩むためです」

「………」

「我らもタダでは働きません。殿下が帝になった後、我らに他の北方の諸部族の統括を命じて頂きたい」

「………相分かった。約束致そう」

「有難き幸せ。必ずや鮮卑の精兵で蹂躙してみせまする」

「余り無茶なことはしないでおくれ。『鮮卑の兵は直に略奪をする』と言われておるからな……」

「ハハハ! これは手厳しい! それは難しいですな!」

 

 劉協は複雑な気持ちになった。

 鮮卑はこれまで幾重にも北方で略奪を繰り返してきた仇敵である。

 特に檀石槐は今までで一番、漢を心底苦しめてきた者だからだ。

 

 一方の都では劉協が攫われ、玉璽が盗まれるという事態に、蜂の巣を突いたような大騒ぎとなっていた。

 趙高は予定通りに事を進めさせる。

 まずは董太后の邸宅へ禁門の兵が押し寄せる前に、手練れの手下達を使い、家人ごと皆殺しにしてしまった。

 そして事前に用意した偽の密書を室内に隠し、まんまと逃げ遂せたのである。

 

 この事をまず何皇后に報告し、何皇后を喜ばせた後、今度はその兄である何進の方に、ある報告をしたのである。

 それは、またもやでっち上げの報告であった。

 

「何大将軍。恐れていたことが起こりました……」

「この騒ぎはどうした事だ? 趙中黄門よ」

「はい。十常侍どもが董太后様を暗殺したのです」

「何だと!? 何故だ!?」

「まずは、これをご覧ください」

 

 それは董太后の筆跡を、巧みに模した別の偽書であった。

 偽書を要約するとこういった物だ。


 何皇后と和解し、劉協を王に封じ、赴任させる手筈を整えたい。

 弁皇太子を正式に後継ぎとする為である。

しかし、何一族を邪魔と考える十常侍らはこぞって邪魔をする。

 このままでは宮中において諍いが起き、賊の討伐もままならない。

 そこで何大将軍に十常侍への粛清をお願いしたい。

 

 ……という書状であった。

 何進はこれを読むと感激した。

 そこに趙高は董太后が生前、何進が「この漢を盛り立てる中興の祖となるであろう」といった出任せを巧みに述べる。

 図に乗った何進は急ぎ兵を集め、十常侍を悉く粛清しようとするが、これを趙高は諌めた。

 

「何故だ!? こんな証拠があるのに、何故止める!?」

「向こうは必ずや『知らぬ』と否定するでしょう。それに、これでは証拠が不十分です」

「何故、不十分なのだ!?」

「何皇后が邪魔をするからです。何皇后は常日頃、十常侍を重用しております。そして、弟君の何苗殿も……」

「あの馬鹿者どもが! 兄である儂よりも、あのような佞臣どもを頼りにするとは!」

「そこで、ここはまず董太后の死を伏せましょう」

「何故、伏せる必要があるのだ?」

「董太后の死を連中に利用されるからです。その責任を大将軍に被せてくるかと……」

「ふざけた真似を!? 誰がそんな事を信じる!」

「帝との距離は奴らの方が近いですぞ……」

「……くそっ!!」

 

 何進は机を拳で叩き、悔しがった。

 折角、邪魔な十常侍を始末出来ると思ったからである。

 

 一方、十常侍も事の重大さに慌てふためいていた。

 董太后の偽の密書を手にしたからである。

 その密書には、こう書かれていた。

 ……要約すると。

 

 先日、新たに雇った侍女が自殺をした。

 劉協への毒殺を企てたことを追及した為である。

 どうも侍女に命じたのは何皇后で、このままでは劉協が危ない。

 この事を帝に伝え、早々に何一族を誅殺せねば、劉協どころか漢が危ういだろう。

 

 十常侍らは董太后を殺したのは当然、何進と何皇后と思った。

 だが十常侍らは何皇后との関係は良好で、下手に追求すると自身らの失墜になりかねない。

 そこで皆、董太后の死を伏せることにし、幽閉されていることにしたのである。

 

 ここまでは趙高の思い通りであった。

 しかし、予想もしていない事実が判明したのだ。

 劉協が玉璽と共に涼州に渡ってしまったのである。


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