外伝16 劉協と玉璽
ある祭壇の上である。
祭壇の周りには無数の信者が取り囲んでいた。
厳かな雰囲気の中、恰幅の良い中年男がオドオドとした様子で、黄色い布を頭につけた衛兵らに連行されてきた。
そして壇上に上ると無数の蝋燭が辺りを照らし、真ん中には先天図が描かれている。
さらに、その先天図の中央には、黄色い法衣を身に着けた長髪、長髭の初老の道士が佇んでいる。
「良く来た。君の行状を見よう」
初老の道士は男を座らせると、右手をそっと首筋に当てた。
そして男の首筋から手を離すと、今まで道士の掌は空だったのにも関わらず、 大きさが5センチメートルほどの虫が、六本の足をバタつかせているではないか。
「安心せよ。君の行状を報告する虫だ。君は何も悪いことをしていないのであろう?」
脂汗をかきながら男は道士の言葉に無言で頷いた。
しかしながら、男には思い当たる節があった。
元々、男は山賊で、黄巾党に入った際にも略奪や暴行、強姦などを繰り返していたからだ。
しかし、男にはどうすることも出来ない。
既に武器は取り上げられている。
だが、それ以上に異様な雰囲気がヒシヒシと伝わり、蛇に睨まれた蛙と同じだ。
道士は瞬時に出現した虫を耳に当て、静かに数秒ほど目を閉じた。
そして、気が済んだのであろうか、虫を耳から離した。
その直後である。目を開けるやいなや「シュッ」という音が鳴り響いた。
男は喉に、何か熱い液体を感じた。
その液体が邪魔して、息が出来ない。
「ゴボッゴボッ」という小さな咳しか、発することが出来ない。
咳を抑えようとしたその手を見ると、蝋燭の淡い光で赤黒い液体が見てとれた。
その瞬間、男は崩れるように倒れ込み、そのまま動かなくなった。
「またもや、このような男がなぁ……。これでは世直しどころではないわ」
道士は男を斬った剣を見つめ、溜息をついた。
道士は、全て法力で男の罪状を見抜いたのであろうか?
謎の蠢く虫も法力で出現させたのであろうか?
実はそうではない。
虫を出現させたのは、今日でいうトリックである。
また、男の罪状も既に道士の情報網で明らかになっていたのだ。
このようなことを「何故やるのか」といえば、他の信者への見せしめだからだ。
道士の名は張角という。
黄巾党の最高権力者にして、大賢良師と崇められている男だ。
張角が行おうとしている行為。それは世直しである。
張角には、ある情報網がある。
三尸と呼ばれるネットワークで、上尸・中尸・下尸と呼ばれている。
下尸の役目は信者の動向を探らせることだ。
今回のことも下尸によって報告がなされ、男を処断するに至った。
また、信者の中で人材を発掘する際にも暗躍をする。
中尸の役目は外部の情報集めである。
彼らは日々、行商人や旅人などに化け、密かに幹部らに報告をする。
ある意味、黄巾党の行く末の鍵を持っている者達である。
上尸の役目は下尸と中尸の管理育成だ。
また、他の黄巾党幹部らへの情報伝達なども委任されている。
上尸は功績のあった下尸、中尸から抜擢され、さらに幹部への道が開けるので、下尸や中尸は上尸を目指すのだ。
そして、上尸でさらに実績を積むと幹部になれる。
上尸に抜擢された中には、以前に波才や張曼成といった者達もいたのだ。
張角は、これら三尸を使い分け、朝廷の討伐軍と日夜、戦っている。
眠れない日々も続くが、乱の最中に大病を患い、その後、奇跡的な復活を遂げてからは体調も頗る良い。
これは正しく「天帝が自分に課せられた役目を遂げさせよう」としている意思表示なのだ。
少なくとも、張角はそう確信している。
張角は河南尹の県令の元従事で、冀州の鉅鹿の出自である。
弟の張宝、張梁も同じく役人をしていたが、第一次党錮の禁の折、野に降った者達である。
その際、張角は焚書にされようとした書物を見つけ、密かに隠し持ってきたのがきっかけで太平道を開いた。
桓帝が焚書にしようとした書物、それは太平清領書と呼ばれるものだった。
その中には薬の作り方や、鍼灸などの治療法、トリックの仕方、催眠術など、 あらゆるものが書き記されていたのだ。
その太平清領書によって張角は頭角を現し、今日に至っている。
下野した際、しばらく張角は政治の世界に全く興味がなくなっていた。
しかし、役人などが日夜賄賂を要求し、無辜の民を虐げるのを見ているうちに、フツフツと義憤が積もることによって、政治への興味が再び湧いたのだ。
そして、一番のきっかけになったのが波才との出会いである。
波才は王莽の波水将軍である竇融の子孫で、第二次党錮の禁で自殺した竇武の息子であった。
竇の姓を名乗る者は殺される為、名を変えて波才と名乗り、今日まで生き長らえてきた。
父の汚名を晴らすべく、東奔西走を繰り返していたが、ある日、張角と出会い、上尸となっていた。
その頃、同じく上尸となっていた馬元義と出会い、二人は義兄弟となっている。
話を元に戻そう。
張角は、この日のうちに他十数名を斬り、改めて教団を糺した。
無辜の民を殺す者を置いといては、自分たちの教義に反するので当然である。
だが、この日は少しばかり多すぎたので、気分が滅入っていた。
張角は自分専用の小さな祠へ向かい、静寂な間で瞑想をしだした。
ほとんどの者は立ち入れない間だが、一部の者達は違った。
上尸や側近たちのことである。
この日も一時間ほどすると、隠し扉からやって来た男がいた。
男は190センチメートルもある偉丈夫で、眼光鋭い、四十代の男である。
「何用かな? 仲徳殿?」
「用があるから来たのです。ご相談したき儀がございまして……」
男の名は程昱。字を仲徳という。
以前は兗州で黄巾党と戦っていたが、信者にならないことを条件にして参謀となっていた。
「ふむ。確かにそうだ。して、相談とは?」
「はい。ここいらで王族を味方につけるというのはどうでしょう?」
「王族を味方に……? 誰も推すのだ?」
「陳国の劉寵殿です」
「確かにあの方なら仁徳もあり、英明である。だが、どうやって結ぶのだ?」
「ある宦官から『帝は近いうちに崩御する』との情報が入りました」
「上尸の中黄門からか。しかし、何故崩御するのだ?」
「そこまでは分りません。ですが、その日は近いとのことです」
「素直に聞き入れると思うか?」
「あの方は野心も溢れております。我らと組めば、我が軍勢が手に入る。そして近隣の太守らを説得し、一気に洛陽に入るのです」
「そこで十常侍どもや何進らを殺し、天下を掴むということか」
「少々手荒な事ですが、この状況を打破するには、それが一番かと……」
「確かに南昌を抑え、江夏蛮、山越人を味方につけているとはいえ、今の状況は芳しくないな」
「そして、問題の袁術ですが……」
「あの者は捨ておけ。劉寵殿が帝となれば、あの者も無茶はしまい」
「いや、それがどうも勝手が違うようです」
「どういうことだ?」
「袁術は密かに帝に即位するつもりらしいですぞ……」
「……名門とはいえ無茶をするのぉ。我らでさえ、漢室を破壊出来ぬのに、あの者が帝などとは……。一体、誰が唆しているのだ?」
「それは、まだ判明しておりませぬ。しかも先日、とんでもないことが宮中にて発生しました」
「とんでもないこと?」
「はい。伝国の玉璽が『何者かに盗まれた』との噂ですぞ」
「なっ!? それは真か?」
張角といえども、流石にこれには驚いた。
しかし、張角には心当たりがある者がいた。
上尸の中黄門が最近、好き勝手に中尸を使い、事を荒立てているらしいのだ。
上尸といえど、それは許される行為ではない。
だが、張角が現在いる沛国からは遠すぎて制御しきれないでいる。
さらに今、中黄門を招聘するとなれば、宦官どもの動きが見えなくなる。
一瞬、驚いたが直に落ち着きを取戻し、程昱に訊ねた。
「仲徳殿。それは中黄門からの情報かね?」
「はい。あの男め。どうも勝手が違うようです。用心せねば寝首を掻かれますぞ」
「そんなことは既に承知だ。しかし、今はどうしようもあるまい」
「ですなぁ。だが、伝国の玉璽を袁術が奪ったとなれば……」
「確かに奴が逆賊になる。だが……」
「だが、何です?」
「兄の袁紹の方の動きも気になるぞ」
「今の帝を廃して劉虞を帝にするという案ですな」
「うむ。先頃、袁紹の元に潜ませた上尸の郭図によると、どうもそのようだな」
「しかし、何進が黙ってはおりますまい」
「いつまでも名門の血筋が肉屋に牛耳られているのは、気が気ではないのであろう」
「確かにそうではあります。しかし、そうなると劉寵殿が即位された際には……」
「うむ。必ずや邪魔になる。だが、儂としては『劉虞殿に限って、そんな事はない』と信じたい」
「張角殿。劉虞殿といえども、人の子です。どうなるかは分りませんぞ」
「……確かにそうだ。だが、儂は信じたい」
張角は劉虞と面識がある。
以前、太平道を立ち上げた際に、悪徳県令から守ってくれたことがあった。
その恩義があったため、劉虞が赴任したときは鉅鹿から身を引いたのである。
しかし、今となっては、それが仇になりつつある。
袁紹が冀州を抑えて好き勝手やりだしたのだ。
真に名門というのは身勝手なものだ。
さて、伝国の玉璽が盗まれた宮中であるが、もっと深刻な問題があった。
董太后が推していた後継ぎ候補の一人、劉協が行方不明となったのである。
史実では劉協が献帝となる筈なのだが……。
実はこれにも、件の中黄門が絡んでいた。
中黄門は董太后、何進、十常侍らの中で生き馬の目を抜くような行動をしている。
それには配下の中尸も関わっている。
中黄門は董太后に対し、日頃から「何皇后が劉協を毒殺しようとしている」と吹聴していた。
実際、劉協の実母、王美人は何皇后によって毒殺されている。
流石にすぐには董太后も信じていなかったが、ある証拠を中黄門が持ってきたことにより、鵜呑みにしてしまった。
ある証拠とは偽勅の書状である。
何進の弟、何苗という者が最近、俄かに董太后に近づいてきた。
何苗は何進の弟であり、何皇后の弟である。
しかし、父親の連れ子であり、実際には血は繋がっていない兄弟なのだ。
何苗は何皇后とも最近、疎遠になってきており、そのため何皇后と対立関係にある董太后に近づいた訳なのだ。
当初、董太后は何苗を怪しんでいたが、敵の敵は味方という形で接近していた。
だが、その何苗が密かに「劉協を暗殺すべし」とする密書を中黄門が手に入れたのである。
この密書こそが偽書なのだが、偽書作成を専門とする中尸を使い、何皇后の筆跡を見事に真似させたものだ。
それなりに力を持っている筈の董太后であるが、実子の帝は頼りない。
当の帝は日々、女官と共に酒浸りの毎日である。
「このままでは我が子同様の劉協が危うい。何とかせねば……」
焦った董太后は偽書を持ってきた中黄門に対し、劉協を攫い、伝国の玉璽を盗ませるよう指示した。
中黄門は、その指示に従い、手の者に盗ませたのである。
伝国の玉璽を盗むのは意外にも簡単であった。
皇位継承権の要因ともなるのに、扱いがぞんざいであったからだ。
どうやって盗ませたか。
それは最近、帝に気に入られている女官を使ったのだ。
その女官もまた中尸であり、中黄門の紹介で入った者なのである。
伝国の玉璽を盗ませた後、董太后は次に中黄門に劉協の避難場所を相談した。
董太后には情報網がなく、誰を信じて良いか分らない状況なので、身近に接している忠臣顔した中黄門にしかいなかったからだ。
「中黄門よ。どなたであれば劉協を庇い、帝にしてくれますか?」
「そうですな……。はて……」
「そうじゃ。益州牧の劉焉殿なら安心でしょう?」
「劉焉殿ならば、次の天子を自分のご子息にしたいと周りに漏らしております。禅譲を迫ってくるかもしれません」
「……それは真か? では、荊州牧の劉表殿は?」
「あの方は劉焉殿だけでなく、最近よく話題に上がる賊太守と密約を交わしているとの専らの噂ですが……」
「なんという……。では、劉虞殿なら安心でしょう」
「劉虞殿は袁紹らと通じ、帝の地位を狙っておる由……」
「あの劉虞殿までもが……。なんということでしょう。もう漢室に忠臣はおらぬのですか?」
「劉岱殿なら問題ありますまい」
「何ですって!? 劉岱殿ですか?」
「そうです。劉岱殿であれば南陽です。民や兵も多く、必ずや力となってくれましょう」
「しかし、漢中の妖賊らと戦っている最中では?」
「漢中の妖賊は最早、下火です。まず問題はないでしょう」
「そっ……それではそうしましょう。早く劉協を連れ出すのです!」
「はっ! 某にお任せ下され」
当初、ほとんどの十常侍は劉協を帝にする予定でいた。
だが、中黄門は何進の甥である劉弁を帝にするつもりなのだ。
これは何故かといえば、十常侍を全て追い落とし、自らが宦官の長になるためである。
伝国の玉璽が盗まれたこと、そして劉協の失踪の責任を、全て董太后と十常侍に被せれば、自ずと地位が見えてくるからだ。
そして、途中で劉協を亡き者にすれば、問題はない筈である……。




