外伝12 張羨の運命(後編)
そのさらに数か月後、武陵で大々的な反乱が起きた。
武陵蛮の精夫沙摩柯が突如、曹寅に牙を剥いたのだ。
武陵の反乱は近隣の荊南蛮や零陵の民を巻き込み、瞬く間に沙摩柯が占領してしまった。
猛将刑道栄は武陵の兵を率いて投降してきたので、これを受け入れ、武陵討伐に向かおうとした矢先である。
またもや、あの青二才が武陵を占拠してしまったのだ。
当初、武陵を引き渡すと密約を交わしていたのにである。
「あの青二才め! この余を何だと思っておるのだ! この恥辱は決して忘れぬぞ!」
二重の密約を交わしていたのにも関わらず、張羨は司護に対し、憎悪を抱いた。
これが決定的となり、最早両者の修復は不可能になってしまった。
さらにそれを追い討ちかけたのが、件の零陵蛮の精夫である。
彼は武陵で沙摩柯と共に戦った後、三郡を司護が支配したことで、零陵に司護を引き入れようと画策しだした。
司護が零陵を支配したとなれば、零陵蛮の民も暮らしが楽になるからだ。
折しも、零陵では張羨の陳応、鮑隆らと対峙していたから猶更である。
一方、武陵が司護によって無血開城されたので、張羨に零陵蛮討伐の指令を受けた陳応、鮑隆は焦っていた。
反乱している零陵蛮に加え、武陵と桂陽の司護の軍に攻め込まれたら終わりなのである。
兵力差は歴然としており、危機感を抱いていた。
不安を隠せない鮑隆は陳応に愚痴を溢した。
「なぁ、陳応。このままじゃ俺らはお終いだ。大体、蛮の連中だけじゃねぇ」
「全くだぜ。鮑隆よ。觀鵠らの賊連中まで、こっちにまた来やがった。これじゃあキリがねぇや」
だが、そこに思わぬ援軍がやってきた。
刑道栄である。
刑道栄が手勢五千を率いて、武陵から零陵へと抜け出してきたのだ。
張羨は思わぬ軍勢に手放しで喜び、刑道栄を褒め称えた。
零陵に五千の兵は中々の収穫でもあるし、何といっても刑道栄の武名は近隣に響き渡っている。
その為、刑道栄はすっかり上機嫌になり、次第に天狗となっていった。
面白くないのは陳応、鮑隆、楊齢ら三人の武官達だ。
刑道栄が零陵に来た直後、手勢を率いてまずは桂陽蛮の精夫の手勢と戦い、これに勝利した。
だが、桂陽蛮の手勢は陳応らの軍勢、双方とも痛手を負っていた直後だったため、敗れたのである。
「くそっ! 面白くねぇ! 美味しいところだけ持っていくとは!」
陳応は悔しがったが、どうしようもない。
そして趙範、韓玄らが、そんな陳応らの愚痴の聞き役となり、何とか宥めていた。
だが、ある転機が訪れる。
他の長沙蛮らと有利に戦いを進めていた刑道栄だが、途中で恐ろしく精強な軍勢と戦い、初戦を大敗してしまったのだ。
「なぁに、初戦だけだ! 敵は新手だから士気が高いだけに相違ない! 何れ、士気も落ちる!」
そう刑道栄は思い、兵を叱咤し、次戦に勝機を見出そうとしていた。
そこに援軍として楊齢が兵二千を率いて合流してきたので、刑道栄は尊大な態度をとりつつ楊齢に言った。
「やぁ、ご苦労。後は全てこの俺に任せて、貴殿は高みの見物でもしてくれたまえ」
「刑道栄殿。そうは参りませぬ。この二千の兵は某が率いてきた者ども。勝手な真似をされては困る」
「何を抜かす! お前はこれまで散々『クソの役にも立っていない』というではないか!」
「何!? 某にも武功はあるわ! それに貴様こそ、何もせずに武陵から逃れてきた落ち武者ではないか!」
「何だと!? もういっぺん言ってみろ!」
これに割って入ったのが、参謀としてつけられていた趙範である。
しかし、趙範が幾ら宥めようにも、双方ともに怒りの収まりがつかない。
「もう良いわ! 俺だけであいつらを破ってみせる! 貴様らはのんびりと飯でも食っていろ!」
刑道栄はそう吐き捨てて、手勢を率いて敵の陣営に攻め込んだ。
怒りの矛先を敵にぶつけるためである。
それを見た敵勢は呆気なく退きだした。
勢いに乗る刑道栄らは、それに気を良くしたのか、どんどん追い討ちをかけてくる。
だが、敵の逃げ足は速く、それに上り坂や木々が生い茂っているため、中々追いつけない。
「くそっ! 蛮兵だけあって逃げることだけは長けていやがる! だが、必ず追いつく! 者ども進め!」
刑道栄は味方の兵が疲れているにも関わらず、追撃の手を緩めない。
そして、徐々に兵は脱落者が一人、また一人と出て来る。
よりにもよって、装備の良い兵らが重さに耐えきれずに置いていかれるのだ。
一方の敵勢の兵の鎧は軽い。いや、ほとんどが鎧らしい鎧を着ていない。
その為、足取りは軽く、疲れは左程感じないのだ。
しかも、山道などは慣れており、急な坂道でもスイスイと登っていくのである。
刑道栄が少し疲れて休むと、相手の兵も休む。
そして刑道栄らに罵倒を浴びせる。
怒った刑道栄はまた追うと、また逃げる。その繰り返しだ。
「やーい! デベソ! お前の母ちゃんもまたデベソ!」
「笑うとデベソが茶を沸かす! 便利な便利なデーベーソー!」
「漢民一のデーベーソー! 唯一の取り柄がデーベーソー!」
刑道栄は出臍である。
それをひた隠しにしており、一切周りには話していない。
しかし、あの蛮族どもはそれを知っており、尚且つ嘲笑っている。
隠していた身体的な特徴を笑われては、ただでさえ短気な刑道栄にとって、怒りの炎に充分過ぎるほどの燃料であった。
「あの下劣な蛮族どもを生かして帰すな! 皆殺しだ!」
子供の嘲笑のようなものだが、効果は覿面であった。
ひた隠しにしていたものを暴露されて更に馬鹿にされるのは、短気な者ほど激高しやすい。
何故、分ったのかといえば、范増が刑道栄の妾から聞き出したからだ。
妾は自身を置いて、武陵蛮たちの前に差し出すような形で零陵へ逃げた。
彼女の家も武陵の街の中にあるにも関わらず、主君と同様に見捨てたのである。
その為、刑道栄に恨みを抱いていた。
刑道栄が怒りに任せて猛追していくと、左右になだらかな崖がある場所に出た。
丁度、坂道はすり鉢状の谷底となり、左右の崖から攻められたら一大事である。
いつもなら流石に気づく刑道栄であるが、この時ばかりは違っていた。
さらに進んで峠の頂上付近に差し掛かった途端、不意に向こうから新手の兵が現れた。
その蛮兵達は皆、長身で体格が良い屈強な男達が恐ろしい面を着けている。
さらに中央には一際大きい面を被った者が、恐ろしげなトゲのついた鉄棒のような物を小脇に抱えている。
実はその者は沙摩柯で、顔は既に知られているため、大きな仮面を着けていたのだ。
「ワハハハ! まんまと罠にかかりおったわ! 行くぞ! 奴らを生きて帰すな!!」
大きな仮面を被った沙摩柯が号令すると、新たに湧き出てきた蛮兵は勢いよく坂を下ってきた。
疲れ切った兵と今まで英気を養っていた兵では、兵の数が多くとも意味はない。
それに多くの兵を展開するには、地理的にも不利な谷底である。
「くそっ! 謀ったな! 一旦、戻るぞ!」
刑道栄は我に返り、退却しようとするが、味方の兵が邪魔である。
そこで邪魔な兵は自ら斬り捨て、急いで下ろうとした。
さらに両方の崖の上から岩やら矢が降ってくる。
押し潰される者、矢が突き刺さる者、そして後ろから容赦なく斬られる者と一方的な有様だ。
兵は三割近くが討ち取られ、怪我した者も数知れずといった散々な所に、楊齢が兵二千を率いてやってきた。
見るからに口元には笑みを浮かべ、嘲笑しているのが分かる。
そんな楊齢が、命からがら逃げてきた刑道栄にこう言った。
「成程。これなら武陵から逃げて来た理由が分りますな。いやぁ、実に見事な負けっぷりだ」
刑道栄は憤り、楊齢の軍勢に突撃をかけようと思ったが、数の上では勝っていても士気はどん底で負傷兵も多い。
歯噛みしながら、その場を離れるしかなかった。
一方の楊齢は戦うことなく、近くの村で兵を駐屯させ、様子を見ることにした。
すると蛮兵はすっかり姿を見せなくなり、数日後には楊齢は意気揚々と城へと戻っていった。
そして周りに、楊齢自身が「如何に蛮兵から恐れられている」と吹聴し自慢した。
「あのクソ野郎! テメェは何もしてねぇだけじゃねぇか!」
刑道栄は、その事を聞くと怒り狂い、地団太を踏んだ。
これが原因となり、楊齢との仲は更に険悪となった。
そして数か月後、思わぬ物が張羨の手に届いた。
劉表から刑道栄に下された密書である。
これには張羨も疑った。だが、心当たりもある。
刑道栄は楊齢だけでなく、陳応、鮑隆とも仲が険悪で、そのため普段から不満を周囲に漏らしていた。
しかも、元の上司、曹寅は劉表の下に逃げている。
そこで張羨は、この密書を手に入れた趙範に幾つか質問をしてみた。
「趙範よ。ここに書いてある内容だが、本当のことだと思うか?」
「某は何とも言い様がありませぬ。ですが、気になることを聞きました」
「気になること?」
「はい。觀鵠と蘇馬が、どうも刑道栄と通じているようです」
「あの賊徒が? 何故?」
「どうも、元黄巾の男が刑道栄と同郷の者だそうです。その者が手引きしているとのこと……」
「元黄巾? となると、南昌から来た者か?」
「恐らくそうでしょう。それに司護は南昌の黄巾党にも通じている可能性があります」
「むむ……。最近では山越の者どもも黄巾賊になる者が多いと言うし、可能性は無くもないか……」
「しかし、証拠がございません。一旦、不問にし、様子を見るのも一つの手かと……」
「いや、それでは遅い……。先手を打たねばなるまい……」
「左様ですか……。承知しました」
趙範は大人しく下がった。
しかし、張羨はここで既に大きな間違いを犯していた。
この趙範の兄夫婦やその子供らが、既に觀鵠らの手に渡り、人質にされていたのである。
趙範は迷った。
刑道栄を謀殺すれば、必ず兄夫婦は子供たちと共に殺される。
しかし、兄夫婦やその子供達を趙範は救いたい。
何故なら、その子供達は良く自分に慕っているからだ。
「ああ……。何故、思い止まってくれなかったのか……。もう少し時間が稼げれば、こうなる事はなかったであろうに……」
趙範は嘆息し、そのまま觀鵠らがいる山へと向かった。
足取りは重いが、行かねば兄とその家族の命が危ういからだ。
趙範は觀鵠らの住処に着くと、丁度そこには刑道栄が觀鵠らと酒盛りをしている途中であった。
そこで趙範は刑道栄に問い質すことにした。
「実はこのような文を手に入れた。心当たりはあるかね? 刑道栄殿」
「ある訳がないだろう! あの司護とやらの手の者が使う陳腐な策だ!」
「……そうか。某も怪しいとは思ったが」
「だが、張羨は俺を疑っているのだろう?」
「……あ、いや。今なら申し開きが出来る。某も弁護するので、共に参ろう」
「断る! むざむざ殺されに行くようなものだ!」
「しかし、張府君もこれには疑っていた。今なら……」
「くどい! お前の兄家族が殺されても良いのか!?」
「そ……それは……」
「今なら、まだ間に合うな……。もうこんなチンケな所とは、おさらばだ。暴れるだけ暴れて南昌へ向かう!」
そこに居合わせた元黄巾の男は手を叩いて喜んだ。
何曼である。
「おう! 良く決心した! 今なら南昌を攻め取れるぞ! 司護が襲って来ないと踏んで油断しているからな!」
「何曼よ! その前に、あの楊齢を殺さなければ気がすまん! あいつと張羨を殺して前祝いといこう!」
「その意気や由! 早速、夜明け前に攻め込むとしよう! ワハハハハ!!」
零陵は疲弊しきっていた。
連日の戦いで兵も疲れ果て、武官の連中も寝不足である。
元気なのは汚吏連中だけで、同じく毎晩酒宴を開いている。
そこに不意を突かれた訳だから、どうしようもない。
零陵の城や街は凶賊となった刑道栄が何曼、觀鵠、蘇馬と共に攻めこんだ。
刑道栄はまず楊齢の家に向かい、楊齢を家族諸共、皆殺しにした。
陳応、鮑隆、韓玄らは何とか少ない兵で抵抗するが、多勢に無勢なだけでなく、士気にも差がある。
それで止むを得ず、交州へと落ち延びていった。
城内で異変に気付いた張羨は急ぎ、劉先と我が子を呼んだ。
妻は産後に病で亡くなっているので、自分と妻の形見の品として護身用の短剣を我が子に与えた。
劉先に我が子を託そうとするが、肝心の我が子が言うことを聞かない。
城には火がつけられ、今にも刑道栄が率いる凶賊が迫っていた。
その時、張羨は我が子を叱りつけた。
「グズグズするな! お前まで死んだらどうする!?」
「父上! 私も戦います! まずは刑道栄を討ち! あの司護も必ず……」
「ならぬ! お前はまず生きよ! でなければ仇はとれぬぞ!」
「しかし、父上……」
「それと司護であるが、あの者が佞邪か仁者かは、未だに儂も分らぬのだ……。良いか! 佞邪の者であれば、必ずや本懐を遂げよ!」
「仁者と思われる時は……?」
「それを討てば、お主は儂を二度殺したことになる!」
「どういうことです?」
「分らぬか!? 仁者を殺せば、零陵の民を苦しめることになるからだ! 分ったか!?」
「はい……父上……」
「ならば行け。もう時間がない。劉先、後を頼むぞ……」
「父上!!」
張羨は猛り狂う炎の先で暴れる賊兵の姿を見ると、剣を抜いて斬りかかった。
それが張羨にとって我が子との最後の別れであった。




