外伝9 陳国の夜明け
時を少し戻し、光和七年。
西暦に直すと184年頃の話となる。
今回は豫州陳国が舞台だ。
統治者は陳湣王劉寵と言い、文武両道の王族として知られる。
周囲には黄巾賊が湧きあがる中、劉寵は強弩兵を束ね、黄巾賊を寄せ付けなかった。
そして劉寵自身も弩の名手である。
そんな劉寵であるが、ある難題を抱えていた。
黄巾賊に追われ、やって来た難民達である。
その数は十万余りに達し、旱魃による飢饉で食糧不足となっていた。
「このままでは、どうにもならん。何か良い手立てはないものか……」
そう考えた劉寵は陳国の相、駱俊を呼びつけた。
駱俊は字を孝遠と言い、楊州会稽郡の生まれで尚書郎を経験していた男だ。
駱俊は慈悲深く、自身の家財を売り払い、難民達に食糧を施していた。
しかし、それだけではどうにもならない事を、駱俊も実感していた。
「駱俊よ。これでは難民ばかりか、領民からも餓死者が出る。それだけは避けたい」
「確かに……。何とか今年なら持ち堪えられますが、来年以降もとなりますと、そうもいきますまい……」
「かといって、難民どもを送り返すのは忍びない。近隣の他の太守や県令どもは何をしておるのだ?」
「黄巾賊に追われて、逃げ出す者も数知れず……」
「全く……。やはり余が帝に即位するしかなさそうだな……」
「滅多なことを……。まだ宦官どもが警戒している最中ですぞ」
「ここには余と君しかおらぬ。だが、まずは田畑を広げなければならん。難民もいることだしな」
「仰せの通りにございます」
「そこで人を募りたい。まだ野に隠れている者も多いであろう?」
「はっ。目ぼしい者がいるか、某も当たってみます」
「……うむ。頼んだぞ」
駱俊は使者を遣わして、野に隠れている賢人を探すことにした。
だが、そんな簡単に見つけられる程、世の中は甘くない。
それでも難民の中に紛れているかもしれないので、駱俊は自ら難民に食糧を分け与える傍ら、探す毎日を送った。
ある日、駱俊が疲れ果て、大の字になって寝ていると、一人の男が声をかけてきた。
何でも難民に紛れ込み、陳国にやって来たが、今では陳国の下役人になっている男である。
計算が素早く、真面目で謹厳実直なことが評価されて登用されたのだ。
「これは駱俊殿。ここに居られましたか」
「君は最近、登用された……」
「はい。蕭何と申す者です」
「何? 蕭何……。同姓同名か……。で、その蕭何が某に何用だ?」
「はい。難民を全て受け入れるには、田畑が少なすぎます。そこで某も寝ずに考え、策を練ってみました」
「………ほぅ」
「ここに全て記述しております。どうぞご覧ください」
駱俊は書類を読むと、そこには信じがたいことが書いてあった。
まだ手つかずの平原に地下水が湧き出ている所があり、それを開墾しようというのである。
そのような土地の情報を持っていなかった駱俊にとって、寝耳に水であった。
「これが本当なら広大な田畑が作れるな……」
「はい。ここに難民達を受け入れ、耕作しましょう。そうすれば難民だけでなく、近隣にも食糧を売ることが出来ます」
「本当に古の蕭何のようだな。貴殿は……」
「ハハハ。ただ同姓同名なだけでしょう」
「うむ。君はこんな下役人で燻る者ではない。早速、人事を改めることにしよう」
「有難き幸せ。ですが、それだけでは足りますまい」
「というと?」
「某に心当たりのある者がおります。その者達を登用し、今後の対策を練りましょう」
「うむ! その言や善し! 早速、実行してくれ!」
「ははっ!」
蕭何は馬を借りると、すぐに走らせた。
推薦すべき者をかき集める為である。
既に蕭何には目星がついていたからだ。
馬を走らせると、獄吏をしている者が声をかけてきた。
蕭何が殺人による冤罪で捕まった際、何かと面倒を見てくれた者である。
そして蕭何と共に真犯人を見つけ、犯人を一刀両断にした者だ。
それ以来、義兄弟となり、蕭何が年上なので蕭何が兄貴分となっていた。
「やぁ! 蕭兄さん! 何処へ出かけるんです!?」
「おお、敬伯か! 実は駱俊殿に取り立てて貰ったので、これから責務を果たしに行くところだ」
「ええっ!? 駱俊殿って、この国の相じゃないですか!」
「おお、そうだったのか!? 道理で気品に溢れていたお方であったわ!」
「いいなぁ……蕭兄さん。この私もついでに、おこぼれ貰えませんかね?」
「ん? そうか、君なら問題ないだろう。才能あるのに獄吏なんぞ、勿体ないにも程がある」
「本当ですか!? 信じて良いんですね!」
「私は嘘を言わんよ。だが、私の面子を少しは立ててくれよ。君は、そんな事ないと思うがね」
「当たり前でしょう! 見ていて下さい! 絶対にお役に立ちます!」
さて、この獄吏。その名は曹参。字を敬伯と申す者である。
既にお気づきであろうが、両名とも本来なら、この世界にいる者達ではない。
さらに蕭何は馬を走らせ、ある町へと着いた。
その町も最近まで難民で溢れかえっていたが、今ではすっかり落ち着き、元の寂れた町へと戻っている。
そこの町の酒場で出会った者に、蕭何は何処となく気になっていた者達がいた。
「今日も来ていると良いが……」
流石に毎日、酒場にいるとは限らない。
着いた時刻も昼下がりだったので、その酒場で待つことにした。
酒場に入ると、一人の男が既につまらなそうな顔をして飲んでいた。
容貌、体格は共に立派だが、粗末な服を着ており、見慣れない者である。
「はて……このような場所に相応しくない人物だ。これはひょっとしたら、とんでもない掘り出し物かもしれぬぞ」
蕭何はそう思い、その者に素性を聞いてみることにした。
「そこの御仁。ちと、話をしても宜しいですか?」
「うん? ああ、別に構わんが……」
「何故、折角の酒を楽しく飲んでいらっしゃらないのです?」
「当然であろう。この世は乱れている。この世だけではない。朝廷もだ!」
「……ふむ。では、貴殿は都から?」
「そうだ。あの都は既に妖賊の住処だ。拙者は自分の無力を痛感し、憂いていたまでのこと……」
「おお……では、某と共に、その世の中を変えてみませんか?」
「……失礼だが、貴殿は?」
「これは申し遅れました。陳国の相、駱俊の下で働いている蕭何という者です」
「おお……あの駱俊殿の。しかも貴殿の名は、あの高名な蕭何殿と同じ、いや偶然には出来過ぎていますなぁ」
「いやいや。偶々です」
「これは失敬。拙者は臧洪。字は子源と申し、故郷の徐州広陵郡へ帰る途中でした」
「……では、既に誰かの下に?」
「いえいえ。拙者は野に下った、一介の素浪人ですよ」
「それは良かった! 貴殿は稀に見る御仁! 是非、劉寵様の下で某と共に働いてくだされ」
「陳湣王様の下で……」
「不服ですか?」
「いやいや! 滅相もない! この上ない名誉です! いや、この安酒が銘酒に思えてきました!」
「それは良かった! 今宵は某と共に飲み明かしましょう!」
さて、そんな二人が飲んでいると、続々と人が集まってきた。
丁度、その中に蕭何が求めていた若者がいた。
そこで、その若者に声をかけ、臧洪を紹介し、登用を試みることにした。
「貴殿は、この蕭何が見込んだ人物。どうであろう? 劉寵様に仕えてはくれぬのか?」
するとその者は、こう答えてきた。
「私は陳留の元小役人に過ぎませぬし、まだ若く、これといった実績もありません」
「そんな事は小さきことです。君は確かにまだ若いが、その分、某よりも未来がある」
「ハハハ。こんな元小役人に未来ですか」
「その通り。どうだね? この某と共に仕えてはくれぬか?」
その若者は少し迷ったが、決心をしたらしく、蕭何にこう述べた。
「毛玠。字を孝先。謹んで劉寵様にお仕えいたします」
「おお! 聞いたかね!? 臧洪殿! これでまた安酒がより銘酒となった!」
「ハハハ! これは目出度い! 今宵は、この臧洪の奢りだ! じゃんじゃんやってくれ!」
こうしてまずは臧洪と毛玠。そして曹参が登用された。
しかし蕭何は、まだ不満であった。
まだまだ人材が足りないと思ったからである。
それから数か月が経ち、陳国の農地は順調に育っていた。
また、街も整備され、続々と人々が押し寄せていた。
「また難民か……。余自身が幾ら働いても、これではキリがない。どうしたものかな?」
劉寵は、またもやボヤいていた。
周辺では皇甫嵩、朱儁らが活躍し黄巾賊を攻め立てていた。
それにより、戦場となった場所から、また続々と難民が押し寄せてきたからだ。
蕭何や毛玠は只管、開墾の指揮をとり、臧洪と曹参は治安を守り、駱俊と自らは街造りに懸命に励んでいる。
だが、まだ足りない。
急いで開発をせねば、餓死者が出てしまう恐れがある。
そこで劉寵は新たに加わった蕭何を呼び出し、意見を聞くことにした。
「蕭何よ。余も自ら率先しているが、どうにもならん。どうすれば良いと思う?」
「それは某も薄々気づいていました」
「……そうか。この陳国で君ほどの賢者が、まだ居ると思うか?」
「それは何とも言えません。ですが、早々に招聘せねばなりますまい」
「うむ。かといって、宮中にいるエセ学者どもなんぞは、ただ五月蠅いだけの連中だ」
「それは帝がご執心でいらっしゃられる鴻都門学の学者たちのことですか?」
「そうだ。十常侍もそうだが、あの連中もタチが悪い。郤倹みたいな連中しかおらぬぞ」
「それは早合点と思いますが……。確かに現実を見ずに、理想論だけを掲げる者達が多いそうですな」
「早合点ではないわ。帝は帝で十常侍の奴隷だしな」
「滅多なことをおっしゃいますな……」
「余も書状でお諫めしたのだ。それに我ながら、名案もあったしな」
「どのようなもので?」
「張角らを赦し、外戚の何進一族、それと十常侍どもを皆殺しにすることだ」
「……それはちと無謀でしょう」
「だが、この世の中を変える為には、それしかなかろう?」
「……お気持ちは分りますが」
「賊の中にも見出すべき者もいる。涼州の韓遂などは中々の知恵者と聞くぞ」
「確かに、あの者は相当の知恵者のようですな」
「他にもおるぞ。黒山賊の張燕も、古の陳勝に準えるほどの者だそうじゃないか」
「………」
「それに最近では賊太守というのが長沙におるそうじゃないか。いや、面白い。実に面白い」
「陛下は謀反を企むおつもりで……?」
「馬鹿なことを言うな。謀反ではない。佞臣どもを片っ端から皆殺しにし、余が漢の中興の祖となるだけのことよ」
劉寵はまだ若く、帝と齢はそう離れていない。
それだけに余計に歯痒いのである。
そして愚痴の最後だけに一つだけ、ある言葉を言うのである。
「肉屋の小倅なんぞが次の帝とは……片腹痛いわ」
蕭何が劉寵の愚痴から解放されると、自分の政務室に篭り、今後のことを考えた。
確かに劉寵は名君だし、器量も申し分ない。
しかし、何処となく危ない気がするのである。
一度、劉寵は謀反の疑いがかけられ、そのことは無かったことにされた。
だが、劉寵は今でも帝のことを蔑んでいる。
一応、帝に許された恩があるのだが、そんな事は微塵も感じていない。
「どうしたものだろう? このまま陛下にお仕えして良いものだろうか?」
そう考えるが、確かに今の帝の行状は噂を聞く限り酷いものであるし、劉寵の気持ちも分らないものでもない。
ただ、このまま陳国が豊かになり、兵を多く養えるようになれば、謀反を起こす可能性が高いのである。
更には黄巾党を赦し、その者達の力も借りて打倒するというのは、些か無謀にも思えるが、そうとも限らないのだ。
蕭何が悩んでいると、新参者の毛玠がやってきた。
少々、興奮気味のようである。
「ああ、蕭何殿。ここに居られましたか」
「どうしたのかね? 随分と嬉しそうじゃないか」
「あ、分ってしまいましたか?」
「その様子で分らない者がいないなら、そっちの方がどうかしているよ」
「ハハハ。そうかもしれませんね」
「で、何があったのかね?」
「これが喜ばずにいられませんよ。私とそう年齢に差はないですが、陛下もきっと喜んでくれる筈です」
「ほう。そのような人物が陳国に来てくれるとはな……」
「はい。どうぞ、こちらへ」
政務室に招かれた者は美男子で、背も高く、如何にも品が良さそうな人物だ。
目元は涼しく髭も立派で、見ただけでも確かに、その器量を覗い知ることが出来る。
「これは初めてお目にかかる。某は蕭何と申す。貴殿が陳国に仕えてくれるのか?」
「荀彧。字は文若と申します。毛玠殿の紹介で、こちらへ参上した次第」
「成程。君が来てくれれば、陛下もきっとお喜びになるであろう」
「しかし、私もまだ若輩者です。ご期待に添えるかどうか……」
「いやいや。某が保証しよう。是非、陳国に来てくだされ」
「では、お言葉に甘えさせて頂きましょう」
こうして陳国には英俊が揃い始めた。
さらに荀彧は次々と多種多様な人材を推挙していった。
それにより董昭、劉馥、陳矯、徐宣、梁習、呂虔、朱霊といった者達が、次々に陳国に集ってきたのである。




