外伝8 九江王の出陣
近頃、袁術は苛立っていた。
思うように事が運ばないためである。
都からは黄巾党の討伐を命じられているが、それどころではない。
南昌は頑強で孫堅でも追い返されたし、それ以上に兵糧も少ないからだ。
それで毎日、爪を噛む日々が続いている。
さらに江夏太守黄祖が勝手に南昌から兵を退きあげ、また江夏へ篭ったしまった。
理由はやはり兵糧不足のためだ。
何でも黄巾党寄りの水賊に兵糧を奪われたためらしいが、そんなことはどうでもよい。
あわよくば江夏の兵も減らしておいて、江夏も占領するつもりでいたからだ。
仕方なく、援助を申し出ていた廬江太守陸康に兵糧を借りようとしたが、飢饉続きのため不可能と言われた。
飢饉続きはお互い様にも関わらず、一方的な言いがかりである。
少なくとも袁術はそう捉えていた。
「名君顔した腐れ儒者が……。何が『民のためにご辞退を申し上げる』だ。ふざけおって……」
袁術は自身が名門の出自で、しかも高慢な性格でもあるため、憤慨していた。
さらに陳国の劉寵にも兵糧の貸し出しを断られ、兵を動かせないでいたのだ。
劉寵もまた名君で、陳国には飢饉に襲われた難民を抱え込んでいたため、致し方ないことだった。
ただ、劉寵も袁術のことを快く思ってはいないこともあるのだが……。
「余は袁家の跡取りぞ。民よりも余のほうが大事に決まっておろう。それなのによくも……」
甘やかされたお坊ちゃん育ちの袁術は我儘に育てられ、民のことなど全く考えていない。
しかし、その名家ということで人材は集まってくるし、淮南は袁家の御膝元でもある。
そのため寿春を占拠し、戦力や権威を高めたいのだ。
だが、その目論みは脆くも崩れた。
楊州牧を熱望していたのだが、何故か丹陽郡太守の劉繇が楊州牧に任命されたからである。
本来、揚州の治所は寿春なのにも関わらずだ。
同じころ、ライバル視している袁紹は冀州牧に任命されたから余計に腹ただしい。
「これというのも陸康が大人しく兵糧を渡さないからだ! 柴桑の孫堅に攻めさせろ!」
呂範や張勲らがこれを諌めたが、袁術の怒りは堪えきれなかった。
そこで柴桑の孫堅に廬江攻略の指令が下ったのである。
「あの馬鹿野郎! 何を俺に命令しているんだ!?」
怒ったのは柴桑に居た孫堅だ。
孫堅としても昨今の飢饉の状況は知っていた。
いや、ほぼ大陸全土に毎年、飢饉が蔓延しているから当然なのだ。
一部例外として、荊南四郡近辺しか例年通りの収穫がなされていないのである。
実はこれが司護の最大の強みなのである。
民は飢饉や疫病を「全て悪政のせいだ」と決めつける。
そのせいで大規模な反乱が起こるのだ。
そして就任以来、非公式ではあるが司護が長沙を治めていると、何故か近辺に飢饉や疫病は起こらなくなった。
まだ僅か二年ほどではあるが、仁君という評判もあり、名声が鰻登りになっている理由である。
話を元に戻そう。
柴桑から南昌へは距離があり、柴桑を放棄すれば一応、廬江には侵攻出来る。
袁術からしてみればタダ同然で手に入れた柴桑だから、捨てるのも痛くはない。
しかし、柴桑で落ち着いて政務をとろうとした矢先だから、孫堅にとってはたまったものじゃないのだ。
孫堅が政務室で気晴らしに酒を呷っていると、重鎮の一人朱治がやってきた。
「孫将軍。柴桑の街の整備についてですが……」
「もう良い!」
「……もう良いとは? 確かに荒れ果てておりますが、ここは内政をし、じっくりと」
「もう良いのだ! くそっ! これを見てみろ!」
朱治は書状を読むなり、顔面蒼白となった。
開墾、治水、そして街の整備計画が全て白紙に戻されたからである。
「こ、こんな無茶な……。何故、陸康殿を……」
「さぁな! 甘やかされたボンボンの考えることなんぞ、分ってたまるか!」
「大体、廬江を攻めたとしても、廬江だけで済む筈が……」
「ああ、そうだろうな。陶謙、劉寵、そして劉繇が出張るだろうさ」
「そんな事にでもなったら、多勢に無勢ですぞ」
「仕方ないから長江で舟遊びでもして、過ごすしかねぇな」
「それでどうにかなりますか?」
「南昌からは湯水の如く兵が湧いてきやがる。恐らく山越の連中が加担しているんであろうよ」
「それは間違いないでしょうが……」
「柴桑をそのまま置いて行くんだ。そうなると、その先は?」
「あっ!? 江夏!?」
「そうだ。ほとぼりが冷めるまで、まずは長江で舟遊びだ。それと……」
「何でしょう?」
「劉繇宛に一筆書く。『当方は陣を敷くだけで何もしない』とな……」
「……信じるでしょうか?」
「問題はそこだ。誰か弁舌巧みな奴はいねぇか?」
「弟君の孫静殿であれば信用しましょう……」
「あいつがか? それだけじゃ無理だと思うが……」
「はい。ですから、人質となってもらうしか……」
「……ったく。そんなこったろうと思った。しかし、それしかねぇか」
「はい。他に手立てはありません」
「仕方ねぇな。よし……早速、孫静を使いに出そう」
白刃の矢を立てられた孫静は渋々、劉繇の下へと送られた。
兄孫堅からは「しばらく遊んで来い」と言われたが、あまり気が気でない。
孫堅はその気でも、袁術がまたどんな無茶な要求をするか分らないからである。
孫静が秣陵に着くと、既に呉郡の豪族の一人である徐真が、孫堅からの依頼で首を長くして待っていた。
徐真は孫堅の妹を妻にしており、孫静とも義兄弟の間柄となる。
それに年齢は同じなので、気心は知れている。
ただ、妻である孫堅の妹と孫静はあまり仲が良くない為、お互いを字で呼び合うのは躊躇っていた。
「これは徐真か。いやぁ、君が居てくれるなら心強い」
「そりゃあ義兄さんの為ですから、当然ですよ」
「ところで劉州牧の評判はどうだい? 仁者と聞いてはいるんだが……」
「誠実な方ですし、良い人ですよ。我々、一豪族にも配慮してくれています」
「それなら良いがね……。しかし、文台兄さんにも困ったもんだ。あんな奴の下につくから、俺まで巻き込まれたよ」
「文台義兄さんは野心溢れていますからねぇ……。けど、確かに選ぶのなら、私でも袁術かなぁ……」
「ほぅ……どうしてだい?」
「どうしてって……そりゃあ袁家が強大だからですよ。確かに劉繇さんは王室の血筋だが、現在の世の中、ここいらで血筋ってだけじゃねぇ……」
「けど、仁者なんだろ?」
「そりゃあねぇ。けど、袁家はでかい。それに寿春や汝南なんぞは御膝元ですよ。地元の理は袁術にありますからねぇ」
「あんなに酷ぇボンボンなのにな……」
「それと噂じゃ、兄の袁紹に凄い対抗意識を燃やしているとか……」
「人一倍、自尊心が強いからなぁ……。袁紹は兄とはいえ、妾腹……しかも下女だっていうじゃねぇか」
「正室の子である袁術には、それが堪らないんだろうね」
「しかも先に冀州牧になってりゃ、そりゃあ焦る気持ちもあるだろうよ」
「けどなぁ……。こっちの身にもなって欲しいですわ……」
袁術の後始末は孫堅が。
そして、さらにその後始末には孫静らがつけることになる。
これからも先、面倒な後始末を押し付けられると思うと、両者とも気が重くなっていくのは仕方ないことだ。
そんな両者は足取り重く、政庁へと向かった。
一方、劉繇は劉繇で孫堅の使者が来たと聞き、従事の孫邵と意見を交していた。
何故、孫堅の手の者が来たか、疑問しかなかったからである。
「はて? 一体、何の用があって来たと思うかね? 長緒(孫邵の字)よ」
「分りませんな。孫堅と言えば、袁術の配下で一番の驍将です」
「うむ。袁術などという匹夫の下に置いておくには惜しい男だ。何れ漢の未来を背負うぐらいの者だと思うがな」
「ですが、仕方ありますまい。孫堅には孫堅の事情がありましょう」
「うむ。地方の王たちはこぞって黄巾賊から逃げる始末だしな」
「しかし、未だに陳国の劉寵様もおります。そして、昨今では劉虞様が王になられました」
「確かにそうだがな……。おっと、雑談している暇はないぞ」
「そうですね。ここで話していても仕方ありませぬ。まずは両者をお呼びしましょう。それからでも遅くはありません」
「そうだな。ここであれこれ考えても時間が過ぎるばかりだ」
劉繇が謁見の間で応対し、書状を見せてもらうと、劉繇は目を疑った。
袁術が近く廬江を襲うとあるのだから、寝耳に水である。
「ばっ……馬鹿な。何を考えておるのだ? これに書いてあることは真か? 孫静殿」
「はい。そのため、兄孫堅は柴桑から引き払い、廬江を目指しております」
「……今は兵糧を出来るだけ無駄にしたくない時期だというのに」
「申し訳ございません。ですが、これは……」
「ああ、分っている。匹夫袁術の差し金なのは……」
劉繇は溜息をつき、孫静を表向き客人にすることにした。
要するに人質なのだが、劉繇に孫静を殺す気は全くない。
一方の孫堅は廬江から五十里(25km)ほどの長江沿いの村に駐屯した。
村では兵達に「くれぐれも略奪などの行為は無用。犯した者は斬る」と通告したため、特に村人には被害はない。
ただ、戦々恐々するのみである。
そして袁術はというと寿春から廬江へ軍を差し向けていた。
橋蕤を主将。紀霊を副将とし、その数は二万だ。
事前に廬江太守陸康は「孫堅からの攻撃はない」と密書を受け取っていたが、袁術の軍は違う。
陸康は急ぎ軍議を開き、対策を練ることにした。
だが、黄巾賊討伐のために兵を多く失い、動員出来る数は一万にも満たない。
頼れる家臣達もそれ程多くなく、陸康は溜息混じりにこう家臣に告げた。
「余の首一つで収まるので済むなら、それも一つの手だ。余も既に六十を過ぎた。天命と思い、後事を誰かに託そうと思う」
すると、家臣の中で一番の末席に居た人物が声を荒げた。
「何を弱気なことを! この俺に任せて下さい! 元は黄巾賊であったが、今は陸康様の為に命をかけます!」
男は顔に刺青がある大男で、黄穰の下で働いていた男だ。
鉄棒を得物とし、散々漢軍を悩ましていた男の一人である。
人殺しの咎があったが、罪を許されて陸康の家臣となっていた。
「俺も同様だ! 袁術なんぞ怖くねぇ! 俺も行きますぜ!」
さらに元水賊の男もそう言って立ち上がった。
刺青の男と同じく罪を許され、帰参した者である。
「おお……しかし、両名とも武名があるとはいえ、敵は名高き猛将。無理と分かれば退却せよ。余の首でどうにでもなる」
「陸府君! 情けないことを言わないで頂きたい! 我ら両名で必ずや退けてみせます!」
「くれぐれも用心せよ。頼むぞ」
「はっ! この陳武! 必ずや役目を果たしまする!」
「同じく英布! 敵将を討ち取ってご覧にいれまする!」
さて、陳武と英布の両名は各々五千の兵を引き連れ、一路北北東へと向かった。
陳武の兵は元水賊、英布の兵は元黄巾賊と、全て勝手知ったる者達で構成されている。
そのため手足のように動き、連携には自信もあるし、士気も高い。
そして二日ほど北北東に進み、湿原地帯に出るとそこに陣を張った。
そこには砦もあり、大軍を防ぐには丁度良い場所だからである。
砦は湿原のほぼ真ん中に位置し、島と呼ばれている。
その島と呼ばれる砦の丁度、対角線上に廬江、寿春に伸びる道がある。
つまり、その島を有している方が、この戦場で主導権を得られるのだ。
砦は廬江側のものなので、既に若干の守備兵が、砦に陸の旗をはためかせている。
そこで砦中心に陣を敷き、砦の辺りには英布が、左右の湿原地帯には陳武の兵が展開した。
湿原はたまに膝下までの深さがある場所もあり、小船などを使わないと中々移動できない。
そこで陳武らは簡単な筏を作り、対策を講じていた。
一方の橋蕤らは寿春から南西方面へと進軍していた。
橋蕤はあまり乗り気でなく、なるべく兵を損なわないように心掛けている。
というのも、背後の陶謙、劉繇らが気になるからである。
副将の紀霊はそうでなく、やる気満々で手柄を欲していた。
紀霊は三尖刀を得物とし、一騎打ちで破った者は数知れずという豪傑だ。
また、もう一人豪傑がおり、その名は兪渉。
彼もまた、手柄を欲している者である。
袁術の軍が進んで行くと、丁度進路の先に小さい砦があり、既に陸康の軍が砦中心に陣を敷いていた。
そして、砦の外にいる顔に刺青をした豪傑が怒鳴ってきた。
「やい! ここは天下の仁君、陸康様の領地だ! 賊にも劣る連中が足を踏み入れる場所じゃねぇぞ!」
それに嗤ったのは紀霊である。
顔に刺青をした罪人を陸康が取り立てていると知り、おかしくなったからだ。
だが、嗤っていても仕方ないので、紀霊はその怒鳴り声に呼応した。
「罪人まで使うとは仁君が聞いて呆れるわ! 余程、人がいないと見えるな!」
「やかましい! 俺は既に罪を許されたから罪人じゃねぇ! てめぇらは賊以下の賊、言わば卑賊だろうが!」
「何? 卑賊だぁ?」
「そうではないか! お前らは、そもそも黄巾党を倒すために、朝廷から派遣されて来たのであろう! それを勝手に私物化し、賊にしちまうとは呆れ果てた卑しい賊! つまり卑賊だ!」
「やかましい! この紀霊様が直々に貴様の首をとってやるから、有難く思え!」
「おう! この英布! 貴様なんぞ数合で倒してみるわ!」
「何? 英布だと?」
紀霊は戸惑った。
顔に刺青した罪人で、名は英布である。
古の九江王、黥布と同じだから当然だ。
紀霊が戸惑っていると、脇から勝手に馬を走らせ、英布に向かって行く者がいた。
兪渉がまごつく紀霊を見て、抜け駆けしたのだ。
「ここは紀霊殿が出る幕ではない! この兪渉に任せよ!」
そう言って英布のところに行き、数合を討ちあうと、英布の鉄棒が兪渉に命中し、兪渉は帰らぬ人となってしまった。
「いけねぇ! これじゃあ、手柄が分らねぇじゃねぇか! もっとマシな奴を寄越せ!」
砦の辺りには笑い声が湧きあがった。
元々賊兵らしく、下卑た笑い声であるが、それが英布をさらに恐ろしく見せるのに効果的であった。
そして、数日間双方とも睨み合いをした後、双方とも兵を退いた。
寿春に陶謙と劉繇が攻め込んだからである。




