外伝6 帝の激怒
蒯越が南へ向かった頃、一方の左豊は北へと向かっていた。
南陽を抜け、汜水関に差し掛かると左豊は安堵の表情を浮かべた。
未だに南陽では黄巾党の残党がいるからである。
黄巾党は実際、略奪行為などはまず行わない。
元は平民が多く、太平道の教えに殉じようとしている者達だからである。
だが、その一方で黄巾党を名乗り、略奪をしている山賊なども多く、それが黄巾党を貶めている理由の一つであった。
また、それらの野盗らは黄巾党に紛れていることもあり、余計に混乱を生じさせているのである。
汜水関では横柄で賄賂を強要する役人も多いが、左豊相手にはそうはいかない。
逆にお世辞を言い、取り入ろうとする者が多いのだ。
左豊はそのような役人を「下衆」と蔑むのだが、これは所謂、同族嫌悪であろう。
丁度昼過ぎに洛陽に到着し、そのまま左豊は朝廷へと向かった。
早く司護に罰を与えたい一心からである。
そして、帝に会った途端、左豊はワンワンと泣き出したのだ。
帝が訝しんでいると、頃合いを見計り堰を切ったように言葉を吐き出し始めた。
「……おお、陛下。この左豊、只今戻りました」
「……どうした? 小黄門。何をそんなに泣いておるのじゃ?」
「この左豊。悔しくて悔しくて堪りませぬ。あの豎子めは私だけでなく、陛下にまで悪口雑言を……」
「何? 朕の? 詳しく申してみよ」
「はい。この私を佞臣や去勢者と言って蔑み、陛下を逆賊とまで罵ったのです」
「……何故、朕が逆賊呼ばわりされたのじゃ?」
「はい。それは司護が言うには『漢の高祖こそ元はと言えば逆賊。逆賊に施す理由はない』などと……」
「な、何だと!?」
「こうも言っておりました。『逆賊なら宮殿ではなく、筵でも敷いて寝るが良い』などと……。おお、何と畏れ多い……」
「朕ばかりか……おのれ! あの司護なる匹夫を討伐する者はおらぬのか!?」
帝は激怒した。自分ばかりか偉大な高祖劉邦までも愚弄されたからである。
左豊の讒言は当然、事実を歪曲させたものだが、事実の部分も少しは残っているため性質が悪い。
しかし、運が良いのか悪いのか。将兵はほとんど洛陽にいない。
いるのは禁中の近衛兵や洛陽の守備兵である。
これらを動かすことは自殺行為となる為、まず動かすことは出来ない。
涼州では韓遂、王国らが、中原では張純や烏桓族、山東や豫州、揚州では黄巾党らが蜂起している。
それらに全て派兵してしまったせいで、どうにもならないのである。
無い袖は当然、振れない。
まだ若い帝はこう嘆き、悲しんだ。
「嗚呼、もう朕に忠臣はおらぬのか? 何故、朕ばかりか祖の悪口を許さねばならぬのか……」
この事を聞いた司空楊賜と太傅袁隗は嘆息した。
左豊の行状は二人にとってよく知るところである。
だが、ここで諌めても逆上した帝の怒りは収まらぬだろうし、二人にとって司護を弁護出来ない理由もあった。
それは寿春に駐屯する袁術が、司護を長沙太守にしないように言伝をしているためである。
野心家でもある袁術は柴桑を黄巾党から奪取した後、南昌を経て長沙に進軍することを望んでいた。
その理由は長沙が洛陽に次ぐほどの繁栄ぶりを見せているからである。
部下から長沙のことを聞いた途端、急に袁術は長沙を意識し出したのだ。
実のところ、袁術は全兵力を柴桑に向けた後、長沙に侵攻するつもりでいた。
寿春周辺の黄巾党は陶謙、劉繇らに押し付けるつもりでいたのである。
だが、陶謙は徐州、青州の黄巾賊討伐で兵を割き、劉繇は周辺の海賊退治の名目で断ってきた。
勿論、海賊討伐は名目上のもので、本当の理由は袁術が嫌いだったのである。
司護のことは嫌いではないが、特に司護を意識してのものではない。
この頃から既に袁術と劉繇の間には既に亀裂が入っていた。
そして袁術の廬江侵攻の際に、それは大きく裂かれることになる。
話は楊賜と袁隗のところへ戻る。
両名は長沙での司護の兵数を聞き、現段階での討伐は不可能と考えていた。
司護を討伐するには、まず黄巾賊を平定せねばならないからである。
十常侍を始めとする宦官らも、その事は知っている筈である。
だが、十常侍らも長沙の繁栄ぶりを噂で聞き、これを奪取することを目論みはじめていたのだ。
周辺には他に誰もいないことを確認し、まず楊賜が口を開いた。
「(楊賜)太傅殿、儂ももう齢だ。どう帝をお諫めしようが、考えておるが、死をもってお諫めせねばならぬのかもしれん」
「(袁隗)司空殿、早まってはなりませぬ。司空殿が死を賜わったところで、宦官どもがいる限り無駄死ですぞ」
「しかし、(何進)大将軍殿はあのご様子。如何ともし難い」
「左様ですなぁ。それに、あの賊太守めのことは袁術殿が討伐すると豪語しておりますが……」
「袁術殿は大局を見ておらぬ。配下は確かに恵まれておるようだが、長沙となれば都(洛陽)から程遠いではないか」
「如何にも。私も袁術に兵を授けたのは、宦官の権威に対抗するためです。ところが何を考えているのやら……」
「うむ。荊州の劉使君はどう考えているのであろう?」
「長沙に対して警戒はしているようですが……。あの方も何を考えておるのやらです」
「出て来る言葉は愚痴ばかり……。どうしたものでしょうなぁ……」
このように、この両名も特に「司護を長沙太守にしたい」とは考えていなかった。
だが、宮中で司護を快く思わない者だけではない。
曹操の父、大司農曹嵩である。
以前、野盗に襲われたところを救われた恩義を感じていたのだ。
だが、曹嵩は帝が司護に対し大変な不興を買っていると知るや、司護を推挙することを取りやめてしまった。
自身ばかりか曹操に害が及ぶと考えたためである。
その為、司護に対し「長沙太守に任命させよう」と口にするものは宮中の何処にもいない状況となっているのだ。
曹嵩はいつ「司護を長沙太守に推挙しようか」と時期を見計らっていた。
だが、その時期は左豊の讒言により潰えてしまった。
帝が激怒されたことを聞き及び、曹嵩は司護に対し申し訳ない気持ちで帰路へとついた。
屋敷に着くと、そこには息子の曹操が帰宅していた。
手傷を負い、一時的に戻っていたのである。
曹嵩は曹操を見るなり喜んで、上等の酒を曹操と共に飲みだした。
曹操は酒の味を舌鼓しながら、近況を色々と話し出した。
「父上。確かに黄巾党は意外と手強い。だが、それも長くはありますまい」
「ほう。何故、そう言えるのだ?」
「皇甫嵩殿、朱儁殿という名将がおります。しかも、近頃面白い人物と出会いました」
「ほう? して、その者の名は?」
「劉備。字を玄徳と申し、配下に関羽、張飛という豪傑を従えております」
「ほほう。劉玄徳とな。官位は?」
「それが義勇兵の雇われ隊長で官位はない。ですが、盧植殿の弟子で、公孫瓚殿とは知己の間柄です」
「ふむ。官位なしか……。だが、確かに官位が無い好漢はおるな。実はこの儂も一人知っておる」
「ほほう。父上が……。して、その者の名は?」
「姓を司。名を護。字を公殷と申す者だ」
「……その名は何処かで聞いた。あっ!? まさか! あの!?」
「そうだ。賊太守だ」
「血迷ったのですか? 父上ともあろうお方が」
「儂はまだ血迷うてもボケてもおらぬ。それにお前さんが良く知る王儁君も、今やその賊太守の家臣だ」
「ええっ!? まさか!」
「本当だよ。儂もまさかと思ったがな」
「子文(王儁の字)君があの賊太守の。……ううむ」
「ハハハ。流石の孟徳もこればかりは驚いたようだな」
「しかし、子文君の話だけではありますまい」
「良く分かったな。実は儂は会ったことがあるのだ」
「何と!? 何処でですか?」
「沛国譙県でだよ。郷里から親類への挨拶がてら方々を廻っていてな。そして、ここに戻る途中、出会ったのだ」
「何故、長沙の賊太守が……?」
「それは儂にも分らん。ただ、儂が野盗に襲われた時に、司護殿は二人の豪傑に命じて儂を救ってくれたのだ」
「父上の恩人は私の恩人でもある。私も一度、会うてみたいものですな」
「お主の場合はそれだけではないであろう?」
「アハハ! 父上には敵いませんな!」
曹操も実は以前から司護には興味があった。
北方の地でも賊太守の異名で知れ渡ってきているのである。
しかも、配下の兵は規律正しく、略奪などは一切なく、その辺の官兵よりも練度が高いという。
また「賄賂嫌いの清貧な人物」とも言われ、黄巾賊が襲われた地では「漢が駄目なら賊太守」など噂されているのだ。
素性は良く分からぬが、元は一介の村名主の息子という出自もまた、民が親しみやすいところであろう。
「劉備といい、司護といい、そして袁術の下で名を上げている孫堅といい、天下は広い。俺もこのままでは終わらぬぞ」
曹操は曹嵩が話しているのを聞きながら内心、そう思っていた。
そして、曹嵩がやや自慢げに司護のことを話しているので、少し嫉妬心も生じるが、それ以上に会ってみたくなっていったのである。
丁度その頃、曹操にもその名が浮かんでいた孫堅だが、柴桑へと渡っていた。
南昌に陣取る黄巾賊討伐の為である。
当初、孫堅は朱儁の配下として各地を転戦していたが、袁術に半ば強引に引き抜かれた形で袁術の下となっていた。
孫堅としては断る選択肢もあったが、敢えて袁術の下に就くことを選んだのである。
第一に寿春は孫堅の故郷である呉郡に近いこと。
第二に孫堅には野心があり、朱儁よりは袁術の方が出世しやすいと思ったためである。
朱儁は名将ではあるが家格がなく、袁家であればその縁故を利用出来ると思ったからだ。
南昌にいる黄巾賊は兵が多く、兵糧もそれなりに貯め込んでいたため、既に膠着状態となっていた。
また南昌には張角の弟、張梁がいるため士気も高い。
それに参謀として張梁に助言している波才も一度は破っているが、決して侮れない人物である。
柴桑の城の一室で、孫堅は地図を見ながら先のことを考えていた。
強引に南昌を落としたとしても、その次に進出する長沙はもっと手強いと考えていたからである。
正直な思惑として、孫堅は長沙に手を出したくなかった。
理由は二つあり、まず長沙の民は司護に靡いており、山越族や長沙蛮などまでも味方に取り込んでいるという点。
次点として南昌の黄巾賊の残党が長沙側につき、後方から挟み撃ちにされる恐れである。
「あのボンボンめ! 俺が古の項羽か何かとでも思っているのか!? 無茶な要求をしやがる!」
内心、孫堅は袁術に怒りを感じていた。
長沙が繁栄しているために袁術が欲を出し、欲しているのが分っているからである。
しかも長沙から故郷の呉郡は、近いとはお世辞にも言えないのだ。
「……弱ったな。こんな事なら朱儁将軍の下におれば良かったわ。だが、今更後悔しても遅いしな……」
そう呟いていると、部屋に程普が入ってきた。
程普は韓当、朱治、黄蓋と並び、孫堅にとって無くてはならない宿将である。
「おお、徳謀(程普の字)。如何致した?」
「如何致したではござらぬ。このままでは兵糧が尽きますぞ。それに兵の士気にも差し障ります」
「そんな事は分っている。しかし、南昌は兵も多い上に要害だ。簡単に落とせる訳がなかろう」
「何故、わざわざ柴桑をお取りになったのですか?」
「俺もあのボンボンにやめさせようとしたんだがな。甘やかされ過ぎたせいか、人の言う事を聞きゃしねぇ」
「では、どうなさるおつもりで……?」
「今、呂範殿がボンボンに掛け合って劉表殿の援軍要請待ちだ」
「劉使君が出しますかな? しかも、江夏太守はあの引きこもりではないですか」
「ハハハ。手厳しいな。だが、事実だから仕方ない」
勤務中にも関わらず孫堅は手元の酒をぐいと飲む。
酒でも飲んでなければやってられないといった状況だ。
いつもなら諌める程普だが、この時ばかりは同じ気持ちなので、そこは無視をすることにした。
「そう言えば徳謀よ。何時ぞや君は、あの賊太守とやらに会ったそうじゃないか」
「ええ。まさか『あのような場所で』と思いましたが」
「どんな奴だ? 賊太守とやらは」
「妙な奴でした」
「妙な奴?」
「はい。泣きながら何でも『孫堅殿になら長沙太守を譲っても良い。私の死んだ後に取り計らってくれ』などと、とんでもないことを」
「アハハハハ!! 賊太守の奴。俺を買いかぶり過ぎだ!」
「しかし、悪い気分ではないでしょう?」
「当然だ! そこまで買いかぶってくれているなら、有難く長沙太守をお引き受けしたいところだしな」
「だが、あ奴め。そんな事は無理なのは奴も知っている筈」
「……だろうなぁ。俺が長沙を貰ったら、あのボンボンが何を仕出かすか分らん。だから君に、そんな馬鹿げたことを言ったのであろうよ」
「だが、悪い人物には見えませんでした。表面上なだけとは思いますが……」
「そうだな。でも君の言う通りなら、さぞかし愉快な奴のようだ。俺も会ってみたくなった」
孫堅はそう言うと、窓から遥か西南の方角を見た。
丁度その先に司護がいる長沙がある。
敵として会いまみえるか、それとも味方として会いまみえるかは分らぬが、一度は会ってみたいと思ったのである。




