外伝74 交州戦役(後編)
封陽にて包囲をしていた董承の軍勢に楊奉らの軍勢が合流したのは、湞陽での敗北から十日以上過ぎた頃だ。
軍勢の規模や道の関係もあるが、それだけ湞陽と封陽は離れている。
そして報告を受け取った董承は激怒し、楊奉を散々罵倒した挙げ句、こう衛士に叫んだ。
「今すぐこの匹夫の首を刎ねよ!」
これには当事者の楊奉だけでなく、他の諸将も皆、叩頭して許しを願った。
その中には郝普も含まれている。
「董別駕様(董承)。ここで楊将軍を斬れば、我が軍勢の士気にも関わります。何卒、ご容赦下さい」
「何故だ! 郝普! こ奴は一度だけでなく、二度も惨めな敗北を重ねた愚物だぞ!」
「お怒りはご尤もでございます。ですが、これで司護が遂に馬脚を現し、張角と同等の佞者の類であることが証明されましたぞ」
「それがどうした!?」
「これは重要なことでございます。我らは忠臣として必ず司護を葬らねばなりません。その為には、ここで自ら戦力を削ぐのは些か短慮かと思われます」
「…ううむ」
本来ならば最初から封陽に全軍を投入しておけば、湞陽の敗戦は無かった筈である。
それを欲に釣られて湞陽攻略を命じたのは董承だ。
「何れにせよ。このまま封陽に留まれば我らは窮地に立たされます。ここは…」
「…致し方ない。ここは引き返すぞ。まずは広信に向かうことにする」
広信に向かう理由は、広信が蒼梧郡の地所というのもあるが、要衝の地でもあるからだ。
ここを取られると、南海郡との連絡もままならない状況になる。
それ故、真っ先に向かわねばならない。
だが広信に向かう途中。またもや凶報が董承の元に舞い込む。
交州兼南海郡の地所、番禹が陥落したという報告だ。
郭援、鐘進らが反旗を翻し、更には山越の潘臨らがそれに合流。
番禹を取り囲んだ後、番禹から李楽が内応してしまったのだ。
宋果が抵抗したものの、あっさりと郭援に斬られてしまったという。
「何という愚か者どもだ! 漢室への恩義を踏みにじる畜生どもめ! 今すぐ皆殺しにしてくれよう!」
いきり立つ董承だが、反旗を翻した番禹の軍勢は三万弱だ。
一万五千ほど兵の数は勝るが、湞陽から豫章の軍勢がそのまま進軍しているという報告もある。
そうなれば数の上でも倍に近い差が開き、退路もままならないとなれば士気も乱れる。
更に凶報は続く。
南海郡の龍川が賈琮率いる会稽の軍勢によって陥落し、城主の蘇代が殺されたという報告だ。
龍川は南海郡でも北東に位置し、揚州の会稽と一番近い防衛の山岳地帯の要衝である。
ここが陥落されたとなると、次に向かう先は博羅か増城。
そして、その先は番禹ということになる。
その数およそ三万。
しかし、今回ばかりはそれと同時に吉報も齎された。
区連が士燮と交戦状態に入ったというものだ。
敵同士がお互いに攻撃しあうのは、如何なる時も有難いものである。
「この上は致し方ありません。まずは蒼梧、南海の両郡を放棄し、四会で駐屯する梁龍らを招き入れ、西へ向かうのです」
真っ先に董承に対し、こう助言したのは郝普である。
郝普自身の保身も考えた結果から出た助言だ。
「ぐぐ……」
北、北東、東の三方向から攻められれば、当然向かう先は西に限られる。
都合が良いことに、高涼郡は区連が士燮と交戦状態に入ったことで、混乱しているとの報告もある。
更に高涼郡の北に位置する鬱林郡も区連を支持する烏滸蛮が蜂起し、内乱状態となっていた。
四会にいる梁龍に董承の指令が下ったのは、その五日後のことだ。
四会もまた交通の要衝であり、北には中宿、西には高要を経由して広信、東南には番禹がある。
因みに中宿は湞陽の真南にあるのだが、この時点では既に張曼成らが率いる豫章の軍勢に陥落されていた。
「ふん。ここまで自分の首を絞めるとはな。まぁ愚帝の外戚じゃあ仕方ねえか」
梁龍は董承を嘲笑すると、配下の烏滸蛮の兵に命じて周辺の村々を略奪し、全てに火を放った。
ここでも抵抗する者は容赦なく殺した上である。
文字通りの焦土作戦であるが、梁龍からすれば特に馴染みのない土地なぞどうでも良い。
「よし。これで番禹や中宿から来る連中の進軍も少しは滞るだろう。それじゃあ広信に向かうとするか」
後先を考えなければ、この焦土作戦は最も効率が良い方法である。
そう。住民のことを露ほども考えなければだが……。
そして梁龍は、広信の途上にある高要、端谿でも同じことを繰り返した。
かくして広信には十万近い軍勢が集った。
銭も食料も十分過ぎるほどある。
ただ、このまま西へと向かうには、広信で敵をある程度、引き留めなければならない。
そこで董承は蒼梧太守の史璜を呼びつけた。
「貴殿を呼んだのは他でもない。この広信にて貴殿に死守して欲しいのだ」
「…お、お待ち下さい。それでは私に死ねとおっしゃいますのか?」
「安心せよ。余は情に篤い。貴殿の家族を始め、広信にて死守する兵達の家族も我らと共に西へ向かうのだよ」
「なっ…」
「…分かっていると思うが、降伏などするなよ。貴殿の家族や広信の兵の家族は殿軍に置くのでな」
「……」
要は人質の盾である。
降伏すれば、知れ渡った直後に家族は皆殺しとされるのだ。
「嫌だ! おっとう! おら、おっとうの傍にいる!」
このような叫び声が辺りに木霊する。
広信の兵は皆、涙を流しながら両親や妻、子供に最後の別れを告げる。
ここに残る以上、猛者達が率いる十倍の兵と戦わねばならない。
それなればどさくさに殺される危険が極めて高いのだ。
史璜も妻と我が子らと別れを告げる。
史璜も賄賂などは受け取ったことはあるが、その額は董承らに比べたら微々たるものだ。
それ以上に搾取されるので、生活のために受け取っていただけである。
こうして広信には史璜と僅か三千の兵が取り残されることになった。
皆、覚悟を決め、来襲するであろう軍勢を待つことになった。
「良いか! これは漢のためではない! 家族のためである! 一人でも多く敵を倒し、家族を守るのだ!」
「おおう!」
悲壮感漂う兵らは皆、鬼となって決意を表した。
敵の多くは董承に恨みを抱く者達で編成されている。
それらを相手にするということは、万が一にも生きて家族に会えないということである。
「史府君。それではご命令を」
二人の若い将校が拱手して史璜の判断を仰ぐ。
「王都尉、李都尉。すまぬな…。私が不甲斐ないばかりに…」
「何の。我ら両名とも既に両親や妻、息子らの別れも済ましております」
「そうですとも。それに我ら両名は史府君に取り立てられた恩義がある身。死地に赴くなど怖れてはおりませぬ」
史璜は思わず目頭が熱くなり、頬には涙の雫が垂れる。
そして出来る限りの大声で、こう叫んだ。
「今宵は大いに喰おう! そして飲もう! 皆! 腹が減っては戦さは出来ぬぞ!」
「おおう!」
兵士達は皆、久しぶりの肉を味わい、酒を飲んだ。
そして、兵士の一人は仲間の兵士にこう呟いた。
「久しぶりの肉だが、気のせいか少し塩加減がきついな」
「ハハハ。そいつはお前さんの目がチビッているからさ」
「何を!?」
「怒るなよ。どうせなら今の内にチビっておこうぜ。残したガキどもに『戦場でチビった』なんて後々知れてみろ。格好悪いったらありゃしねぇ」
「ハハハ! 確かにそりゃそうだな!」
三日三晩の宴会を終えると、王都尉は北の砦に、李都尉は東の砦に向かった。
それぞれの兵は五百足らず。
少しでも時間稼ぎするためである。
一方、広信から北に位置する封陽では女傑、趙媼が象兵を引き連れて入城した。
それに合流するのは徐晃、李通ら猛者が率いる二万の軍勢だ。
象は趙媼が乗るものも含めて僅か十頭ほどであるが、それでも驚異には違いない。
しかも象の前面には木や蔦などで補強され、前面からの矢は役に立たない仕様が施されている。
「いよいよ来たか…。しかも象までいるとは…」
王都尉こと王真は、その軍勢の多さと異様さに舌を巻いた。
砦に籠る兵達も死を覚悟していたが、その概容に思わず飲まれてしまう。
「おい! 木っ端ども! さっさと雁首揃えて出てきな!」
象の頭上でがなり立てたのは趙媼だ。
狼牙棒という得物を右の小脇に抱え、左手には妖魔の形相が全面に描かれた巨大な盾を持っている。
巨大な盾は無数の矢を無効化し、相手を萎縮させる効果を持つのだ。
「下がれ! 我らは卑しくも漢の兵だ! 朝敵に降る訳にはいかぬ!」
王真はそう叫ぶと兵に命じて一斉に矢を放った。
その結果、被害は微塵もなく、ただ趙媼と象使いの兵を怒らせただけであった。
「はん! ならばお望み通りに全員、踏みつぶしてくれるわ!」
趙媼が乗る象の中でも一際大きい巨象は、無数の矢を物ともせずに突進する。
そして門を轟音と共に吹き飛ばし、釣られて門を支えていた壁までも崩れた。
それに伴い、兵士の数人は下敷きとなって肉片と化してしまった。
「おい! 野郎ども! あのアマだけに手柄を取られるんじゃねぇぞ!」
「おうさ!」
李通も侠あがりの兵と共に我先と続く。
暴れる象は矢倉をいとも簡単になぎ倒し、矢倉にいた弓兵は諸共に落下する。
中にはそれでも運良く生き残った者もいたが、その者達は象に踏まれるか、李通の手下に止めを刺されるかの二択しかない。
「こうなれば賭けるしかない…」
王真は象の頭上にいる蛮族の猛女に対し叫んだ。
「そこにいる野卑な化け物め! 俺と勝負をしろ!」
すると化け物呼ばわりされた趙媼は瞬時に鬼の形相となり、巨漢に似合わずヒラリと地上に降り立った。
「今、言ったのはテメェか!」
「そうだ! この化け物め! 覚悟しろ!」
「アタイを二度も化け物呼ばわりしやがったな! ブチ殺してやる!」
趙媼は物騒な得物、狼牙棒をブンブンと振り回しながら王真めがけて駆け寄ってくる。
王真は一騎討ちの間に時間を稼ぎ、一人でも多くの兵を逃がすつもりであった。
しかし、それは儚い希望であった。
怒りに身を任せた趙媼の狼牙棒は、受け止めた矛ごと王真を潰してしまったのである。
「アハハハ! ザマァみろい! さぁて、こいつらどうせ皆、人非人どもだ! このまま皆殺しにするよ!」
既に戦いというより、一方的な虐殺としか言い様がないものであった。
籠っていた兵は皆、良き息子であり、良き夫であり、そして良き父親だ。
しかし交州に属する兵ということで、そういった事実に荊南の軍勢は誰も気づかなかった。
そして同様に東の砦に立て籠もる李都尉こと李鵬やその兵も、ほぼ同じような末路を辿ることになる。
「そうか…ついに来たか…」
史璜は覚悟を決めたが、それに待ったをかけた者がいた。
従事中郎の祝奥という者である。
「史府君。北や東の砦の報告から察するに、ここで籠城しても数日も持たないでしょう」
「祝奥よ。それでもやらねばならぬ。それは君も分かっている筈だ」
「いえ。我が舌先で遅らせることも出来ます」
「…可能なのか?」
「はい。その間に史府君は南方へ落ち延びて下さい」
「…それは出来ぬ」
「南方に逃れ、連中の攪乱を狙うのです。そうすれば少しはマシかと…」
「いや。儂は残る。そして祝奥よ。それなら儂にも策がある」
「……どう致すので?」
「君は出来ることをすれば良い。頼むぞ」
「…御意」
東から攻め込んできた軍勢の総数は十万に近い。
途中、豫章の軍勢と南海、会稽の軍勢が合流し、膨れあがっていた結果だ。
そして幸いと言うべきか、祝奥と東から攻めてくる者の一人、郭援とは旧知の中だ。
祝奥は東からの軍勢の陣営に使者として出向くと、現状を有りの儘報告した。
そして加えて広信への攻撃の猶予を訴えた。
ただ、ここで些か問題がある。
それは東の軍勢が攻勢に出なくても、北からの軍勢がそれに応じるかだ。
北からの軍勢には象兵もおり、東からの軍勢よりも遙かに危険である。
そこで豫章の軍勢を率いる張曼成が祝奥に対し、こう述べた。
「その方、祝奥と言ったな。俺と一緒に北の陣営へ出向いてくれるか?」
「どうなされるので?」
「俺も連中に掛け合ってみる。上使君の軍勢なら、少しは聞いてくれるかもしれぬ」
張曼成は祝奥と数人の供を連れ、広信から三十里(約15km)ほど離れた陣営に訪れた。
既に豫章からの援軍は満寵を通じ、連絡は行き届いていたので、問題なく取り次がれた。
「ようこそお越し下さった。某は監軍を任されている都尉の徐晃と申す」
「早速の謁見の儀、真に有難い。南方将帥の張曼成だ」
南方将帥とは独自の称号である。
黄巾党は挙兵した際、方と呼ばれる三十六の師団に分かれており、現在でもそれに関する称号が使われている。
「して、南方将帥殿。貴殿、自ら赴いた理由だが、どういったものですかな?」
「うむ。暫く広信の攻略を見合わせて貰いたい」
「それは難しいですな。上使君(司護のこと)からは早急な攻略を求められております」
「しかし上使君は『大罪を犯した者でない限り許す』ともおっしゃっている筈ですぞ」
「…事は緊急を要するのは貴殿も知っておろう?」
「それは伺っておる。しかし、無用な殺生は我らの教義に反する。上使君も我らと同じ志である故、我らは貴軍にお味方しているのだぞ」
「確かにそれはそうですが…」
「ならば猶予を下され」
徐晃も猶予を与えたいところである。
しかし味方には、ただでさえ血気盛んな連中だけでなく、巨象を操る蛮勇女が暴走する危険性がある。
いくら大斧の徐晃でも、この蛮勇女を宥めるのは至難の業だ。
「ならば十日の猶予を与えましょう。それ以上は待てませぬ」
その言葉を聞いた祝奥は思わず叩頭し、急ぎ広信へと馬を走らせた。
広信にて首を長くしていた史璜は、すぐさま祝奥に会い、報告を聞くと同時に涙を流した。
「良くやってくれた。正しく君は万の兵に匹敵する好漢だ」
「止して下さい。それよりもこれから先のことです。十日の猶予は稼げましたが、史府君の策とは?」
「うむ。城を明け渡す直前に火をつける。残っている兵は山中にて隠れ、時を過ごす」
「おお、成程。それなら史府君も…」
「儂は残る。火をつける役は儂だけで良い」
「…しかし、それでは」
「君は上使君に投降し、山中にて隠れる兵を保護してやってくれ。董承が死ねば兵らはまた家族に会える筈だ」
「ならば史府君も…」
「儂は駄目だ。王都尉、李都尉、そして砦で犠牲になった兵らの親御や子らにどう会えば良い?」
「…それは」
「それに儂の存在が知られたら危険なのは儂の家族だけではない。ここにいる兵の家族も同様だ」
「ですが、これでは史府君は無駄死です。ご一考なさって下さい」
「いや。董承の密偵が城外で様子を覗っているという報せがあった・・・。その目を誤魔化すためにも、儂が姿を現すことは出来ぬ」
「……」
「それにだ。既に王都尉も李都尉も待っている。儂だけ行かねば永遠に両名とも泰山に行けぬ」
「ああ…史府君」
こうして広信は十日後、炎に包まれた。
これが事の顛末である。




