外伝72 涪陵攻防記
話は皇甫嵩が自ら荊南に訪れる前に遡る。
千にも満たない軍勢は、遷陵へ旅商人の格好をしてきたのにも関わらず、城門付近で皆立ち往生することを余儀なくされていた。
「やぁ、これは参ったわい」
そう言った後、皇甫嵩はカラカラと笑った。
周りは笑い事でないのにも関わらずだ。
「父上! だから申したではありませんか! 何故、張忠なぞに漏らしたのです!」
息子の皇甫堅が皇甫嵩にそう詰め寄る。
これは当然のことである。
隠密裏に遷陵を攻略することが決定された際、皆は張忠に黙っておくよう皇甫嵩に進言したのだが、皇甫嵩は勝手に張忠に打ち明けてしまったのだ。
そのせいで范彊から裴潜に伝わり、遷陵は城門を封鎖しまったのである。
本編でも申した通り、これは荊南において例外的な措置であり、誰がどう見ても情報が漏れたことを意味している。
しかし、詰られても構わず、皇甫嵩はカラカラと笑うのみだ。
「父上! 笑っていないで少しは策を考えて下さい! このままでは我らは飢え死しますよ!」
顔を真っ赤にして怒る皇甫堅に対し、皇甫嵩は面倒くさそうにこう返した。
「だから千にも満たない兵で来ているのではないか。予想が当ったのだ。何故、笑ってはいけない?」
「予想していた通りなら何故、張忠なんぞに・・・」
「これで可能性は二つとなった訳だ。一つは奴が司護に通じている。もう一つは既に埋伏している者がいる」
「それがどうしたと言うのです?」
「重要なことだ。司護とやらが前評判通りの男なら間違いなく後者であろう?」
「・・・はぁ?」
「ならば期待に応えてやろうではないか」
「・・・一体、何を・・・?」
「子寿。文雄(射援の字)と共に遷陵へ参れ」
「はぁ!?」
「安心せよ。幾ら何でも問答無用で命は取られまい」
「・・・そ、それはそうでしょうが。一体、どうするつもりです?」
「あ奴から上手く武具と兵糧を巻き上げてこい」
「!?」
伊達と酔狂で皇甫嵩はとんでもないことを息子に託しているように見える。
だが、皇甫嵩には勝算があった。
それは板盾蛮の若き精夫、何平と狐篤からの情報があるからだ。
何平と狐篤は手下を使い、司護に仕える板盾蛮の若き精夫、杜濩と朴胡と密かに交流をしていた。
何もこれは板盾蛮だけに限ったことではない。
蛮と呼ばれる諸部族は何処も同じく独自のネットワークが存在している。
各部族はこのネットワークを駆使し、コミュニティを形成しつつ、絶えず外部の情報を得ているのである。
皇甫嵩はそこに目をつけ、板盾蛮による荊南の情報を入手していた。
その情報から今回の賭けに出たのである。
ただ、もし賭けが裏目に出たとしても、既に対策も講じている。
司護が武具や兵糧の供与を渋った場合。
これは兵士数を誇張した偽の潜伏情報を張忠側、司護側の双方にバラまく。
こうすれば司護の軍勢は堅く城門を閉ざし、更に警戒を強める筈だ。
それだけではない。
皇甫嵩は密かに涪陵まで戻り、兵糧や武具を溜め込んでいる砦を奪取するつもりでいる。
何故なら、皇甫嵩の攻略目標は当初から張忠であり、司護は利用するに過ぎないのだ。
しかし、皇甫嵩の懸念は張忠でも司護でもない。
いつ反旗を翻すかもしれない劉焉を危険視している。
故に今回の戦役で討伐軍が大惨敗をした場合、劉焉は北伐を開始すると睨んでいる。
現時点において郭典、羊続は夷道へ出陣しており、曹謙が敗れれば簡単に漢中に進出することが出来る。
これは懸念材料であったのだが、帝の司護に対する恨みは強く、強引に勅令を出して両者を出陣させた。
当然ながら司護が大勝利を収めた場合、勢いで北伐を開始する可能性もある。
それに劉寵が同調し、都は一転して占拠される怖れもある。
にも関わらず、皇甫嵩は何故、劉焉だけを気にするのか。
その答えはある意味、人によればあまりにも身勝手なものと受け取れるものだ。
皇甫嵩に課せられた仕事はあくまで劉焉の北伐阻止である。
そして、それと同時に皇甫嵩は司護に関するある秘策を既に考えていた。
それから二週間ほどであったある日のこと。
訝しんでいた皇甫堅が戻ってきた。
聞けば武具や兵糧だけでなく、張忠と繋がる偽書までも持ち帰ったのである。
予想以上の結果に皇甫嵩は息子にこう切り出した。
「司護というのは余程の馬鹿者かね? 普通なら文雄だけでなく、お前も拘束するであろう」
「・・・ち、父上!? 今、何とおっしゃられた!?」
「ハハハ! 冗談だ! しかし、これで噂に違わぬ者と証明できた訳だな」
「・・・全く。かつてない程のヒヤヒヤものでしたよ」
「うむ。口から生まれたお主だからこそ出来たことだ。感謝するぞ」
「・・・・・・」
「ま、そう怒るな。司護の期待通り、ここは張忠の首でも届けてやろう」
「それはそうとして・・・。文雄をどう致す所存です?」
「代わりの者を差しだそう。張忠の首の手土産ついでにな」
「・・・・・・一体、誰を?」
「儂なら不足なかろう?」
「なっ!?」
突拍子もない皇甫嵩の言動は今更始まったものではない。
だが、流石にこの言動は度が過ぎており、皇甫堅は言葉を失った。
しかし、そんなことは無視して皇甫嵩は言葉を並べ立てる。
「儂ももう歳だ。そろそろゆっくりしたいからな。どうせ隠居するならタダで暮らせる所が良い」
「・・・それが荊南ということですか?」
「そうだ。儂は人質だから司護から住む場所も食事もタダで与えられる。名案だろ?」
「・・・はぁ」
「少しは楽にさせてくれ。いい加減に漢室のお守りも疲れたわい」
そう言うと再び皇甫嵩はカラカラと笑った。
息子の皇甫堅はその様子に溜息しか出なかった。
武具と兵糧が到着するやいなや皇甫嵩は迅速に行動を移した。
まず涪陵にて未だに中立を貫いている板盾蛮の精夫へ何平、狐篤らを派遣し煽った。
また、それと同時に未だに給料が滞っている張忠の部曲に呼応するよう仕向けたのである。
これにより以前から不平不満が溜っていた兵らは次々に反旗を翻した。
涪陵郡は主に山間部が多く、元から収入の少ない郡である。
そうなれば当然、税収も少ないのではあるが、張忠はそのことを理由に兵への給与を渋らせていた。
しかし、自身の贅沢な暮らしは改めていなかったので、そのことが余計に拍車を掛けている。
涪陵は山間部が多いことから堅牢な砦が数多く、攻めるのに厄介な所が多い。
このこともあって荊南側からの侵攻は憚られていた。
同時に実入りが少ないとあっては、司護も二の足を踏むしかなかった。
だが、皇甫嵩の場合は違う。
郭典は冀州において共に黄巾賊と戦った戦友だし、羊続、曹謙も知古の間柄である。
南に位置する牂牁王の劉普は会ったことも無いが、聞けば牂牁国はそれどころではない。
「こんなド田舎なら朝廷も見向きもしまい。少しくらい儂が我儘を通したとしても文句は言わんだろう」
皇甫嵩はそう考え自身の息子の皇甫堅を太守に、娘婿の射援を別駕とし、涪陵を任せるつもりでいる。
どちらもそつなく熟すだろうし、自身の内政手腕よりはマシだろうと皇甫嵩は考えている。
無責任のようでもあるが、皇甫嵩本人は政治にあまり興味が無く、今までも自身の領内は全て登用した官吏に任している。
一方、あちこちで反乱により砦が陥落し、涪陵の太守張忠は焦っていた。
計算によれば皇甫嵩は兵糧不足を遷陵付近の村々の略奪で補い、今頃は司護の兵と戦っている筈だったのだ。
それがどういう訳か何処からともなく多くの兵を雇い入れ、反乱に荷担する兵をも吸収し、涪陵の城に近づきつつある。
「おのれ皇甫嵩め! 謀反人に与するとは血迷ったか! この上は儂が自ら成敗してくれる!」
張忠の言葉は勇ましいが多勢に無勢。
何しろ多くの兵が給料未払いの恨みから皇甫嵩の軍勢に加担している。
それでも未だに決めかねている兵に給与以上の金を支払い、一万足らずの兵を繋ぎ止めた。
「幸い我らには兵糧の蓄えがあります。兵が少ない以上、籠城して凌ぐしかありますまい」
主簿に任命されていた張存がそう申すと、張忠は「如何にも」と頷く。
だが、これに待ったをかけた者がいた。
甥の張達である。
「敵の本隊は未だに二千に満たないとの報告です。敵の総勢は多いですが、その前に本隊を潰せば雲散霧消するでしょう!」
張達は語気を強め、そう雄弁に語る。
事実、周りの砦が全て陥落し、孤立無援となれば時間の問題となりかねない。
それに援軍を呼ぼうにも全て悪路である以上に、呼応してくれる保証もない。
張忠は考え抜いた挙げ句、張達の進言を取り入れることにした。
「張達が言うのも尤もだ。宜しい。お主に五千の兵を預ける」
「御意! 必ずや老いぼれの皇甫嵩の首を挙げて参ります!」
張達は自信満々に応えたが、主簿の張存は異議を唱えた。
「お待ち下さい! 一ヶ月ほどを乗り切れば冬は間近です! 我が方には兵糧の蓄えが充分あります! 無駄に戦力を減らすより、まずは敵の戦意を挫き、降伏する兵らを吸収しつつ撃破するのが得策ですぞ!」
だが、その声は虚しく響き渡るだけであった。
張忠からしたら長引けば長引くほど自分の懐が痛むからだ。
「耄碌した老いぼれなぞ何する者ぞ! 我らは帝の縁者でもあるのだ! 故に負ける訳がない!」
張達には勝てると思われる自信がある。
事前に皇甫嵩が隊商などに化けて出征したのが千にも満たないという情報を掴んでいた。
更には竹馬の友である范彊からも皇甫嵩が率いる本隊の情報も得ている。
既に皇甫嵩の軍勢はかなりの規模に膨れつつあるが、本隊から各地の蜂起した場所までは距離があり、簡単に合流は出来ない。
そこで未だに軍勢が少数であろう本隊を叩くのが吉という訳だ。
確かに五千の兵で二千未満の兵が相手ならば容易である。
張達は范彊と晏明を従え、東へと進軍を開始した。
季節は秋であるが、未明から早朝にかけては霜が降りる。
これは益州は押し並べて標高が高く、山岳地帯が多いためだ。
このことから分かるように皇甫嵩も短期決戦を望んでいる。
長引けば長引くほど皇甫嵩の軍勢が不利になるのだ。
そして、それが分かっているからこそ、千にも満たない兵で出征したという布石を打っておいたのだ。
張達が出陣して三日後のこと、百にも満たない皇甫嵩の斥候部隊と遭遇した。
ここで思う存分、皇甫嵩の部隊を蹴散らした。
数人を捕虜とし詳細を聞くと、やはり軍勢は二千にも満たないという。
「皇甫嵩を討ったとなれば俺の株も否応無しに上がるというものだ。笑いが止まらねぇな」
ほくそ笑む張達へと更に范彊が追い打ちをかける。
「そうとも。ここで裏切り者の老いぼれの首を晒し、我らの力を見せつけてやれば司護など一溜まりもないはずだ」
満足そうに張達は頷き、砦に向けて更に軍を邁進させることにした。
更に行軍すること三日ほど。
目的の皇甫嵩の軍勢が占拠する砦に着いたが、人っ子一人もいない状況であった。
「ふん、皇甫嵩め。怖じ気づいたか。最早、砦に立て籠もる気力もないようだ」
張達はそう言って豪快に笑い飛ばした。
砦はほぼ無傷で、立て籠もるには申し分ない。
それにも関わらず放棄したということは、やはり戦力差を考えて一旦退いたのであろう。
しかし張達の軍勢も長い行軍で疲労が出てきている。
涪陵もまた他の益州とほぼ同じく山岳地帯が多いので、どうしても行軍に支障が出やすいのだ。
しかも不慣れな漢人達で構成されているため、その度合いも多い。
「仕方ないな。ここはこの砦に居を構え、斥候を出すしかあるまい」
張達の判断は本来なら当を得ているものだ。
情報は少ない上に地形に不慣れなら当然とも言える。
だが、余りにもセオリー通りのやり方は百戦錬磨の策謀家にとっては読みやすいものだ。
そのことを張達は失念しているのである。
そしてその晩のこと、信じがたいことが起きた。
砦の一部の壁が一瞬にして倒されてしまったのだ。
「な!? 何が起きた!? 見張りは何をしていたのだ!?」
一部の壁には仕掛けが施されており、ロープを引っ張るとすぐに倒れるように仕組まれていたのだ。
そしてそのロープは巧妙に隠されており、疲労していた兵達も見過ごしていたのである。
更に二千弱という兵の情報も違っており、正確にはほぼ同数の五千近い兵が雪崩れ込んできたのだ。
しかもその兵は全て地元の蛮人らで構成されており、地形には慣れている者達である。
散々打ち破られ、這々の体で逃げ出した張達らであったが、涪陵は既に皇甫嵩の旗が靡かせていたのだ。
これは張達らが出陣した後、瞬く間に方々から軍勢が現れて城を取り囲んでしまったからだ。
それに武官の慕容烈、趙岑らが呼応し、城門を開けてしまったのである。
既に張存は捕らえられ、太守の張忠は妻や妾らと共に既に逃亡した後であった。
なお、張忠が逃げ出せた理由であるが、密かに隠し通路を作っていたため逃げおおせることに成功した。
その資金は全て涪陵の税金なのだが・・・。
その状況を知った張達、范彊らが慌てて軍議をすると、晏明が「妙案がある」と言い出した。
藁にでも掴みたい両者は晏明に縋るような心持ちで聞いた。
「晏司馬よ。ど、どのような策だ?」
「フフフ・・・。これほど簡単な策がまだ分かりませんか?」
「わ、分からんから聞いているのだ! 早く申せ!」
「こうするのだ!!」
晏明は言葉を交わしていた范彊を一刀のもとに斬り伏せ、命乞いをする張達の首を刎ねてしまった。
これが涪陵での顛末である。




