外伝71 衝陽雑記(後編)
さて、劉煌の一行は寺子屋として使用されているお堂だけでなく、広い道観を見て回ることにした。
道観には様々な神々の木像が奉られており、中には人であった孔子、老子なども神として奉られている。
三人が道観内を散策していると、後ろから声をかけられた。
見るとでっぷりとした太鼓腹を出し、頭の両脇あたりにお団子ヘアーにしている珍妙な男がいる。
それと同時に辺りには酒の臭いがプゥンと漂ってきた。
「ええと・・・。確か鐘離・・・」
「雲房先生と呼びやぁ!」
司護とのやり取りでお馴染みの声が道観内に響き渡る。
項籍ほどではないにせよ余りに大きな声なので、少しは場所を選ぶべきである。
「・・・う、雲房先生。ここで何を?」
李秀が顔を引きつりながら聞くと、雲房先生こと鐘離権はニヤニヤしながら李秀に言った。
「お前さんこそ粗相はしてへんのかい?」
「・・・私が粗相?」
「せや。てっきり自慢のイチモツを見せびらかしていると思ったやさかい」
「私は女です!!」
李秀も鐘離権に負けない大声、いや怒号を張り上げた。
しかも、あまりの怒りで顔を真っ赤にしている。
「あれ? あんさんじゃおまへんの」
「当然です! あんな野卑な倭人と一緒にしないで下さい!」
「いやぁ・・・。あんさんと瓜二つやさかい。堪忍してや」
「次に間違えたら容赦しませんよ!」
他の二人はその様子に顔を背ける。
思わず噴き出しそうになったので、李秀に気取られないようにするためだ。
「悪気はなかったんやで。ホンマや」
「悪気があったら尚更ですよ!」
「そう怒りなさんな。折角の別嬪さんが台無しやで」
「あんな倭人と間違えられるぐらいなら醜女で構いません!」
李秀は眦を引き裂く勢いで激高っぷりが止まらない。
そして、暫く猛り狂う李秀の独壇場となったのだが、意外なことに止めたのは三人の内の誰でもなかった。
寺子屋で学習していた子供らがジッと李秀を見つめており、それに李秀が気付いたからだ。
「はっ・・・早く行きましょう」
今度は恥ずかしさで李秀は顔を真っ赤にした。
それと同時に早足で歩き出したので、他の二人も後に続いた。
道観の門を出ると、そこは歓楽街となっている。
表通りは主に見世物小屋や居酒屋などが並んでおり、裏通りはいかがわしい店が多い。
「おや。これはお珍しい」
歓楽街の中から声をかけてきた人物は游楚、字を仲允という人物だった。
仕事が早い上にそつなくこなすので、問題にはならないが勉強嫌いの遊び好きで有名な男である。
この游楚に対し、応えたのは蔡琰だ。
劉煌が応えた場合、游楚の科となる可能性を払拭するためである。
司護などは気にしもしないが、張昭の耳に入ると何かと面倒ということもある。
「これは游右僕射。こんなところで出会うとは・・・。しかし、良いのですか?」
「何か問題でも?」
「貴方は零陵に赴任している筈では・・・?」
「ああ、ここであと数日ばかり遊んでから戻りますよ」
游楚はそう述べると、また豪快に大声で笑った。
彼は小柄な男であるが声は生来、体に似合わず大きい。
そして何より酒と音楽と遊戯を好む性分である。
そのために父の游殷から勘当され、そのまま荊南に渡ってしまった経緯を持っている。
「しかしお三方がここに来られるとはね。成程、仕掛け喜劇も満更ではないな」
「・・・仕掛け喜劇?」
「あれ? 知らないのですか? 今、評判の見世物ですよ。見ればきっと気に入る筈です」
游楚の言葉に惹かれた三人は試しにと見世物小屋の中に入った。
中は既にほぼ満員で、子連れの家族が多い。
演目はというと「ズッコケ盗掘団」というところか。
話は極めて単純で、五人組の盗掘団が陵墓に盗みに入り、そこで数々のハプニングに出くわすものだ。
一人が主に見張り役を命じられポツンと一人きりになるのだが、その見張り役が災難に遭う。
災難といっても後ろから殴られたり、上から木桶が降ってきて頭に当るなどだ。
例を挙げると子供達が一斉に「後ろ! 後ろ!」と叫ぶ。
見張り役は後ろを確認すると仕掛けで瞬時に姿を消すので「いないよ?」と子供達に話しかける。
その瞬間、後ろから見張り役が殴られるのである。
所謂「志村! 後ろ!」である。
これも考えた(というかパクッた)のは司護だ。
人気コント(バンド?)集団の往年のコントを題材にしたものである。
なので、オチは最後に五人組が妖怪の集団に襲われて逃げ惑うものになっている。
演目は他にもあり、中でも人気の演目は太った臆病な帝と宦官に化けた盗賊のお話だ。
これは架空の国「仲」を舞台にしたもので、帝の名前は「宏術」である。
勘の良い方はすぐにお分かりであろうが、霊帝と袁術を足したものがモデルだ。
この宏術がしこたま酷い目に遭い、皆を笑わせるのだ。
三人も大いに笑ったが、その中で劉煌は少し違和感を憶えた。
司護は一応、忠臣顔をしている。
その司護が「このような演目を許可しているのは不敬ではないか」というものだ。
と一瞬だけ思ったものの、特に気にしないことにした。
劉煌自身も父親の劉寵から愚痴を散々聞いており、帝を軽蔑しているからだ。
さて三人は見世物小屋から出ると、昼時ということもあり少し小腹が空いてきた。
そこで三人は最近になって流通し始めた物を食べることにした。
それは葛餅と呼ばれるものだ。
「かつぺい」とここでは表記されるが、所謂くず餅のことだ。
葛は漢方薬に使われるもので、繁殖力が強く容易に手に入る。
故に医学校でも大量に常備していたのだが、ここに目をつけたのも司護である。
司護はその時、歓喜のあまり日本語でこう叫んだ。
「これでくず餅が食べられるぞ!」
さて、他にくず餅に必要なものといえば黒蜜ときな粉だ。
きな粉の材料である大豆は容易に手に入るが、問題は黒蜜である。
黒蜜の材料は黒砂糖なのだが、その黒砂糖といえば甘蔗(サトウキビのこと)が無ければならない。
五年ほど前、つまり強制的な出奔を余儀なくされる頃のこと。
司護は揚州会稽郡と交州南海郡の郡境周辺にいる山越の精夫らにサトウキビを積極的に栽培することを勧める。
その周辺の山越の部族らは独立心が強く、両方に属していないからだ。
そこにサトウキビに関する知識を持つ名無しの官吏を派遣し、大々的なサトウキビ生産を行ったのである。
更に今日で言うところの専売制をとり、値段を引き下げることにも成功した。
専売制といっても至って良心的な売買であるため、山越の部族らも快く応じている。
更に最近になって司護は茅台酒の評判に託け、新たなる酒を開発しようとしている。
それはサトウキビによる蒸留酒、所謂ラム酒のことだ。
サトウキビが安価に手に入るようになれば、それらも大量に出回ることが出来る。
更に良いことにラム酒の元となるのは砂糖を精製する時に発生する廃糖蜜なので、黒蜜の製造過程において重複しないのである。
司護は現実世界において高校二年生ではあるが、何故か酒の知識も多い。
これは勝手気ままな上に酒好きな伯父の影響で、蘊蓄も好きな伯父は司護によく酒の説明もしていた。
このことからラム酒がサトウキビを原材料にしていることを知っており、研究を指示している。
そして現在、この世界では好き嫌いが激しい司護が毎日食べるものとして葛餅がある。
中でも老師と秘密の会話をした後の消費量は激しい。
これが現在において唯一の司護のストレス発散方法である。
さて、話を元に戻すことにする。
三人は食堂で葛餅を注文して腹ごしらえをした後、今度は研究所へと向かった。
研究所は医学校の複合施設の一つであった独立し、既に様々な開発を行っている。
また、様々なローマの文献などを翻訳し、更にその技術を模倣、または改良する機関だ。
最近では質の良い透明度のあるガラスの研究に力を注いでいる。
これはガラスによるレンズの開発のためだ。
既にレンズは存在しているが、それはガラス製ではなくエメラルド製のものだ。
悪名高いローマ皇帝のネロがエメラルド製のレンズを用いているのだが、これはあくまでサングラスとして利用されているのである。
そして、この研究指令もまた司護によるものだ。
司護は戦場や海上輸送において望遠鏡の重要性を認識しており、このことが更なる発展の向上を見込んでいる。
他にも眼鏡が開発されれば近視の官吏達の仕事が捗るし、偽書などを見抜く上でもルーペが開発されればその存在価値は高い。
三人が研究所に入るとそこには漢人だけでなく、インド、ペルシャ、フェニキア、ローマなどの様々な異国人が研究に没頭していた。
ただでさえ異民族が多い荊南であるが、この施設は更に突出している所だ。
そして三人がその光景を目にした途端、思わず息を飲んだ。
「あら? 貴方たちは?」
声をかけてきたのはローマ皇帝コンモドゥスの姉ルキッラだ。
既にコンモドゥスは殺されているのだが、そのまま荊南に居着いている。
その目的はあろうことか司護を籠絡するつもりなのだが・・・。
「瑠吉羅殿、お久しぶりです」
「あら? 憶えていてくれたの。光栄ね」
声を掛けたのは劉煌だ。
ルキッラは三人の母親よりも年上であるが、未だに若々しく美貌を保っている。
その上、妖艶なだけでなく知識も豊富で活動的な異国の女性として知らぬ者は皆無に近い存在となっていた。
劉煌はそんなルキッラを慶里から紹介された際、不思議な感覚を憶えていた。
「ところでここに何の用かしら?」
「いえ。特に用というほどではありません。巡検がてら見学に来たまでのことです」
「そうなの? でも、それほど面白いというものは未だにないけど・・・」
ルキッラはそう言うが、三人からしたら見慣れないものばかりである。
好奇心旺盛な三人はルキッラにあれこれと質問し、ルキッラも丁寧に答える。
三人が最も気になったのは、何処にでもある櫨の研究だ。
というのも、この木からは様々な物資が得られることが書かれており、その試作品が並べられていたのだ。
具体例を挙げると果実から取れる木蝋からは、蝋燭、石鹸、髪油などが挙げられる。
また木材からは良質な弓の基材が取れ、そこに竹を合成した合成弓が作れる。
この合成弓は威力があり、飛距離もあるので、精鋭の弓兵に支給されつつある。
三人は櫨以外にも様々な代物に食い入って見ていると、ルキッラは何やら笑みを浮かべて三人を別室へと招いた。
三人が「なんだろう?」と不可思議に思っていると、ルキッラは奥のほうから何やら本を持ってきた。
その本の中身を見ると、三人は瞬間的に真っ赤になって突如、李秀が叫んだ。
「こ! これは何ですか!?」
本の内容は現在で言うところの性行為の手引き書で、カーマスートラの原型と呼べるものであった。
そして、真っ赤になり狼狽える李秀にルキッラは妖艶な笑みを湛えながら応えた。
「男女の営みの指南書よ。何か問題あるの?」
「も、問題は・・・! ありませんけど・・・」
「貴方の弟さんに見せて欲しいのよ。まだ若いし、どの体位が興味あるのか・・・」
「私に弟はいません!」
「あら? あの時、あの立派なモノを見せてくれた子は違うの?」
「違います! 失礼します!」
ルキッラに悪意はない。
何人もの美男子、美少年を囲い、夜の営みを謳歌したルキッラにとって、倭建は魅力的な男の一人として夜を共にしようとしただけだ。
現在の常識では考えられないが、この世界では特に不思議なことではない。
李秀は怒ってそのまま研究所を後にした。
慌てて蔡琰も追いかけたが、劉煌はジックリと手引き書を食い入るように見入った。
劉煌は最早うぶな少女ではなく、既に色気づいた女性であるからだ。
そして同時に妖艶な笑みを浮かべる劉煌であるが、これは司進のためだけではない。
もし娘が生まれた場合、状況次第では宮中に上げることも出来る。
そうなれば、自身が皇太后になるのも夢ではないのである・・・。




