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外伝58 孔明の罠

 江夏郡で荊州連合軍と袁胤の軍勢が対峙していた頃、徐州の広陵郡では不平不満が至るところに立ちこめていた。

 徐州牧の陶応が自身の官吏に命じ、好き放題やり出していたからだ。

 美女がいるという噂を聞きつけては、勝手に婚礼前の娘を手篭めにし、毎晩酒宴を開いてこの世の春を謳歌していたのである。


 これは妻となった袁術の養女、袁雉えんちが陶応に見向きもしないためだ。

 袁雉は袁術の養女であることを良いことに、事あるごとに陶応を小馬鹿にしていた。

 更に悪いことに袁雉の実の兄の子である袁則、袁嘉、袁産らが袁雉という後ろ盾があることを良いことに、軍権をほぼ手中に収めてしまう。

 元は三人とも呂氏なのだが、袁雉が養女になった際に皆、袁氏を名乗って好き放題する有様だ。

 この事が陶応に多大なストレスを招き、そのはけ口として不貞を働く原因となっていた。


 また、陶応の愚痴に付き合う汚吏を多く登用し、各所で賄賂や略奪が横行しても何も言わないでいた。

 このことが徐州各地において、再び怨嗟の声を生み出す要因となる。

 それは広陵郡も例外ではない。


 広陵郡の太守は陳禹ちんうという人物で決して無能ではない人物である。

 当人は戦が下手なのだが、一族の陳珪、陳登親子が天帝教の笮融を追い出し、広陵郡の大半を手中に収めた。

 この功績により、当初は孫堅の縁戚にあたる呉景が統治していたが、徐州の有力豪族、陳氏に配慮した形で広陵郡太守となる。

 また、陳氏は袁一族の遠縁にあたり、袁術としても満足な赴任となった。


 陳禹は陳氏の本家筋にあたり、温和な性格なため一族からの信認も厚い。

 それと同時に気弱な部分もあり、あまり強気に出られないのが短所である。

 その為か袁雉の一族の横暴に手をこまねく始末であった。


「十常侍や外戚どもの縁者を除いたら、今度は袁術の縁者どもか・・・・・・」

 

 白い髭を撫でながら、陳珪は憂いていた。

 笮融を追い出したまでは良かったが、その後に袁術の一族を名乗る者が横暴を働いているからだ。

 

「すまぬな。儂が息子の戯れ言を信じたばかりに・・・・・・」

 

 陳珪の客人として招かれている老人はそう言った。

 前徐州牧の陶謙だ。

 ただ既に陶謙は老齢というだけでなく、心理的にも追い詰められており、今では以前のような覇気が既に失われている。

 

「陶使君。致し方ありますまい」

「儂は既に徐州牧ではない。現在いまは袁術の犬に成り下がった馬鹿息子に追い出された身だよ」

「しかし、貴殿は幾多の賊を相手に戦った歴戦の勇士でございましょう」

「・・・・・・もう既にそのような気概はない。それにこの徐州牧の印璽も儂にとっては重荷しかない」

「・・・・・・まさか袁術に?」

「ハハハ。それはない。それよりも儂に策があるんだが」

「どのような策ですかな?」

「陳禹殿にこの印璽を与え、徐州牧を名乗らせてはどうであろう?」

 

 陳珪は首を捻った。

 そして間を置いてから陶謙にこう諭した。

 

「・・・それは悪手でしょうな。公瑋(陳禹の字)は恐れて袁術に渡すのがオチです」

「では、このまま広陵までもが好き放題されても構わんのか?」

「いえいえ。そんなつもりは毛頭ありません。公瑋は別の御方に広陵府君に命じて貰えば宜しいので」

「別の御方? まさか劉繇殿か?」

「ハハハ。流石に察しが良いですな。如何にも張英殿には悪いが、ここは張英殿に引いて頂いて・・・」

「それで陳禹殿は離反するのかね?」

「現在、袁術は江夏郡の攻略に躍起になっております。離反させるなら今しかありますまい」

「説得出来るのかね?」

「揚州王君(劉繇のこと)は大丈夫でしょう。問題は公瑋ですが、それは儂が何とか致しましょう」

 

 陳珪は自信満々にそう言ったのだが、陶謙はジッと徐州牧の印璽を見るだけで特に反応もしなかった。

 陶謙の心中には、広陵どころか既に徐州のことはどうでも良くなっていた。

 

「何? 漢瑜の爺さんが俺に会いに来た?」

 

 陳禹は都尉の万演ばんえんから聞いた瞬間、露骨に嫌な顔をした。

 漢瑜とは陳珪の字で、陳珪は一族の中でも長老としてご意見番的な扱いをされている。

 それ故、陳禹としてはあまり会いたくない人物なのだ。

 

「どうせ袁使君(袁術)の親類連中についてだろう・・・。何を言い出すかは分からぬが・・・・・・」

 

 陳禹は仕方なく陳珪に会うことにした。

 仮病を使って会わないという選択肢もあったが、バレたら一族から総スカンだからだ。

 本家筋の頭首にあたる陳禹としても、それは避けなければならない。

 

「おお、お久しゅうございますな。つつがないようで何よりですのぉ」

 

 会った瞬間、陳珪は陳禹にそう言って挨拶をした。

 陳禹としては、その時点で嫌な表情になりそうなったが、堪えて会釈をした。

 陳珪が作り笑いをしながら、そう繰り出してくるのは、常に何か裏があるからに決まっているからだ。

 

「漢瑜様も相変わらずお元気そうですね」

「ハハハ。元気なだけが取り柄ですからなぁ」

「いえいえ。元龍殿(陳登の字)といい、用兵の妙技は見事なものですぞ。謙遜過ぎるのは反って嫌味となります」

「ハッハハハ! では、嫌味ではなく、小言に致しましょう」

「・・・・・・小言?」

「はい。父君の伯真殿が現在いまの貴殿をどう思っておるかな?」

「・・・・・・・・・」

 

 伯真とは陳禹の父、陳球の字である。

 陳球は酷吏の摘発や盗賊の討伐で名を馳せた人物で、名士として著名な人物だ。

 司護がいる荊南の零陵郡の太守も歴任し、名将度尚と共に賊将の朱蓋を討ち取ったこともある。

 

 陳禹は父の陳球を尊敬しており、常々から父のように成りたいと思っている。

 だが、性格が気弱で優柔不断であるため、父のように成りたくても成れないでいる。

 

「伯真殿がご存命なら、今の貴殿に・・・・・・」

「あいや待たれよ漢瑜様。私とて、やりたくてもやれないのが現状なのだ」

「袁術に恩義があるからかの?」

「いや、袁使君に恩義は感じてはおらぬ。ただ、漢瑜様は袁使君がお嫌いなのは、以前から知ってはおりますが・・・・・・」

「待て待て。公私混同を儂がしていると言うのか?」

「違いましょうか? 大体、今の袁使君に楯突いてタダでは済みますまい」

「袁術の軍勢なら今は江夏に向かっておる。今ならその隙を突けるのじゃぞ」

「その後はどうします? 確かに泣いておる者が多いでしょうが、それ以上に泣く者が多くなれば・・・・・・」

「袁術や陶応以上に兵を持つ者に頼れば良かろう?」

「・・・・・・・・・」

 

 陳禹は目を閉じて、押し黙った。

 近隣でそうなると、候補は二人しかいない。

 豫州王と名乗る劉寵か、揚州王と名乗る劉繇の二人である。

 だが、両者とも朝敵扱いされており、陳禹としてはどちらも選択肢には入れたくない。

 

「まさかと思いますが、漢瑜様は私に『朝敵になれ』とおっしゃるのか?」

「ハハハハ。馬鹿なことを申しなさんな。誰もそんなことは言っておらぬ」

「では、何をおっしゃっておるのです?」

「君は揚州王と劉繇殿が名乗っておるから朝敵だと言うのかね?」

「違いましょうか?」

「全く違う。その理屈なら出仕を禁じられた党人は全て朝敵になるぞ」

「・・・・・・それとこれとは」

「違うのかね? では、儂にその違いを説明してくれないか? この儂にも分かりやすく頼むぞ」

「・・・・・・」

 

 出仕を禁じられた党人とは、党錮とうこの禁にあった者達のことを指すものだ。

 それらの人物には、名士と呼ばれる者が多くおり、朝廷を正そうする者達が大半であった。

 

 そして陳禹は、その違いを明確にする判断が出来なかった。

 現在、朝廷は何進ら外戚や十常侍といった汚職に塗れた宦官が跳梁跋扈ちょうりょうばっこしている。

 そして何より、今では劉協が朝敵扱いされ、既に民衆から朝廷は見放されつつある最中だ。

 

「なぁ、公瑋殿。確かに劉繇殿の下にいる者達には黄巾の者達が多い。しかし、それらは全て朝廷の不満に訴えた者達だ」

「だからといって党人と同等扱いという訳には・・・・・・」

「何故だ? 張角殿も元は党人の筈だがな」

「あのような乱を起こしては・・・・・・」

「そうなると元は高祖(劉邦のこと)も同じなのだが・・・・・・。それで良いのかな?」

「・・・・・・」

 

 陳禹は執拗な陳珪の舌鋒にウンザリしていた。

 陳禹も袁術や、その傀儡となっている陶応は好ましく思っていない。

 ただ選択肢が他にないという理由で、仕方なく従っているにしか過ぎない。

 

 当然ながら、そこに選択肢として劉繇が来れば話は別となる。

 一応、形としては逆賊扱いとなるが、陳禹も含めて陳一族は表向きにしか気にしていない。

 いや、陳一族らだけでなく地方豪族にとって、漢室なんぞは元来どうでも良いのである。

 

「・・・・・・では、張英殿が太守を降りるというのであれば、劉繇殿にお味方するということにしましょう」

「おお公瑋殿。決心なされたか」

「元より袁術殿は広陵だけでなく、徐州を自分のだけのものと思い込んでおられる。これでは話になりますまい」

「そうじゃ。正しくその通りじゃ」

「ですが、あまり黄巾の者達を・・・・・・」

「うむ。承知しておる。バツが悪いからな。では早速、劉繇殿に伝えることに致そう」

 

 陳珪は陳禹から約束を取り付けると、今度は劉繇の相となった孫邵と密会をした。

 そこで張英は江都県の県令とすることで合意。

 江都県は広陵郡の郡都である広陵から南南西に位置し、長江に接しているため、揚州との玄関口である。

 

 更に陳珪の要求は、怒って来襲するであろう袁術軍に対する援軍の要請だ。

 これにも孫邵は快く応じ、ある人物に白羽の矢を立てた。

 その人物とは・・・・・・。

 

「何? オイラが徐州に?」

 

 劉備が辞令を受けたのは、その一ヶ月後のことだ。

 厳白虎らを追い出したことで、呉郡で大いに幅を利かせていた矢先である。

 それが突然、徐州行きとなったので、劉備でなくとも面を食らうのは当然と言えよう。

 

「やぁ! 今度は偽王莽が相手か! ヒラメも出世したもんだ!」

 

 このことを聞いた禰衡でいこうはそう揶揄し、大いに笑った。

 毎度のことなので、劉備は普段なら気にもしないが、一つ気になったことがある。

 

「おい正平(禰衡の字)。偽王莽って誰のことだ?」

「知れたことじゃないか。袁術のことに決まっているさ」

「ゲッ!? 袁術だと!?」

「恐れることはない。戦さは数の多さで決まる訳じゃないからね」

「そんなことを言ったって・・・・・・」

「おいおい。吾輩や孔明先生がいるんだ。大船に乗った気で徐州に行けば良いんだよ」

「おい! 相手は屈指の軍閥だぞ! 簡単に言うな!」

「何でだ? 吾輩の知謀と蟹どもの武勇があれば問題はない。もっとも、ヒラメにはどちらもないがな」

「・・・・・・」

 

 禰衡の悪態に嫌気がさした劉備は、もう二人いる参謀らを見た。

 徐庶と胡昭の両名であるのだが、両者もまた呑気に囲碁を指している。

 

「おい。孔明(胡昭の字)さんに元直(徐庶の字)。どうにかして断る手筈を考えてくれよ」

 

 するとようやく白い羽扇に慣れてきた胡昭が、劉備の問いに徐に答えた。

 

「何故ですか? 折角の出世の機会を見逃すので?」

「出世も何も相手が悪いやな。配下には、あの孫堅やら項羽もどきがいるってのに・・・・・・」

「確かに手強いでしょうが、さしたる問題はありません。それよりも・・・・・・」

「それよりも?」

「報告によりますと我らは広陵郡に向かうとのこと。暫くは対峙しないで済むかと・・・・・・」

「どうして?」

「広陵太守の陳禹殿は秘密裏に我らの側につくとのことです。頃合いを見て蜂起する手筈でしょうね」

「じゃあ時間は稼げるんだな」

「はい。その間に揚州王君(劉繇のこと)に援助してもらいつつ、陳禹殿に協力しながら周辺の郡都を調略すれば良いのです」

 

 暫く時間が稼げると聞いた劉備は意気揚々と徐州へと向かった。

 無理だったら何時ものように逃げれば良いのである。

 それに呉郡には母や妻を置いていくので、遠慮無く毎日羽を伸ばせるというものだ。

 

 だが、広陵の城に入る前のこと。

 突然、胡昭からある人物を紹介されたことにより、劉備の目論見は瓦解した。

 

「オ・・・オイラを徐州牧ってどういうことだ!?」

 

 ある人物とは陶謙であった。

 かつて胡昭は陶謙に協力し、天帝教の嘘を曝いたことがあることが縁で連絡を取り合っていた。

 正確には陶謙の配下である友人の糜竺を介してである。

 

 これは劉備にだけ事後承諾という形をとったもので、胡昭は劉繇からも承認を受けていた。

 劉繇としても誰を徐州牧にするかで決めかねていた所、劉備なら適任と考えたためだ。

 ただ、適任とは言っても、袁術との最前線で捨て駒になりやすいということも含まれる。

 

「な・・・なぁ。陶謙さん。悪いことは言わない。オイラにそんな大任は無理だ。他の方もいると思うんだがね・・・・・・」

「貴殿の旗下、胡昭殿の推挙です。間違いはありますまい・・・・・・」

「いや・・・でも、いきなり徐州牧ってのは・・・ちょっとなぁ・・・」

「貴殿は確かに英傑の相が出ておる。儂の長年の経験に間違いはない。引き受けてくれるな」

「えっ? オイラにそんな人相って出ているの?」

「勿論だよ。だから、こうして頼んでおるのだ」

「そっかぁ・・・・・・。まぁ、何れは王に成るつもりではいたけど・・・・・・」

「いっそ、徐州王と名乗ってみてはどうかね?」

「何っ!? 徐州王!?」

「そうだ。悪い響きではあるまいて・・・・・・」

「よしっ! 決めたぞ! 徐州王に俺は成る!」

 

 勢いで徐州牧の印璽を受け取った劉備だが、自慢げに禰衡に話した。

 すると禰衡は途端に顔色が変わり、いきなり泣き出してしまったのだ。

 

「おい! 正平! 何だ!? いきなり!」

「これが泣かずに居られようか! 少しは出世すると期待していた者が張角以上の国賊に成り下がるとは・・・・・・」

「な・・・・・・何だと?」

「徐州王とか抜かすが、それが勝手に帝を名乗った連中とどう違うと言うのか・・・・・・」

「オイラは中山靖王の末裔だぞ・・・・・・。違うに決まって・・・・・・」

「黙れ! お前は国主も経ていないじゃないか! 故にお前は真っ先に朝敵となり、袁術の矢面に立たされるのだ!」

「・・・・・・・・・」

 

 禰衡は更に激しく劉備をそしる。

 劉協は帝の実際の次男であるから良いとして、他は皆、王に奉じられたか元々、国王であったかだ。

 しかし、劉備の場合は最高でも県令でしかなく、未だに朝廷から漢室の血脈と見なされていない。

 それ故、徐州王を名乗った場合、袁術は矛先を劉備に向けやすく、朝廷も朝敵の急先鋒にしやすいというのだ。

 

 これを聞いた劉備は青ざめ、急ぎ画策した胡昭を呼んだ。

 問い詰めるためである。

 

「おい! どういうことだ!? オイラを罠にはめたのか!?」

「何です? 藪から棒に・・・・・・。大体、罠とか・・・・・・」

「黙れ! これは孔明の罠だ! そうだろう!」

「・・・・・・落ち着いて下さい。私が何時、貴方を徐州王に仕立て上げたというのです?」

「だって陶謙さんが徐州牧の印璽を・・・・・・」

「ハハハ。徐州牧の印璽を受け取ったなら仕方ないですね」

「なら、やはり罠と確信して・・・・・・」

「それなら徐州牧を名乗れば良いでしょう。まぁ、徐州王よりはマシですけどね」

「・・・・・・マ、マシ?」

「そうですよ。大体、貴方は朝廷から命じられた正式な徐州牧ではありません。よって、袁術の目の敵になるのは、まず間違いないですけどね」

「・・・・・・・・・」

 

 こうして劉備は、まずは徐州牧となる道を選んだ。

 本当に孔明の罠かどうかは、後に明かになるだろう。


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