外伝51 人質
皇甫嵩、字は義真。
涼州の三明の一人皇甫規の甥だ。
彼は間違いなく後漢随一の名将と言っても過言ではない。
盧植、朱儁と並び称されるが、その中でも際立つ存在である。
史実においては党錮の禁に処せられていた有能な人物らを救い、第一次黄巾の乱においては勲功第一とされる人物であろう。
韓遂らが起こした涼州での反乱も一度は失敗したものの、二度目は無事に平定させている。
そして慈悲深く、手柄や財宝にはあまり興味がなく、部下や同僚に分け与えてしまうので、周囲からは尊崇の対象とされた。
この世界でもほぼ同様の皇甫嵩であるが、弱点がない訳ではない。
あまりにも処世術に無頓着で、不正を嫌い、野心が無いのである。
見ようによっては確かに美点ではあるが、この世界においてそのような事がまかり通る筈はなかった。
他の二人である盧植であるが、一度は収監されたものの、袁紹を警戒する劉虞と十常侍らの思惑が合致して運良く幽州牧となった。
朱儁は息子である朱符の交州での失政と死去を理由に自ら蟄居を申し出て難を逃れた。
だが、皇甫嵩には該当するものがなかった。
折しも最大の後援者であった外戚の何進が十常侍と接近したことが不運としか言い様がない。
何進も皇甫嵩の名声を恐れていた矢先、十常侍趙高の讒言を真に受けてしまったのである。
これにより、皇甫嵩は平民へと格下げされ、野に下ってしまっていた。
因みにだが、車騎将軍は朱儁、皇甫嵩の二人が任命されており、それぞれ左車騎将軍、右車騎将軍とされていた。
その両名を受け継ぐ形で就任したのは張譲と並ぶ十常侍の双璧の一人である趙忠となっていた。
だが、当の本人である皇甫嵩は呑気なもので、南陽郡の片田舎で寺子屋の先生をしながら荒ら屋で暮らしている。
寺子屋の生徒らに「悔しくないのか?」と質問されても「これで長生き出来る」と笑い飛ばす。
更に劉表、劉岱、袁術らの招聘に応じず、気儘に過ごしていた。
そんな皇甫嵩にふらりと甥の皇甫酈がブラリとやってきた。
豫州頴川郡の太守をしていたが、辞して野に下ったのである。
豫州牧の黄琬と仲が悪かった訳ではない。
寧ろその逆で、連座して黄琬の地位を危うくする前に辞したのだ。
皇甫嵩は溜息をつき、皇甫酈に嗜めた。
「・・・・・・お前まで辞めることはないだろう」
「何をトンチンカンな事をおっしゃっているのです。伯父上も同じ事をしたでしょうに」
「・・・・・・かも知れんが、黄使君(黄琬)だけでは荷が重いだろうに」
「その点はご安心を。有望な若手らを茂才しましたのでね。戦さが苦手な私よりも遙かに役に立ちます」
「・・・・・・ふむ?」
「未だに無名ですが、何れ必ずや名を馳せましょう」
「ほう?」
この若手とは一人は汝南郡の生まれで陳到。字を叔至。
もう一人は南陽郡の生まれで李厳。字を正方と言う者達である。
何れも司護と出会わなかったので、司護に登用されていない者達だ。
司護が知ったら嘸かし地団駄を踏むことであろう。
「それは兎も角、お前は今後どうするつもりかね?」
「伯父上。それは伯父上次第です」
「何? 儂次第?」
「我らは陛下に代々お仕えする身です。確かに今は平穏な世の中に見えますが、何れまた動乱が起きましょう」
「・・・・・・しかしだな。現在の帝はどうにも現実を見ない。これでは漢に未来はない」
「伯父上! 貴殿らしくもない!」
「お前に言われんでも分かっておるよ。儂もこのままで終えるつもりはない」
「・・・・・・では、どうなさるおつもりで?」
「現在の帝は先代の桓帝君をあまりにも忌み嫌っておる。それが元で仏教も道教も忌避しておる」
「・・・・・・」
「しかも十常侍らの讒言で儒学も忌避しておる。それで文学に長じた連中を重宝しているが、これでは話にならぬ」
「・・・・・・・・・」
「故に帝には現実を教えねばならぬ。太平道も五斗米道も認めねば漢は危ういとな」
「まさか漢中郡の張魯を・・・・・・」
「漢中郡と都(洛陽)は目と鼻の先だ。手っ取り早い方法は調略しかなかろう」
「しかし、あの頑迷な陛下が素直に従いますかね?」
「こらこら。不敬な事を申すな。第一、陛下に納得して貰おうとは思っておらぬ」
「ハハハ。成程。して、何方に託すのです?」
「司徒殿だよ」
「えっ? 王允殿ですか? しかし、王允殿にそこまで出来るかどうか・・・・・・」
「あくまで王允殿は伝手だよ。動かすのは、その先にある何進大将軍と十常侍だ」
「・・・・・・分かりませぬ。その者達が何故、陛下に言上するのです?」
「王允殿は既にあの董卓と縁戚だ。そして董卓の奴は軍勢を持っているが出し惜しみしたい筈」
「成程。元々、董卓は野心しかない危険な男。そうなると何進も軍勢を出し惜しみする」
「そうだ。そうなると張魯を帰順させる方が手っ取り早い方法という訳だ」
「張魯は如何なさるので?」
「奴の母親は人質同然に劉焉の元におる。それを解決すれば問題はない」
「・・・・・・そう上手くいきますかね?」
「確かに賭けの要素が強い。しかし、それ以外はないな。漢を安定されるには、まずは都周辺を安定せねばならぬ。それでないと・・・」
「黄巾よりも厄介な事になるという訳ですね・・・・・・」
現在、各地の大豊作により何処も平和を謳歌している。
だが、この平和は何時まで続くかは誰も分からないのだ。
そして現在、張角よりも危険な教祖が誕生しており、それが何時漢に刃向かうかは分からないのである。
その危険な教祖とは司護のことであるのだが、当の本人はのんびりと温泉に浸かっている最中だ。
二人が会話していると、荒ら屋にもう一人の若者が入ってきた。
皇甫嵩は若者を見るとニコリと笑い、朗らかに話しかけた。
「その様子では益州牧と上手く接触出来たようだな。文雄よ」
「はい。益使君は義父様を待ち望んでおいででした」
「ハハハ。こんな老いぼれでもいないよりはマシだしな」
「とんでもない! 義父様は漢きっての名将でしょうに!」
「文雄よ。それは買いかぶり過ぎだ。それに名将なんてものは、そもそも必要がないに超したことはない」
「何ということを・・・・・・」
「ハハハハ。戦さなんてものが無ければ将兵なんぞは無駄飯食いだ。故に名将だの何だのは無駄飯食いが一番良いのは当然であろう」
「そこが未だに解せませぬ」
「お前が解せんでも事実だ。それよりも広漢郡の板盾蛮らの動きはどうだね?」
「それにつきましては、この者達が必要となりましょう。入りなさい」
文雄がそう言うと、まだ成人したばかりのあどけなさが残る若者二人が入ってきた。
両名ともに肌の色は浅黒く、如何にも板盾蛮の者といった風体だ。
「これに控えるは何平。字を子均。そして狐篤、字を徳信という者達です。双方とも母方に板盾蛮の精夫の流れを汲んでおります」
「成程。双方ともに有望そうな面構えだな」
「はい。両名ともに巴西郡の生まれではありますが、母方が広漢郡の生まれにて縁がある者達です。心強いお味方となりましょう」
「うむ。君が認めた人物だ。確かであろうよ」
「恐れ入ります」
こうして若い板盾蛮の血を引く若者二人は皇甫嵩の下で働くことになった。
因みに何平は本来ならば王平、狐篤は馬忠という蜀の名将として活躍した者達だ。
そして、文雄と呼ばれていた者は射援と言い、本来ならこの者も蜀で重宝された者である。
文雄は字で皇甫嵩の娘婿にあたる。
さて、一方の劉焉側であるが、漢中郡までの兵站がままならないでいる。
俄に蜀郡と漢中郡の間にある広漢郡において不満を抱く土豪と板盾蛮の精夫らが反乱を起こし、巴西郡太守の郭典に協力して梓潼を陥落させたのだ。
これに対し、名将韓信と次子劉誕を向かわせ、梓潼攻略の最中であった。
しかし、梓潼は難攻不落の城塞都市であり、双方ともに兵糧は豊富なので、悪戯に戦いを長引かせていた。
この戦いで韓信以上に不満を募らせていたのが劉焉の次子、劉誕である。
劉誕は激しく広漢郡の太守である四歳違いの実弟、劉瑁を嫌悪しているためだ。
その理由は劉瑁の出生に関わるものであった。
劉誕が劉瑁を嫌悪している理由。
それは劉誕が物心ついた時に劉瑁が産まれた直後、妊娠中に熱病に冒されていた母親が産後すぐに他界してしまったためだ。
そして劉瑁自身、未熟児として産まれた為、知能的にも精神的にも人より劣っていたのである。
そのような事は知らない母親は劉焉に対し、一人前の人物として育て上げるよう嘆願し、この世を去った。
だが、そのような事は劉誕には関係のない話だ。
母親を人一倍、好いていた劉誕は劉瑁を酷く恨み、事あるごとに劉瑁を虐めた。
そして、長兄の劉範もまた劉瑁を忌み嫌っていたので、その虐めを見て見ぬふりをした。
肝心の父親である劉焉は、その時に張魯の母親に出会い、息子のことはあまり顧みなかった。
それが劉誕の虐めに拍車をかけた。
そして劉瑁が成人すると、急に劉焉は周囲の反対を押し切って広漢郡の太守に任命した。
これは表向き劉三兄弟の母親の遺言を守るためということだが、巫女である張魯の母親の神託を受けてのことであった。
この神託には理由があり、実は張魯の要望であった。
張魯は劉焉からの独立を望んでいるのだが、最大の心残りは母親が人質に取られていることである。
そこで重臣の閻圃に相談し、劉瑁を広漢郡の太守にするよう母親を使って唆したのだ。
劉瑁が広漢郡の太守となった知らせを受けた張魯と閻圃は内心「してやったり」と思ったが、問題はその後だ。
劉瑁と張魯の人質交換という計画であるが、劉焉が素直に受け入れるかどうか分からない。
それどころか、怒って母親を殺しかねないのである。
もう一つ問題なのは楊松がいる楊一族だ。
楊一族は漢中郡でも一番の豪族で、劉焉を支持している。
熱心な信者が多い五斗米道だが、楊一族の支援なくして漢中郡を治めるまでには至っていない現状なのだ。
そこで閻圃は朝廷に帰属するよう張魯に進言した。
張魯は訝しんだが王允らが動いている聞き、閻圃に委ねることにした。
それしか母親を取り戻す手段がなさそうだからだ。
閻圃もそれを予見したため、既に忖度して秘密裏に事を進めていた。
そして、共に計画を立てていたのは射援であった。
「ここまでは上手く行っているとして、問題は応じるかどうかだな・・・・・・」
皇甫嵩は娘婿の射援から張魯の帰順を聞いたとき、こう呟いた。
それ故、射援は皇甫嵩に対し、こう返した。
「それならばですが、ついでに交換条件を一つ増やしたらどうです?」
「どうするというのだ?」
「雒と梓潼の間には頑強な綿竹関がございます。それを奪えば劉誕らは孤立無援となります」
「簡単に言ってくれるわ。まず我らが孤立無援に近いではないか」
「ハハハ。それを考えるのが名将たる我が義父殿です」
「ハハハハ。文雄も言うようになったわ。確かに出来ないことはないがな。だが、お前の協力も必要になるぞ」
「お任せを。私は義父殿のような軍才はありませぬが、弁舌には自信があります」
「うむ。それだけで一万の軍勢に勝ることもあるしな」
「ハハハ。それに閻君(閻圃のこと)もおります。お任せあれ」
その一ヶ月後、射援は閻圃を伴って雒の劉瑁の下へ赴いた。
そして閻圃と一緒になって「劉誕が援軍を送らないことを対し、怒り心頭である」という出鱈目を並べ立てた。
慌てた劉瑁は新人の従事である王累の諫めを聞かず兵五千と共に出兵をしてしまったのである。
その行軍中で俄に皇甫嵩の夜襲に遭い、呆気なく兵らと共に捕虜となってしまった。
その後、皇甫嵩に脅され綿竹関に向かい、あろう事か綿竹関陥落の手伝いをさせられてしまったのである。
それにより劉誕と韓信らはこれで孤立無援となる状況になってしまう形となった。
「何をしているんだ!? あの馬鹿野郎め! こんな事になるくらいなら、いっそ殺しておけば良かったわ!」
劉誕は実の弟が綿竹関陥落を協力させたことを伝令から聞くと、地団駄を踏んで罵った。
「こうなったら劉瑁ごと皆殺しにしてやる! 韓信、支度をしろ!」
韓信も伝令の報告を聞いて苦虫を噛み潰した表情を浮かべていた。
が、すぐに冷静になり、劉誕を諫めた。
「いけません。このまま引き返すとなると追撃されることになります。さらには情報が少なすぎて何処に伏兵が潜んでいるか分かりませぬ」
「ならばどうしろというのだ!?」
「和睦しかございません。綿竹関を相手が奪取したのはかなり危険な賭けです。そこまで危険な賭けをするとなると恐らく・・・・・・」
「・・・・・・張魯のお袋か?」
「ご明察。十中八九、間違いはないでしょう」
「・・・・・・全く。漢中を諦めることになるが、これで親父殿の色ボケも少しは収まると思えばマシな方か・・・・・・」
「グズグズしていますと兵に知られます。怯えた兵が逃げ出す前に・・・・・・」
「分かった。親父殿に一筆、認める。だが、必ずこの仕返しはしてやるぞ」
劉焉は現状を知るや、急いで張魯の母親を交換のために綿竹関へ向かわせた。
これにより劉誕の軍勢は被害に遭うことなく退くことが出来たのである。




