外伝44 曹操の選択
「……奉孝の案でいこう。者ども、出陣の用意をせよ」
曹操は静かに、そして徐にそう言葉を発した。
考え抜いた結果、最良のものが郭嘉の提示したものだった。
当然、これには理由がある。
まず郭嘉の案はローリスク、ローリターン。
それに対し、曹仁の案はハイリスク、ハイリターンだからだ。
確かに曹仁の案が成功すれば、かなりの戦功が挙げられる。
だが、そうなれば当然、目立つのだ。
それにより、自身が袁術の目の敵にされる可能性がある。
現時点において、江夏こそが袁術の目の敵でなければ困るのである。
もう一つの懸念材料は更なる増援の有無である。
もし、袁術が増援を決定させれば、砦が奪われたままとなるのは必定だ。
そうなれば負けはしなくとも泥沼化し、築き上げた章陵郡を荒らされかねない。
曹操は以上の点を諸将に明確に説明し、郭嘉を褒めた。
その一方で状況と情報次第では曹仁案を取る事も告げた。
言わば、曹仁に対してのフォローである。
曹操は肉親だからといっても、全て信用している訳ではない。
それ故、外様と同様、肉親に対しても配慮する。
そういった配慮もしないと乱世で生き残れないことを理解しているのだ。
現に親子同士、兄弟同士で殺し合いが行われても珍しくもない世情である。
一方、袁術の命を受け、張勲と陳紀の二将は兵三万を率いて弋陽郡を目指していた。
そこで孫堅からも兵を借りるためである。
また弋陽郡は章陵郡からも近く、行軍した兵を休めるには適した場所でもあった。
「何? 張勲が来ただと?」
孫堅は特に驚きはしなかった。
「そろそろ袁術が章陵へ攻め込むであろう」
と、そう予測していたからだ。
そして兵の陣容を見ると内心、舌打ちをした。
章陵郡は小さな郡である故、本来なら充分な兵力である。
しかし、孫堅も独自で章陵を調査しており、これでは不足と思ったからだ。
何より曹操が油断ならない相手であることを理解していた。
何故なら、曹操とは顔見知りだからだ。
数年前、黄巾党が蜂起した際の話だ。
実は二人は共に戦ったことがある。
その時、孫堅は朱儁の旗下だったが、曹操は皇甫嵩の旗下であった。
その二人が唯一共に戦ったのが頴川郡長社での戦いである。
敵将波才は官軍の五倍ほどと言える二十万の大軍勢を有しており、劣勢であったことは否めなかった。
この時、皇甫嵩がとった作戦は火攻めである。
日照りが酷く、草原は茶色で覆われ、火を放つのに適していたからだ。
この火攻めを稀有な戦術眼で成功に導いた男こそ曹操である。
曹操が風向きを読み、黄巾党の軍勢を上手く風下へと誘導させたのだ。
そして風の強い日に夜陰に乗じて火矢を使い、多数の焼死者を出させたのである。
これは黄巾党の兵卒たちが油断しきっており、火が出た際も焚き火の不始末と思った者が多かったこともある。
しかし、至る所で同時に放たれた火は次第に大火となり、油断していた者達を火の海へと誘った。
名将皇甫嵩もさることながら、孫堅は曹操の恐ろしさを垣間見たのである。
何故なら曹操は、悪戯で火遊びをする子供のような感覚で大勢の敵兵を焼き殺していったからだ。
「こいつはとんでもない奴だぞ……。如何に相手が賊とはいえ、平気でここまで出来るとは……」
だが、それでも相手は五倍ほどの大軍勢だ。
孫堅もまた、逃げ惑う敵兵を追い悉く倒していった。
何故なら再結集された場合、死にもの狂いで反撃してくることが予想されたからである。
そのような事もあり、孫堅は常に曹操を警戒していた。
しかし袁術には、どうもその事が上手く伝わっていない。
下手に諫言しようにも怒鳴るだけなので、諦めるしかないのだ。
孫堅は張勲から渡された袁術からの書状を読むと、今度は怒りが込み上げてきた。
そこには「兵五千を捻出せよ」と書かれてあるだけなのだ。
弋陽郡は江夏郡、廬江郡と隣接しており、江夏郡、廬江郡の背後には大軍勢を要する豫章郡、九江郡、更には荊南が控えている。
「全く話にならぬ……。この小郡から兵五千をむざむざ死地に向かわせるなど…。この俺に死ねとでも言うつもりか?」
思わず声を大にして「出奔するぞ!」と叫びたい気持ちだ。
だが、隣の安南郡は妻の弟である呉景が治めている。
また、甥にあたる孫賁も呉景の下で校尉として働いている。
言わば実質的に人質同然である。
そこで孫堅は二人の者を呼び寄せた。
一人は黄蓋、字を公覆。もう一人は芮祉、字を宣嗣という者である。
この二人に兵五千をつける為だ。
両名を選んだ理由は両者とも戦功に囚われず、冷静に対処出来る者達だからだ。
特に芮祉は私欲が無く、兵を迅速に動かすので、撤退の際などには重宝している。
「いいか。今度の戦さは必ずや負け戦さとなろう。兵をなるべく失わずに連れて帰るのだ」
両名は孫堅のその言葉に無言で頷き、兵五千を率いて張勲の軍勢と共に弋陽を後にした。
張勲、陳紀の二人も凡将ではない。
これまで袁術に従い、各地で戦功を立ててきた古参の武将である。
ただ、袁術からは小郡の攻略と聞かされているし、充分過ぎる兵力と考えていたので、慢心していた。
孫堅の援軍を加えた袁術軍は弋陽から南西に進軍し、途中で回廊のような麓に辿りつく。
山地は、西北西から南東にかけて緩やかなカーブを描くのだが、途中で途切れており、その狭間となる麓の道が行商にも使用されている。
ここで注意しないといけないのは、この回廊のような山麓一帯は章陵よりも江夏に近いことだ。
下手に大軍を率いた場合、未だに立ち場に迷っている劉祥を刺激することになる。
それ故、三万余の軍勢としたこともある。
事実、事前に劉祥には伝えてあるのだが、劉祥も警戒して章陵との郡境付近に二万の軍勢を駐屯している。
そんな状態なので、進軍にも気をつけない状況に、張勲は副将の陳紀にぼやく有様だ。
「面倒な所だな……。こんな所を落とすより、さっさと豫州を落とせば良いものを……」
「仕方ありますまい。張将軍。我らは早々に章陵を攻略する他ありません」
「……そうだな。陳将軍」
「それと、曹操の奴め。何事も謀が多い輩と聞いております」
「うむ。その点は四方に索敵の部隊を配置してある。奴とて、せいぜい伏兵しかやる事があるまい」
「流石に曹操も兵の数は少ない筈。問題は乱立する砦群となりますな」
狭い回廊において曹操は八カ所に砦を築いている。
本来なら関を作りたいが、そのような時間や労力、金は全くないからだ。
砦といっても日本で言う所の平山城に近い規模である。
中国で言う城とは、小田原城や大阪城のような総構えの城のことを言う。
そこで砦と明記せざるを得ないので、その点はご了承願いたい。
その砦群の中央に当たる二つの砦には曹仁、夏侯淳らが千の兵を駐屯させ、備えている。
砦群は鶴翼陣形を取るような形で配置されており、二十里(約9km)間隔で配置されている。
他の六つの砦にも曹洪、曹純、史換、衛茲、韓浩、曹休らがそれぞれ駐屯し、それぞれの士気も高い。
また、曹操のいる本陣は砦群から三十里ほど(約14km)後方に兵五千を駐屯させ、様子を窺っている。
その一方、夏侯淵は副将の楽進、李典を引き連れ、兵三千で間道を突き進む。
峠を幾多も通らないといけないのだが、主に江夏蛮という地元の異民族の兵で構成されており、道には慣れている。
無論、そんな別動隊が回り込んできているとは、張勲、陳紀らが当然知る由もない。
「くそっ! 面倒な! 一気に踏みつぶしてやろう」
張勲をいきり立ったが、副将の陳紀は冷静に諭した。
「張将軍。確かに中央突破は可能でしょうが、もしもという事がございます。脇の砦から攻略しましょう」
張勲は面倒そうに「如何にも」と頷くと、直ちに軍勢を二手に分けて攻略を命じた。
そして、両脇の砦にそれぞれ三千の兵を配置し、攻め立てたのだ。
砦は小高い丘の上に立っているだけでなく、周りは全て堀が巡らされている。
そして面倒な事に一帯は湿地帯になっており、進むには泥土が足に纏わりつく。
これは数百年前の大規模な長江がもたらした洪水の遺産と言われるもので、更に水はけが悪いために出来たものだ。
更には葦や薄などといった背の高い草が生い茂り、見通しも悪い。
塀は板であるのだが、泥が幾度にも塗りたくられ、火矢などでは簡単には着火しない。
部曲長らは声を枯らして突撃命令を下すが、増えていくのは自軍の兵の死体ばかりである。
「ええい! 何をモタついておる! それぐらいの小屋なんぞ、さっさと踏み潰してしまえ!」
張勲は苛立ちを隠せない。
僅か千の兵が篭る砦が意外にも頑強で、簡単に攻め崩せないからだ。
しかも、攻めあぐねていると他の砦から兵が繰り出され、更に死傷者の数が増やされる始末である。
「ハハハハ! 雁首さえ揃えてくれば勝てるとでも思ったか!?」
砦を守る者の一人、曹洪がそう嘲笑する。
もう一つの端にある砦には曹純がおり、この者も声高らかに笑い、それが張勲の神経を更に逆撫でする。
「くそっ! もう良い! 一旦、退け!」
張勲は総攻撃をかける為に、双方の攻め手を一旦下がらせた。
このまま攻めても埒は明かないし、何より士気に関わってくる。
そこで張勲は、全軍を八隊に分け、八カ所の砦を同時に攻め込むことで、戦局を打破しようと考えた。
「お待ち下さい。張将軍。それは、ちと不味うございます」
そう助言したのは参軍として参加している別部司馬の萇奴という者だ。
「何故だ!? 兵の数は充分な筈だぞ! 別部司馬よ!」
「未だに後方に曹操の本隊が控えておるからです。闇雲に攻めても死者が増すだけですぞ」
「では、どうするというのだ!?」
「ここは江夏の劉府君(劉祥)に使者を送り、兵を借り受けましょう」
「勝手な事をするな! 大体、劉祥が送ってくるかどうか分らぬであろう!」
「劉府君も袁使君と表立って敵対したくはない筈です。さすれば、必ずや送ってくると存じます」
「もし送ってきたとしても私の面子は丸潰れだ! 話にならぬ!」
「……しかし」
「もう、良い! 下がれ!」
萇奴の狙いは当たらずも遠からずであった。
事実、劉祥はこの時点において完全に袁術とは決別はしていない。
だが、下手に袁術に援軍を送るとなると、その背後にいる劉表、劉岱、そして司護を敵に回しかねない。
そうなると弁達者な者が使者になる必要がある訳だが、残念ながらこの隊には存在していなかった。
そして翌日、張勲は業を煮やし、八カ所の砦に総攻撃を仕掛けた。
「馬鹿な……。これでは敵の思うツボだ……」
孫堅から兵を預かった黄蓋はそう呟くと、攻めるように見せかけるだけで遠巻きに静観することにした。
一方の張勲らの軍勢は勢いに任せ、攻め立てた。
「よし……。相手を油断させる為にも、ここは二つばかし砦を明け渡すとするか」
本陣にいる曹操は、ほとんど攻め立てられていない曹純、曹休の砦に使者を出した。
丁度、ここは黄蓋らが担当する箇所であった為、追撃がなされずに両名は無事に本陣に辿りついた。
そして他の砦は頑強に抵抗し、張勲の苛立ちを更に増幅させた。
夜になり、張勲らの軍勢は黄蓋らが陥落させた砦付近に陣を張った。
そして、張勲は黄蓋を呼び出したのである。
「黄都尉(黄蓋のこと)よ。気のせいか、君はすんなりと落としたようだな」
「張将軍の攻撃を傍から見て怖気づいたのでしょう。運が良かっただけで……」
「黙れ! よもや、曹操と通じている訳ではあるまいな!」
「何を根拠にそのような事を言われるか!」
「伝令から聞いたぞ! 砦から退却する所を、君は追撃しなかったというではないか!」
「それは我らが先走れば、敵の奥深くに入り込む形になるからです! 誓って、敵に通じはおりませぬ!」
互いに言い争うこと一時間、両者の関係は最悪となってしまっていた。
張勲としては簡単に黄蓋が砦を落としたことが面白くないという僻みが拍車をかけたのだ。
黄蓋も張勲の思惑を見抜いたので、退くに退けなくなってしまった。
ところが張勲と黄蓋の仲が険悪になった時に、思わぬ吉報が張勲の下に届いた。
汝南の袁胤から援軍が来たというのだ。
しかし、それは曹操から使命を帯びてやってきた偽りの兵である。
袁術の部曲長に成りすました夏侯淵は、何食わぬ顔で張勲に口上を述べた。
「汝南府君より派遣されました。何卒、我らをお加えし、共に曹操の首を獲りましょう」
「蒋部曲長(夏侯淵の偽名)とやらご苦労。この上は……」
「あいや暫く」
会話を遮ったのは芮祉であった。
芮祉は夏侯淵を訝しく思い、その表情をじっと凝視した。
夏侯淵は豪傑ではあるが、流石にここでバレたら命が危うい。
それ故、芮祉と目を合わせようはしなかった。
「蒋部曲長とやら、汝南の援軍にしては三千というのは少な過ぎるのではないかね?」
「お言葉ですが、豫州王を名乗る劉寵と頴川郡の皇甫酈が密約を交わしたらしく、俄かに群境が騒がしくなりまして……」
「何? それは大変だ」
「それ故、まずは我らが先遣隊として参った次第です」
「そのような状況なら、まずは引き返した方が良さそうですな。貴殿らと共に汝南へ向かいましょう」
夏侯淵はギョッとした。
そんな事になれば、当然バレるからだ。
しかし、張勲から思わぬ助けが入ったのである。
「芮祉とやら控えよ! 無礼であろう!」
「しかし……」
「袁胤殿は袁使君の御親族であらされるぞ! 疑うとは言語道断だ!」
「………」
芮祉はそれ以上、何も言わなかった。
そして援軍を得たと思い込んでいる張勲を尻目に黄蓋と共に帳から退出した。
芮祉は暫く黄蓋と歩いた後、黄蓋に話しかけた。
「恐らく、あの者は曹操の手下でしょう」
「芮都尉よ。何故、そう思うのだ?」
「確たる証拠はありませんが、あの者は目が泳いでいました。不安な証拠です」
「……だが、それだけではどうにも出来ぬ。それにだ。もし君の読みが外れていた場合、殿にも嫌疑がかかるぞ」
「……はい。ですから、ここは本陣から遠ざかりましょう」
「どうやってかね?」
「まだまだ砦は残っております。そこへ我らが夜襲をかけるという名目でこの場から去るのです」
「……うむ。それならば良かろう」
参軍の萇奴に言伝をし、黄蓋は自軍の兵五千を引き連れ、そっと陣営から移動させた。
萇奴もまた、黄蓋が密通の嫌疑が懸けられた事は承知の上なので、特に疑うこともなく許可を出した。
そして、その日の未明に恐れていたことが起きた。
夏侯淵らが本陣の至る所へ火をつけ蜂起したのである。
当然ながら砦を守る諸将や本陣の曹操も黙って見過ごす筈がない。
たちまち張勲の本陣に畳み掛けて散々にこれを打ち破った。
この戦いで袁術軍の兵は死傷者三千人を数え、副将の陳紀が討ち死してしまったのである。




