外伝40 劉備、孔明の庵に向かう
さて、役所の仕事を全て終えた禰衡は、田豫に連れられ劉備の下に戻った。
そこで劉備に今度は不可解な事を聞かれたのだ。
「なぁ、正平(禰衡の字)。天才と自負するからには、少しは厳白虎を倒す名案でも浮かんだか?」
「いきなり何を言っているんだい? 先日も『無理だ』とハッキリ言ったじゃないか」
「……何だ。てっきり、先日言っていた『孔明さん』とやらに仕事を手伝って貰ったんじゃないのか?」
「あの人は頼まれてもそんな事はしないよ。それに今でも庵で飲んだくれているさ」
「……全く。天下の隠者とは飲んだくればっかりのようだな」
「そりゃあ、こんなクソ詰まらない世の中だ。酒でも飲んでいなけりゃ、やっていられんさ」
「ふぅむ……。じゃあ、せめて孔明さんの居場所でも聞かせてくれないか?」
「そりゃあ構わんが、僕は行かないよ」
「……何故だ?」
「そりゃ決まっている。面倒だからだ」
「……他に理由はないのか?」
「ない! それに充分な理由だろ? 例え帝の命令でも僕に無理強いは出来ないさ」
「……随分、大きく出たな」
「ついでに帝が自ら出っ腹を抱えて赴いたとしても、孔明さんを登用することは無理だろうね。うん。という訳で、あと五年は待ちたまえ」
「だから、そこまで待てぬよ。じゃあ、せめて孔明さんの居場所だけでも教えてくれ」
「仕方ないな……。黟山に庵を構えたばかりと聞いたよ」
「何? 黟山だと?」
「そうだよ。ただ途中、熊やら虎やら出るだろうから、赤蟹とハリセンボンぐらいは連れていけ」
赤蟹とハリセンボンとは関羽と張飛のことである。
それに徐庶を加え、計四名で黟山へと向かうことになった。
黟山とは、現在の黄山のことである。
黄山は、その独特の風貌から仙人が住む山と言われ、多くの文人、画人が魅了された山だ。
常に雲や霧が立ち込め、数々の切り立った断崖絶壁には所々に草木が生えている。
劉備一行は数日かけ、黟山の麓に差し掛かった時、不意に劉備は脳裏に不思議な感覚に襲われた。
俗に言うデジャブであるが、それとも少々違うようだ。
そして、関羽と張飛はさして変化はないが、徐庶も劉備と同じ感覚に襲われていた。
劉備はそんな徐庶の様子を見て、そっと徐庶に話しかけた。
「なぁ……。何か同じような事が、以前にあったような気がするのだが……」
「某も似た感覚のようですな。だが、ちと違う……」
「やはりお前さんもか……。気のせいだとは思うんだがね」
「その昔、ここは黄帝が仙薬を賜い、仙人となったと言われる霊山です。それが我らにそのような感覚を齎しているのでしょう」
「そうかぁ……。やはり気のせいか……」
「……他に何が?」
「なんか知らんが、俺はここにあと二回来るような気がする」
「……まさか」
「……うむ。まさかとは思うんだがなぁ……」
劉備は首を捻ったが、答えは一向に出てこない。
仕方がないので、そのまま禰衡に教えられた道を粛々と進むことにした。
奇松、怪石の景色が続く山道であるが、何故か不気味さは感じられない。
それどころか神秘的に思えてくる風景だ。
古の黄帝伝説が頭の中にあるので、そう思えるだけかもしれないが、少なくとも悪い気分にはならない。
暫く山道を歩いていくと、正面から若い男が千鳥足で歩いてきた。
劉備は「あれが孔明か?」と思い、その若者に聞くことにした。
「そこの人。ちと、良いかね?」
「おや、何です?」
「君は孔明さんかね?」
「いんや、違います。人違いです」
「そうか……。では、君は孔明さんを知っているかね?」
「何です? 藪から棒に次々と……」
「やぁ、これは失礼。俺は劉備、字を玄徳と申す者だ。事情があって孔明さんを探しに来た」
「ああ、成程。しかし、今は行っても留守でしょうな」
「何故、留守だと分かる?」
「いやね。天文にそう出ている」
「……天文?」
「そうです。ですから、今日は留守の筈ですよ」
「出鱈目を言うな。まだ昼間なのに星なんぞ出ていないではないか……。それに君は?」
「ああ、名乗るのを忘れていました。手前は劉淳。字を子仁と申し、生まれは平原郡の者です」
「何? 平原郡?」
「はい。住んでいたところを、黄色い布を巻いた山賊の連中に燃やされちまいまして……」
「こんな所で同じ北方の生まれとは奇遇だな。俺は涿郡涿県の生まれだよ。それに同じ劉姓だ」
「ほほう。確かに奇遇ですね」
「君は誰かに仕えているのかい?」
「今のところは誰にも仕えていません」
「天文がどうとか言っていたが、君は天文の知識があるのかね?」
「ちょいとね。それと占数を少々」
「ほう。それなら君を信じ、今日は行くのをやめることにしよう」
「いや、それはちと不味い。一応、行くだけ行った方が吉です」
「君は『無駄足なのに行け』というのか……?」
「昨日見た星がそう語っておりました。留守ですが行く価値はあるでしょう」
劉備は狐に抓まれた気持ちであったが、行くことにした。
どうせここまで来たのだし、それに帰ったところで、街中で飲んだくれるだけである。
そして偶然に出会った劉淳であるが、占術の知識がある者が未だに配下にいないので、頼み込んで劉淳を配下にした。
禰衡から聞いた場所へ着くと、一人の六歳ほどの童子が庭で掃き掃除をしていた。
どうやら孔明の息子であろう。
「失礼。孔明さんはお出でかな?」
「はい? 孔明先生は留守ですよ。一週間ほどで戻ると思いますが……貴方様は?」
「俺…じゃない。余は楊州王君の家臣で劉備という者だ。先生にお会いしたいのだが……」
「生憎、先生は留守です。それに先生のことですから出仕はしないと思いますが……」
「どうして、そう思うんだい?」
「先生は常日頃、山野で静かに余生を過ごしたいと語っておりますので」
「孔明さんはそんな齢なのか?」
「まさか。貴方様とそう変わらない齢ですよ」
「そうか……。まぁ、隠者とはそういうものなんだろうが……。君は孔明さんのお子さんじゃないのかい?」
「はい。私は胡綜。字を偉則といい、汝南郡固始県の生まれです」
「何? 幼名は?」
「幼名は捨てました。先生曰く『君はもう、そこらの者より一人前だ』とのことでして……」
「それは面白いな……。して何故、君がここに?」
「父は先日、流行り病で他界し、母と共にここへ参ったのです。ひょんな事に私と先生は同姓なので、その縁でこちらにご厄介になっているのです」
「成程、そういう訳だったのか。ん? 同姓?」
「先生の名は胡昭です。孔明は字ですよ」
「なんだぁ。そうだったのか」
「ところで、どうしてここが分ったのです?」
「ああ、禰衡から聞いてやって来たんだが……」
「ああ、あの無礼な変人ですか……」
「そう。その無礼な変人だ」
「で、貴方様が、その無礼な変人の御主人でいらっしゃいますか……」
「アハハハハ! ま、まぁ……そういう事になるかな……」
「………」
劉備は笑って誤魔化すしかなかった。
禰衡が胡昭に対し、どのような無礼を働いたのか想像に難くないからだ。
劉備は胡綜の愚痴を聞きつつ、サラサラと筆を走らせ、胡昭に渡すよう言伝した。
ついでに土産として持ってきた酒の入った壺を胡綜に渡すと、何やらジッと壺を見つめている。
「おい……。まさかとは思うが、全部飲むなよ……」
「えっ!? いや、僕はまだ……」
「うん。いや……その…何だ。全部は飲まないでくれ。頼むから……」
劉備には心当たりがある。
昔、幼少の頃に養父となっていた伯父に隠れて、伯父の酒を全部飲んでしまったことがあったからだ。
その時に千鳥足で、庭の前に生えている大きな桑の木の枝に乗り、こう叫んだ。
「アハハハ! 朕は帝なるぞ! 皆の者、頭が高い!」
帝の馬車が桑の木で出来ている事は子供でも知っていることだ。
それ故、大声でそう叫んだのである。
それを伯父に見つかり、しこたまブン殴られたのを、頭の片隅に少し残っていたのだった。
さて、こうして胡昭の庵を後にした劉備一行であったが、そのまま呉郡に戻らず、そのまま正反対の南昌に行ってしまった。
理由はただ一つ、以前通ったおり、甘夫人(芙蓉)がいたため色町へ繰り出せなかったからである。
当然ながら、関羽は猛反対したのだが、劉淳という強い味方をつけて言いくるめてしまった。
「やぁ! やっと心着なく遊べるぞ! 長かったなぁ!」
南昌へ着くと同時に、思わず劉備は声を大にして叫んだ。
甘夫人と劉封が居たため、秣陵でも遊べなかったからだ。
だが実際、結婚してからまだ三か月しか経ってないのだが……。
劉備は南昌へ着くと、頭に黄色い頭巾を被った。
この方が女受けの良いことを、以前に南昌へ来た際に知ったからである。
「兄者……。よりによって……」
関羽は嘆息し、劉備を諌めようとした。
だが、劉備は素知らぬ顔をして、こう答えた。
「何だ? 既に俺らも逆賊同然だ。なら、ここは『郷に入らば、郷に従え』だ。お前も緑色の頭巾でなく、黄色い頭巾を被れ」
関羽にとって、緑色の頭巾には拘りがある。
これは冬での黄巾党との戦いの際に矢傷を負い「あわや」という所を劉備に助けてもらったことがある。
その際に、劉備自ら防寒具として纏っていた緑の衣を、関羽に応急手当したことがあった。
その時の恩を感じ、関羽はその衣を頭巾に仕立て上げ、常日頃から頭に被っているのである。
その事を知らない劉備ではない筈だが、あまりに無頓着過ぎる劉備に対し、何を言っても無駄なだけだ。
流石に関羽は断ったが、他の者は皆、黄色い布を頭に巻いた。
あろうことか張飛まで頭に巻く始末である。
「おい! 翼徳(張飛の字)! お前まで何だ!?」
「いいじゃねぇかよ。玄徳兄ぃまで着けているんだし、この方が少しばかし酒代をまけてくれそうだしよ」
「だからと言って、お前まで……」
「気にするこたぁねぇぜ。雲長兄ぃ。折角、オギャーと生まれてきたんだ。楽しめねぇ方が損ってもんだ」
張飛は笑いながら、そう関羽に言うと劉備の後を追った。
徐庶は「やれやれ」と溜息をつき、関羽も苦虫を噛むような表情を浮かべ、関羽と徐庶は別行動をとることにした。
その南昌がある豫章郡では昨今、交州南海郡との郡境周辺において度々争いが起きている。
その為、校尉として任命された呂岱と都尉に任命された徐原、字を徳淵という者が事態の収拾に当たっている。
丁度、交州牧の朱符が殺されて、董重が赴任していない時期であった為、郡境は俄かに騒がしくなっている最中であった。
落ち着いて飲みたい徐庶と関羽は色町から離れた小さい居酒屋を見つけ、そこへ入った。
その居酒屋は少々汚いのだが、地元の民の憩いの場であろう。
それなりに混雑しているようだ。
関羽と徐庶は、居酒屋の老主人に小さいテーブル席を案内され、そこで静かに食事をとり、これからの事を話し合うことした。
実際、関羽は徐庶に聞きたいことがあった。
それは胡昭の素性についてである。
大変人の禰衡の推挙なので、関羽は思わず反対しようとしたが、徐庶は違っていたからだ。
「なぁ、元直よ。君は胡昭という人物を知っているのかね?」
「噂程度ですよ。実際にお目にかかったことはないです」
「噂だと? 何処で?」
「以前、荊州の山中にて子魚(龐徳公の字)先生から聞き及んでおります」
「……ほう。で、どのような人物であろうか?」
「一言で言えば、誠実で人望のある隠者です。あの禰衡とは全く違うでしょう」
「それならば安心だが、才覚はあるのか?」
「書の達人の一人ですが、それ以外にも様々な知識がある大賢人とのことです」
「ふぅむ……。しかし、それ程の人物が兄者に仕えてくれるものかな……?」
「こればかりは某も分りませんな。しかし、厳白虎征伐にまごついている現状では、どの道どうしようもありますまい」
「知恵者の君にもお手上げか?」
「ハハハハ。某とて出来ることと出来ぬことがありますからね」
「それもそうだな」
「ただ、豫章郡と会稽郡の郡境が収まれば、兵を募って大攻勢はかけられるでしょう」
「うむ。確かにそれが無難だな……」
「ただし、交州との諍いが長引く恐れも捨てきれません」
「何故、そう思うのかね?」
「聞くところによれば、あの一帯は未だに独立した山越の豪族が多くおります。しかも、集合離散を繰り返すのは秦以前からです」
「……成程。全てを帰順させるには至難ということか……」
「そうなりますな。恐らく誰が交州牧になっても解決出来ますまい。ただ一人を除いて……」
「当ててやろう。荊南の司府君であろう」
「ハハハハ。流石にお分かりになりましたか」
何故、司護が槍玉に挙がったのか。
それは、その一帯が常に大規模な台風による水害や疫病によって甚大な被害を被っているからである。
司護にはある噂が流れている。
それは仙術を使い、領内を天災から防いでいるという噂だ。
まだ五年ほどしか経ってはいないが、現時点において如何なる天災も領内に降りかかっていないのである。
臨賀郡の住人もスンナリと司護を受け入れた理由もそれだ。
司護が統治すれば、如何なる天災も避けられると思ったからである。
事実、臨賀郡の地域住人は、それまで漢による統治を受け入れていなかった。
それ故、荊州も交州も臨賀郡の地域を組み込んでいなかったのだ。
そして更におかしな事に、司護が女人を近づけていないことが、その噂に拍車をかけている。
というのも「司護が神通力を損なうことを恐れ、女人と交わることを禁じている」という噂があるのだ。
そして、それが独り歩きし「司護が統治すれば如何なる災いを免れる」と世間の人は風評している。
善政を行うと同時に天災からも免れるのであれば、飢饉や蝗害などで苦しむ領民にとってみれば、これ以上ない統治者である。
この噂は既に都にまで届いている。
そして十常侍や何進などは「いずれ司護が第二の黄巾の乱を引き起こすのでないか」という危惧を抱いている。
その後、五年間も司護は姿を眩ますのだが、それがこの噂を加速させることになるとは、現時点において露ほどもない。




