外伝39 劉備、鳳雛を得る
新たに裴元紹を仲間に加えた劉備一行は、楊州の地所である秣陵に到着をした。
既に秣陵も善政が行き渡り、街には活気が溢れている。
劉繇の統治もそうだが、荊南との交易で恩恵を受けているのも要因の一つだ。
この風景を目の当たりにした劉備は思わず関羽に対し、こう呟いた。
「……なんかよぉ。シックリ来ないんだが雲長」
「兄者。何がシックリ来ないんです?」
「いやね。何か賊扱いされている方が、民にとって都合が良いみてぇでさ……」
「噯にも、そのような事は申されるな……」
「……だってよ。益州でもそうだが、民は漢室のことを貶してばっかりだぞ」
「確かにそうですが……」
「全く……どうしたもんかねぇ?」
「取りあえず、今は楊州王君(劉繇)にお会いし、仕官させて貰いましょう。まずはそれからです」
「……だなぁ。誰か連れて行った方がいいかな? 全員で押しかけるのも何だし……」
「憲和(簡雍の字)殿が良いでしょう。元直(徐庶の字)殿は確かに切れ者ですが、交渉役には憲和殿が適任です」
「それもそうだな。そうしよう」
さて、劉備が劉繇に面会を求めると、意外にもスンナリと面会が許可された。
これは司護の茂才(推挙のこと)による所が大きい。
司護が荊南を発展させている要因の一つに、無名で若い有能な人材を次々と登用している事がある。
その為、今では人物批評の大家である許劭以上の信頼があるのだ。
だが、劉繇は謁見室に入って来た人物を見て思わずギョッとした。
耳たぶは大きく、腕は長くて膝まである何とも面妖な姿だったからだ。
しかし、劉備は劉繇の表情を見ても何処吹く風である。
そんな表情をされるのは珍しくもないからだ。
驚き戸惑う劉繇を尻目に、劉備はヘラヘラと笑いながら言葉を発した。
「お初にお目にかかります。手前は生国を幽州の涿郡涿県。中山靖王劉勝の末裔で、劉備。字を玄徳と申します」
「……ふむ。中山靖王君の御末裔か」
「はい。それが縁で河間国王君にも面識が御座います」
「劉虞殿と……ふむ」
「荊州牧の司使君の茂才により、参上仕りました。どうぞ、同族の誼で仕官の儀、宜しくお願いします」
「以前は何処にいたのかね?」
「益州涪陵郡の漁復県にて県令をしておりました」
「………」
劉繇は首を捻った。
まず一点が中山靖王の末裔という点である。
中山靖王は庶子が多すぎて、劉姓を名乗る者には中山靖王の末裔を勝手に名乗る者が多い。
もう一点は何故「司護が茂才として推挙したか」である。
漁復県なんぞは人口も少なく、実績があるとも思えない。
大体、そこでの実績があり、有能であれば素直に司護が自身の茂才で登用すれば良いのである。
「成程。経歴は分った。そこで君に一つ聞きたいことがある」
「はい。何でしょう?」
「司使君と君は一体、どういった知り合いなのかね?」
「……え?」
「まさかと思うが、張忠と諍いになり逃亡した挙句、司使君に断られて揚州まで来たのではあるまいな?」
「……う」
劉備は戸惑った。
確かに張忠とは、お世辞にも関係は良好とは言えなかったからだ。
劉備が返答に困っている所を見ると、簡雍が空かさず助け舟を出した。
「それは私が答えます。揚州王君」
「貴殿は?」
「従事の簡雍。字を憲和と申す者です。その事で伝えたき儀がございます」
「ほう? では、申してみよ」
「はい。張忠殿は確かに朝廷から遣わされた太守です。ですが、人柄はお世辞にも褒められたものではありません」
「……うむ。噂は聞いているよ」
「その張忠殿は交州牧の董使君とも縁戚でございます。そこで、荊南に兵を送る企てをしているのです」
「何? 初耳だな」
「劉備殿は荊南の先兵を任される予定でしたが、荊南に訪ねた際に司使君と昵懇の間柄となりました。それを避ける為に県令を辞したのです」
「そのまま司使君に仕えなかった理由についてはどうかね?」
「仮にも張忠殿は朝廷から任命された太守です。以前の賊扱いされた司使君であれば、素直に劉備殿を登用したでしょう」
「………」
「しかし、今となっては無用な疑いが懸けられます。また賊扱いされませんのでね。そこで『それならご迷惑が掛からない揚州に』という訳でして」
「痛い所を突くな。君は……」
「あ、これは失礼」
「ハハハ。だが成程、そういう事か。委細承知した。それに丁度、良将を探していた所だ。司使君の茂才なら間違いなかろう」
「有難うございます。揚州王君」
こうして劉備は簡雍の助けもあり、裨将軍に任命された。
司護の茂才もあっての抜擢である。
そして直ちに「東呉の徳王」と称する厳白虎討伐の任が下されたのだ。
呉郡において厳白虎との戦いは、既に膠着状態に入っている。
呉郡の太守、盛憲は戴員と嬀覧の両名を新任の都尉として登用し、対策を講じていた。
しかし、この両名はまだ若く、厳白虎相手には不足であった。
更に悪いことに厳白虎を支持する豪族も多く、兵の数にも大差がある。
これは章河が興した天帝教を支持する豪族が、未だに蔓延っているのが原因である。
呉に到着した劉備は盛憲と謁見すると、その状況に愕然とした。
兵の数、そして士気においては二倍ほどの差があると聞かされたからだ。
その上、地理も不案内なので、予想以上の困難が予想される。
「参ったなぁ……。こりゃあ、簡単にはいかねぇぞ……」
愚痴を言っても始まらない。
そこで劉備は徐庶に打開策を聞くことにした。
「なぁ、軍師殿。ちゃちゃっと平定するには、どうすれば良い?」
「……無理ですよ。地理も良く分からないのであれば、まず領民に聞くことが先決でしょう」
「けどよ。領民にも『天帝教に帰依している奴も多い』って言うじゃねぇか」
「そうなると、恐らく領民にも通じている者がおるでしょう。そうなれば我らの情報も筒抜けですね」
「……あちゃあ。参った。手詰まりだ」
「何を情けないことを……。しっかりして下さい」
「……そうだなぁ。じゃあ、まずはやる事をやろう」
「どうするのです?」
「決まっている。街に繰り出して酒を飲むのだ」
「………」
徐庶は呆れたが、これも決して悪い事ではない。
情報収集において街で領民から得られることもある。
ただ劉備は情報収集よりも、女の尻ばかり眺めることが多いので、あまり役に立たないことが多い。
そんなある日、劉備が呉の街で飲み歩いていると、街中で喧噪が起こっていた。
若い男と都尉の一人、戴員が言い争いをしていた所であった。
ただ、言い争いにしては、少々勝手が違うようである。
若い男の方は大笑いし、戴員は憤慨して腰の剣を抜こうとしていた矢先だからだ。
「ちょっと待った! 戴都尉! 街中で殺しは御法度だぞ!」
劉備は、そう言って割って入り、戴員を止めた。
すると戴員は劉備に対し、こう食ってかかった。
「こいつは俺を侮辱したのだ! こいつだけは許せん!」
「まぁまぁ。ここで君が罪を犯したら盛府君(盛憲のこと)に面目も立つまい。ここは辛抱せよ」
「し、しかしですな……」
「ここは穏便に頼むよ。見ればまだ若い世間知らずな男ではないか」
劉備がこう言うと傍で見ていた若い男は、今度は劉備に対しこう言ってきた。
「ハハハハ! これは愉快だ! 魚の面なんぞをしている役人なんぞ聞いた事がない!」
「なっ!? なんだと!?」
「そうじゃないか! そのデカい耳たぶは、どうやら鰭のようだ! 砂を被って逃げるのには丁度良さそうだから、差し詰めヒラメだな!」
「なっ? ヒラメ……?」
「ハハハハ! そこにいる雑魚の戴員は、差し詰めシジミだしな!」
「何故、戴都尉がシジミなのだ?」
「そうじゃないか! 厳白虎相手に殻に閉じこもり、ビクビクしながら小さくなっているからだよ!」
劉備は、またもや剣を抜こうしている戴員を宥め、先に帰らせた。
気になるのは若い男だ。
相手は仮にも都尉である。
その都尉に対し、悪口雑言を並べ立て、自身は至って何処吹く風だ。
そんな若い男を劉備は逆に興味が湧いた。
「君は名を何というのだ?」
「聞いてどうするのだい?」
「都尉に対し、そこまで言うのなら、さぞかし策謀の士だと思ってね」
「よしてくれ。無駄な争いに力を貸すほど、僕は暇じゃないんだよ」
「どう見ても暇そうだがね。だから、ちょいと酒でも飲まないか? 俺の奢りでいいから」
「はぁ? この僕に酒を奢る気か?」
「そうだ。ヒラメが馳走してやるんだ。どうだ?」
「ハハハハ! こいつは前代未聞だ! ヒラメが酒を人に勧めるとは!」
「おう。俺はそんな事で一々、目くじらを立てん。くじらはいないがな」
「ハハハハ! そんな大物は確かにいなさそうだ!」
劉備は特にこの若者を召し出そうとは思っていない。
ただ連れて帰るつもりではいる。
その目的は関羽の説教を回避する為のものである。
そんな劉備は近くの居酒屋に若者を招待し、身の上話を聞くことにした。
流石に素性が分らない者を連れて帰る訳にはいかないからだ。
若者は金もあまりなく腹も減っていたので、遠慮なく注文し酒を呷りだした。
「俺は劉備。字を玄徳というヒラメだ。で、君は?」
「僕か? 禰衡。字は正平だ」
「学はあるのかい?」
「よせよせ。クドクドと偉そうに言っても、アンタじゃ分かる訳はないだろう」
「ハハハ。それもそうだな」
「ところで、何の目的で僕に馳走なんてするんだね?」
「目的が無ければ駄目なのか?」
「駄目という訳じゃないが、気持ち悪い」
「それもそうだな。少しは一宿一飯の恩義でも感じるのかね?」
「確かに宿もないな。まぁ、この地が僕の宿だから意味はないがね」
「ほう? どういう意味かね」
「空が屋根ということさ。雨が降ったら木の枝が屋根だけだよ」
「何だい。素直に野宿って言えば良いのに」
「僕は風流人だからだよ。無粋な事は言いたくないのさ」
「ハハハ。成程ね。で、何処から来たのかね?」
「青州からさ。荊州にも行ったがロクな所じゃないから、ここに来た」
「荊南は栄えているだろう? それに司護は名君じゃないか」
「ハハハハ! あれが名君なもんか! こいつは可笑しい!」
「何が可笑しい?」
「賊太守だか上使君だか知らないがね。本来なら兵を起こし、劉表らを屈服させ都に攻め入り、真の賊を討ち滅ぼすのが筋だからだよ」
「ふぅむ……」
「大勢力になった今でも殻に篭っているままじゃないか。故に奴は漢の朝臣に非ず。ただの臆病者だ」
「では、君はどうすれば良いと思う?」
「決まっている。帝を引き摺り降ろして、劉協を据え置くのさ。帝はお飾りで丁度良い」
「それじゃあ、宦官どもとやっているのと同じじゃないかね?」
「さに非ず。丞相を文挙(孔融)殿にし、真の名臣で脇を固める。これで万事、上手くいく筈だ」
「それが出来れば苦労はしないと思うがねぇ……」
「劉協、劉寵、司護が三方から一気に攻めれば簡単だよ。出来ないのは、司護がまごついているのが原因さ」
「成程ね。分らなくもないな」
「一応、ヒラメの割には話が分かるな。感心、感心」
「ハハハハ! ところで厳白虎なんだが、どうすれば良いと思う?」
「ほっとけ。その内、いなくなるさ」
「その内って……。何時だい?」
「そうだな。五年ほどすれば自然に瓦解するよ。果報は寝て待てだ」
「そんなに待てないよ。こちらとしては、直にでも討伐したいんだし」
「それは僕でも無理だな。何しろ宛てがない。ただ、宛てがありそうな人は知っているがね」
「ほう? 何方かね?」
「孔明さんなら、恐らくどうにか出来るだろうよ」
「……孔明さん?」
「今は呉に移り住んでいる才人さ。その人なら可能性が無い訳じゃない」
「何!? では、その孔明さんを紹介してくれないか!」
「おっと。タダでっていうのは、ちと虫が良すぎるぜ」
「ハハハ。海には虫が居ないんだよ。君は知らないのか?」
「ハハハハ! こいつは一本、取られたね!」
どういう訳か劉備と禰衡は意気投合し、劉備は禰衡を宿舎へ連れて行った。
禰衡は劉備の配下を見るやいなや、いきなり大声で笑い出した。
そして劉備の配下達を、こう揶揄していった。
「アハハハ! そこの関羽は赤い蟹だな! 釣り糸まで下げているから釣るのには丁度良い!」
「張飛は髭が立ち過ぎているからハリセンボンだ! 酒蒸ししても食い難いったらありゃしない!」
「田豫はトビウオだろうな! 活きは良いだけが取り柄で何かとマズい!」
「簡雍はさだめしクラゲだろう! 浮いているだけが取り柄で、どうしようもない!」
「徐庶は自身の器量を少しは弁えているようだが、それだけしか能がない。差し詰めイワシがお似合いだ!」
「裴元紹は岩と間違えて関羽という蟹の甲羅に付いたフジツボだな!」
「ああ、可笑しい! 海に住んでいる雑魚どもが、人間の振りして陸に暮らしているとは!」
ゲラゲラと笑う禰衡も禰衡だが、一緒に大笑いする劉備も劉備である。
自身をヒラメと揶揄されたのに、一緒になって笑っているのだ。
「じゃあ、君は何だね!? それだけ偉そうな事を言うんだから、さだめしご立派なものだろうな!」
一番若い田豫が禰衡を詰ると、禰衡は笑うのをやめてこう嘯いた。
「そうだな。僕はそんなチンケな海を見下ろす鳳といった所かな」
「何? 鳳だ?」
「そうさ。ただ、世に出ていない鳳の雛。さだめし鳳雛といった所だね」
「……また大きく出たな。その言葉、嘘ではないだろうな!」
「ハハハ。嘘かどうかは試してみるがいい。もっとも、君らにそれだけの器量があるとは思えんが」
「何をっ!?」
田豫は飛びかかろうとしたが、劉備はそれを制した。
そして敢えて禰衡に仕事を与えることにした。
禰衡に与えられた仕事とは婁県の裁判や戸籍整理である。
これは婁県の県令が病のために仕事が出来ず、かなりの分量が溜っていたからだ。
しかし、着任早々に禰衡は面倒と思い何もせず、ただ酒を飲む毎日を続けた。
期限の日の二日前に田豫が来ると、禰衡が徳利を枕にして昼寝をしていた。
肝心の仕事は手つかずで、これでは到底、期日までに間に合いそうもない。
田豫は憤り、気持ち良さそうに寝ている禰衡を叩き起こした。
「おい! 禰衡!」
「……ん? 何だ。トビウオじゃないか。どうした?」
「トビウオではない! 田豫だ! そんな事はどうでも良い! このザマは何だ!?」
「ああ。暇過ぎて退屈していた所だ。立っているついでに酒でも買ってきてくれ」
「ふざけるんじゃない! 仕事が全くの手つかずだぞ!」
「こんなもん。一日あれば出来る」
「いい加減な事を言うな!」
「……五月蠅いなぁ。仕方ない。じゃあ、やるとするか……」
禰衡はそう言うと、たちまち戸籍の整理を片付けた。
既に領内の官吏に指示して戸籍の調査を終わらせていたのである。
そして、翌日の裁判の資料を速読で読み終えると、また寝てしまった。
翌日、溜っていた裁判沙汰は禰衡によって効率よく進められた。
傍から見ていた田豫は、その光景を呆然と見るしかなかった。
全てが終わった後、禰衡は笑いながら田豫にこう言い放った。
「だから言ったじゃないか。トビウオ君。僕は天才で、君らは凡人。海と空じゃ世界が違うから仕方ないがね」
田豫は憤懣やるかたないが、禰衡の才能を認めるしかなかった。




