外伝38 曹操、いよいよ太守となる
西暦189年。中平二年。新年早々、劉岱の元に司護からの使者が来た。
使者の名は厳畯。字を曼才という。
司護が徐州にて登用した若き俊才の一人だ。
一方の劉岱は、厳畯から手渡された書状を見て、答えあぐねていた。
そこには南陽国の割譲について書かれてあったからである。
荊州牧に就任した早々、いきなり領地の割譲を申し出るというのは前代未聞であった。
故に劉岱でなくとも、返答に困ることは自明の理である。
「これはどういう事かね? 厳畯とやら」
「南陽王君(劉岱のこと)。それに書かれている通りでございます」
「これを余がすんなりと応じると思うのか?」
「応じて下さらなければ困ります」
「……一体、どういうつもりだ? 荊州牧は余に喧嘩を売っているのか?」
「とんでもございません! 南陽王君のためを思ってのことです!」
「領地を割譲することが何故、余のためなのだ?」
「まず我らが割譲を求めている土地は不満住民の巣窟です。税収もままならない土地でしょう」
「………」
「それにです。そこは汝南とは目と鼻の先です。揚州牧(袁術のこと)が調略し、南陽攻略の足掛かりにされるかもしれません」
「何故、袁術が南陽を攻めるのだ?」
「ハハハ。ご冗談を」
「冗談?」
「南陽も袁家に縁がある者が多いと聞いております。それに南陽は、地所である宛を筆頭に恵まれた土地です。揚州牧が黙ってはいないでしょう」
「何故、そう思うのだ?」
「如かず。既に楊州牧は徐州をほぼ手中に治めております。それに先頃は勝手に豫州の汝南郡を占領しました」
「……ふむ」
「その汝南郡に隣接する頴川郡は既に戦々恐々としております。これでも楊州牧に野心がないと言われるか?」
「確かにそうだ。だが、直には決めかねる。家臣らと相談するから数日の猶予をくれ」
「畏まりました。良き御返事をお待ち申しております。それと、もう一つ。いや、二つほど」
「何だ?」
「我が君は割譲にあたり、相応の金と兵糧を提示なさいました。それと郡都を建設するにあたり、資金を提供するとのことです」
「な……何だと?」
「それと新たな郡の太守には曹右相君を任命するつもりです。それならば南陽王君も溜飲が下がりましょう」
「えっ!? 孟徳(曹操の字)をか!?」
「その上でお決め下さい。それでは失礼致します」
劉岱は耳を疑った。
双方ともに合わせると莫大な出費である。
それを意図も容易く出資するというのだ。
「実を取るか、名を取るかという事か……。ううむ……」
劉岱は家臣に相談する前に悩んだ。
普通に考えれば領地割譲が断然、得である。
懸案の南部は納税しないばかりか、不服従民により手つかずのままだ。
しかし、言う事を聞かせる為に出兵するのも憚られる。
西には張魯が太守として君臨する益州漢中郡もあるからだ。
それに数年前に起きた大規模な反乱により、未だに城も傷ついた所が多い。
それを修復するには、それなりの費用が嵩むため未だに手つかずだ。
それらを工面する為に司護が提示した金と兵糧は、喉から手が出るほど欲しい状況だった。
ただし、問題もある。
南陽は今や郡ではなく、扱いは国である。
傍流ながら漢の一族としての誇りがある劉岱にとり、領地の割譲は恥ずべき行為でもあった。
「司護の奴め……。また面倒な事を押し付けてきおった……。どうしたものか……」
劉岱は司護だけでなく、曹操にも気をつけなければならない。
この提言を退ければ曹操にも恨まれることになるからだ。
曹操の出世の機会を潰すことに成りかねないのである。
「ううむ。背に腹は変えられぬ……か」
劉岱は決意し、曹操を含む家臣達を政庁に呼び出した。
会議を開いた上で自身の決断を明確にする為である。
劉岱が発した司護の提案を聞くと、劉岱の家臣達は皆、騒然となった。
その中で一人、右相に任命されている曹操だけは内心、笑いが止まらない。
意外にも早く太守となり、出世の道が開かれると思うと当然だ。
そして、その中の一人である趙岐、字を邠卿という者が言葉を発した。
既に八十近い齢ながら、孟子の注を手掛けている学者でもある。
名高い馬融の姪を妻に持ち、洛陽でも名を知られた男だ。
「南陽王君。儂は賛成ですぞ」
「ほう……。貴殿は孟徳がいなくなっても差し障りがないと?」
「いやいや。確かに曹右相が南陽からいなくなるのは、ちと厳しいですがな」
「では、何故だ?」
「恐らく荊州牧は我らに対し配慮したのでしょう。荊州牧が子飼いの者を太守にすると言えば、我らも警戒せざるを得ない」
「……確かにな」
「そこで白羽の矢を曹右相に立てたのでしょう。それならば納得がいきます」
そこに待ったをかけた者がいる。
杜畿、字を伯侯という若者である。
漢中郡にて県令をしていたが、乱が起こり、南陽へ避難した所を劉岱に召し出された者だ。
「私は反対でございます。南陽王君」
「何故かね?」
「このような好条件には必ずや裏があるからです」
「では、その裏とは何かね?」
「如かず。荊州牧は江夏を袁術の手中からの奪還を企てております。その布石だからです」
「……ふむ。成程」
杜畿の返答は的を得ていたが、劉岱も同じ事は既に考えていた。
何故なら南陽から割譲される土地は、豫州汝南郡と江夏郡の両方と隣接されるままだからだ。
両方とも袁術の息がかかった土地である。
「恐らく荊州牧は、我らを袁術の矢面に立たせるつもりです。そうなれば無用な戦いを強いられる可能性が高いですぞ」
「確かにそうだな。だが、指を咥えていれば袁術のことだ。この南陽を攻撃して来ないとは限らない」
「いいえ。まだ、豫州頴川郡があります。袁術が頴川郡に攻め込んでからでも遅くはないでしょう」
「……ううむ。それもそうか」
「アハハハハハ!」
劉岱が押し黙ると同時に大笑いした者がいる。曹操であった。
「曹右相。何がおかしい?」
「いや、失礼。おかしくて堪らなかったものですから」
「……だから、何がおかしい?」
「今は袁術ではなく、漢中の張魯を警戒なさるべきでしょう。袁術は動こうにも動けませんよ」
「何故、動けないと分かる?」
「袁術は今、徐州へ全力で食指を伸ばしている最中だからです。それに汝南郡の兵も劉寵を警戒して動けませんよ」
「しかし、汝南の南にある二郡(安南郡と弋陽郡のこと)もあるではないか」
「あの二郡の更に南には陸康が治める揚州廬江郡があります。下手には動けませんよ」
「いや、しかし……。君は太守になりたいから、そう申しているのではないか?」
「ええ。それは否定しません。ですが、目下の懸案は漢中にあります。荊州牧から金を貰い、漢中に近い西側の城の防御を高める方が最重要課題でしょう」
「成程……」
「益州王を名乗る劉焉は虎視眈々と都を狙っているとの噂です。それが真ならば、京兆の長安か、この南陽ということになります」
「……」
「もし、長安を涼州王(劉協)が、南陽を劉焉が襲うと両者で取り決められた場合、ただでは済みますまい」
「しかし、途中に三郡があるではないか」
「巴郡、巴西郡、巴東郡の三郡のことですかな?」
「そうだ。郭典、羊続、曹謙の三名が易々と劉焉を通すとは思えぬ」
「確かにその三名は傑物ですが、調略されて劉焉に靡かないとは限りませぬ」
「………」
「一方、張魯が率いる五斗米道の信徒どもは米賊と呼ばれ、朝廷からは毛嫌いされております。これでは調略のしようがありませぬ」
「うむ。確かにそうだな……」
「南陽王君。私が新郡の太守となり、東を固めます。そうすれば南陽が挟み撃ちになることもございますまい」
「……そうだな。曹右相よ。君の言うとおりだ。この上は荊州牧に対し、新郡設立を認めると共に南部を割譲しよう」
「有難うございます! 必ずや袁術の侵攻を防いでみせましょう!」
曹操は「して、やったり」と内心、ほくそ笑んだ。
だが、喜ぶのはまだ早い。
南陽国の南部は元黄巾賊や江夏蛮が跋扈する地帯だからだ。
「さて、小さな郡とはいえ太守になった。問題は、どう平定するかだな……」
会議を終え、曹操は自宅に帰ると早速、戯志才を呼びつけた。
戯志才を呼びつけたのには訳がある。
戯志才は以前、豫州頴川郡の野に隠れていたが、そこで不平住民の動きを具に見てきた者だからだ。
若い頃から鬼才として評判であったが、素行が悪く、どちらかといえば鼻つまみ者であった。
戯志才も頴川郡において、一部の在野有識者に高い評価がある人物の一人だった。
だが、儒学を馬鹿にし、漢室をも馬鹿にした態度をとっていた為、識者の中でも浮いた存在でもあった。
他にも戯志才が遠ざけられていた理由がある。
戯志才は郭嘉以外にも弟子はいたが、その内の一人は波才であった。
因みに波才は頴川郡を占拠した後、師匠である戯志才に対し黄巾党入り声をかけたが、その時には戯志才が黄巾党入りを断っている。
「なぁ。戯志才よ。統治の方法についてだが、何か妙案はないか?」
「場所が場所ですなぁ。ですが、無いことも無いですな」
「ほう? どのような方法だ?」
「荊州牧の名を使いましょう。彼奴は、その手の不平分子どもに人気がありますからな」
「どう使うのだ?」
「簡単です。『我らは荊州牧の命によって赴任した』と外に喧伝するのです。そうすれば自ずと頭を下げる連中がやって来るでしょう」
「下げない連中はどうする?」
「その場合は討伐するしかないですな。ですが、我らが討伐するのではなく、頭を下げに来た連中に討伐させます」
「成程。面白い」
「そうすれば我らよりも、頭を下げに来た連中を逆恨みしますからな。ハハハハ」
「確かにそうだな」
「それともう一つ。我らも税率を下げなければなりますまい」
「ただでさえ少ないのに、税を下げるとなると立ち行かないぞ?」
「ハハハハ。荊州牧から借りれば宜しい。無論、永遠に借りることになりますがな」
「アハハハハ! 『永遠に借りる』か! 面白い言い回しだ!」
「我らは袁術への盾にされるのです。それくらいしても、バチは当りますまい」
「アハハハ! それもそうだ! ついでだから余分に借りるとしよう!」
「ハハハハ! 孟徳殿もお人が悪い!」
「ふん! 当然のことだ! 利用されるだけではつまらんしな!」
後日、劉岱経由で厳畯にその事が伝えられると、厳畯は困惑した。
用意する筈の額よりも、かなり多く見積もれた為である。
司護が不在の中、家臣らにより議論が行われたが、その結果、全額支払われることになった。
曹操として濡れてに粟である。
「ハハハハ。司護には感謝しないとな。今後も集ってやるとしよう。一応、恩義に感じてやるがな」
思わぬ資金を得た曹操は、家臣らを連れて新たな任地へと向かった。
元々そこは章陵県という県だったので、章陵郡と変更された。
曹操は不満住民の頭目を集め、四公六民の税のことを伝えた。
それでも渋る者はいたが、司護の命ということもあって、すんなりと賛同された。
曹操は、そんな司護の名声に対し畏敬の念にも駆られたが、同時に苦々しく思った。
それから程なくして、曹操の下へとんでもない伝令が荊南から寄せられた。
江夏の西部が割譲され、章陵郡に編入されることになったからだ。
しかし、これには素直に喜ぶことが出来ない。
完全に袁術の矢面に立たされることになるからだ。
「野郎! そう来やがったか! あいつも仁君顔して食えぬ奴だ」
江夏郡の西部を合わせると確かに領土は広くなる。
だが、その分だけ汝南郡との郡境が広がるのだ。
これでは袁術に「攻めて下さい」と言わんばかりである。
「やれやれ。流石に転んでもタダでは起きぬと見える。食えない仁君殿だな」
曹操は来るべき袁術の来襲に備え、城を整備することにした。
領地が広がった分、袁術の来襲さえ撃退すればそれで良い。
それに袁術を撃退したとなれば、それだけ自身の名にハクがつくというものだ。
一方、割譲された方の江夏では太守の劉祥が頭を抱えていた。
こうなった原因は袁術にあるのだが、劉祥は袁術当人に対し、文句を言えないからである。
江夏郡では、袁術の徐州進出の為の戦費を賄うために、重税を課していた。
これが引き金となり、陳生、張虎を中心とする不服従民が立ち上がり、反乱を起こしたのだ。
劉祥は袁術に使者を送り、援軍を求めたが、けんもほろろに断られてしまった。
そんな劉祥が切羽詰ったところに思わぬ援軍がやってきた。
荊南からの援軍である。
しかも、その援軍は瞬く間に平定し、双方とも死者を出さずに鎮圧してしまったのだ。
劉祥は喜び、援軍の都督である陳平をもてなすことにした。
その最中、陳平の口から思わぬことを聞くことになる。
「劉府君(劉祥のこと)。鎮圧されたことを契機とし、これからは袁使君(袁術)に従わず、荊州牧に従って欲しい」
「いきなり、何を言い出すのかね? 陳都督殿」
「まず、税率を四公六民にすること。それと江夏郡の西部を割譲すること。この二点に従ってもらいます」
「なっ!? 急に何を言い出すと思えば……」
「出来ないのであれば、我らは二度と江夏に援軍を送りませぬ。不平住民への約束を反故にせざるを得ない」
「……連中に何と言ったのです?」
「税を四公六民にすると約束しました。当然でしょう」
「か、勝手にそんな事を……」
「袁使君は楊州牧です。なのに、金を送るのは道理に反します。違いますかね?」
「……う、ううむ」
「もし、また反乱が起きたら今度は楊州の豫章郡、九江郡からも出兵してくるかもしれません。そうなれば取り返しがつきませんぞ」
「……だ、黙れ! それはお主らが劉繇と裏で通じているからであろう!」
「ハハハ。お戯れを」
「何だと!?」
「揚州王は賊ですぞ。それに対し、我らの主である司使君は荊州牧に任じられたばかりです。どうして繋がっているのです?」
「ぬけぬけとよくも……」
「貴殿が袁使君と袂を分ければ済む話です。もし、袁使君が攻め寄せてきた場合、必ずや我らが援軍に向かいます」
「………」
「我らだけではない。襄陽王君(劉表)、南陽王君(劉岱)、蔡府君(蔡瑁)、そして新たに章陵郡の太守となった曹府君が援軍に参るのですぞ」
「………」
「それでも袁使君に従いたいのであれば勝手になさい」
劉祥は最早、言葉が出なかった。
劉祥も袁術がこちらに対し、兵を割けないのは重々分っているからだ。
そこで劉祥は渋々ではあるが、陳平の要求を全面的に飲んだのである。




