(22)
バイクの後部座席からその戦場へと降り立った桂騎習玄は、あらためてみずからの目で状況を把握するかのように、視線を左右にくばった。
雲になかば隠れた月あかりが、三人の影を照らし出していた。
葉月幽という長髪の美少女……のすがたをした何か。
そして、血を吸った布に巻き付けられた忍森冬花。彼女をかかえる新田前自身だ。
「桂騎……コイツ、冬花が、オレをかばって……」
彼がふるえる口と舌から紡がれた説明はたどたどしく、ゼンはもどかしかった。
文脈として成立していなかったが、それでも、いやだからこそ、この事態の深刻さ、葉月の酷薄さを如実につたえることになったようで、習玄は眉根を寄せて唇を浅く噛んだ。
葉月が血ぶるいすると、いまだ乾ききっていない少女の血液が、雫となってアスファルトを彩った。
「大切な人間をエサに、ターゲットを釣り上げる。……古典的で陳腐だが、いい手だな。お前もそう思うだろ? えぇ? ……桂騎、習玄」
獣のようなその目の深淵が、少年たちへと向けられる。ぞっとするような、この世界すべての人間に対する失望、敵意、憎悪。そんなものを感じさせる、闇をかかえていた。
そして習玄はかろうじて、
「……やはり、そうだったのか……」
と、睫毛を伏せ、目をそらした。
まるでそれは、見てはいけないもの、決して見たくはなかったものを目撃してしまった、哀れみのこもった反応だった。
だがすぐに表情は改まった。いつもの戦士の顔にもどった彼は、琥珀色の『駒』をゼンへと手渡した。
彼が『忍者王』に預けた『歩兵』の駒。それが習玄の手にあったこと、そして彼自身がこの場にいないこと、すべてが『流天組』に露見していたこと。
それらのファクターをつなぎ合わせれば、依頼の達成と……その遂行者の死は、かんたんに想像がついた。
愕然とするゼンに駒を握らせ直し、習玄は彼をまっすぐ見据えていった。
「いま、この下に迎えのバイクが来ている。彼女とともに、この場から逃げろ」
「……いや、お前こそコイツをたのむ。オレとこの女との戦いは、まだ続いてるんだ」
「あまり、理性的とはいえない判断だな」
「当たり前だッ」
自分が、冬花をここまで追い詰めてしまった。
あの女を倒すか、かなわずともせめて一矢。それさえできなくとも、一秒でも長く、命を賭して防ぎ止める。そうすることでしか償う方法はない。
彼女への罪悪感が葉月への憎悪へとすり変わっている。その自覚はある。
だがそれ以外に、冬花にどう報いればいいのか。
……たとえそれが、自暴自棄の果ての愚行だとしても。
沈鬱に顔を沈める新田の肩に、手が置かれた。
だが、それは彼を慰めるものでもなく、励ますものでもなかった。
骨肉をえぐるような握力に、ふだんのいたわりは感じられない。日頃の慈愛を感じさせない、ぞっとするような目つきで、
「新田」
と、桂騎習玄は少年を呼び捨てた。
「二度は、言わんぞ」
息を呑み、顔を上げるゼンの視線に、激しく燃える双眸が飛び込んでくる。
見れば、額にはうっすらと脂汗をにじませている。指先が震えている。
いかなる異形にも死地にも、怖じることがなく、沈着さを保っていた彼が、あきらかに動揺していた。
実際に刃をまじえた自分が、わかっていなければ、わきまえていなければならなかったことだ。
葉月幽は、つまらないプライドでどうこうなる相手ではない。デタラメな強さの、怪物だった。
素直に、だが重々しくうなずき、ゼンは手にもどってきた駒鍵で、独鈷杵を生み出す。
それによって崖を跳躍し、一段下の車道まで降り立った。
目の前に二輪車が停まっている。ライダーの顔はわからなくとも、素性の察しはつく。
カワサキのスーパーシェルパなんて代物を乗りまわす組織関係者。忍森冬花とならぶ『吉良会』幹部候補生の名は、その界隈では著名だった。
無言でアゴをしゃくる『彼女』に、冬花をかかえたまま後部座席に乗り込んだ。
かなり改造をくわえているらしく、即座に加速したその車体は、スピードを出しながらも揺れがすくなく、走り方も丁寧だった。
風を肌に感じると、生きた心地をようやく取り戻した。
逆に桂騎習玄が、まるで死と殺意の塊のような女と戦うのだろう。
――あいつのことだから、無茶はしないだろうけど。
後ろ髪をひかれる思いでかえりみるゼンは、さっきの彼の目つきを思い出す。
瞳孔の奥底にうごめき渦巻く、煉獄の火。指示に従わなければその場で斬り殺されかねない、覇気。
あれが、本来の習玄だとでもいうのか。
そしてゼンは、そんな目ができる人間をもうひとり知っている。
……いや、今日そんな目のできるふたりに、初めて出会ったのだ。
――それじゃ、桂騎はまるで、あいつらの……ッ!
□■□■
「ようやく、マトモなオモチャがやってきたか」
挑発的な第一声には心揺さぶられず、
「お待たせしてすみません」
と、桂騎習玄は涼しい顔で答えた。
「だが、妙に律儀なことだ。彼らが帰るのを待っててくれるとは」
あるいはこの荒れ果てた夜叉のなかにも、一片の人間らしい温情が残っているのかもしれない。
そう思ってぎこちなく微笑してみせる習玄だったが、
「死にぞこないの裏切り者なんぞ、もはやなんの障害にもならん。忍森冬花ならあるいは、と思っていたが、もはや力量も人間としても底が知れた。……この世界に、ワタシの敵はいない。今こそこの腐った世界を通りいっぺんに均して、新天地に『流天組』の御旗を立てる」
……そんな甘い幻想は、葉月自身の冷笑によってあっけなく砕かれた。
いや、手の内や力量差を悟られないため、冬花はあぁも韜晦しつづけ、ここまで『流天組』の牽制役、抑止力となっていたのだろう。
その綱渡りの均衡はもはや、失われた。
この女は、この女の率いる亡霊どもは、もはやなんの斟酌もせず、呵責もおぼえず、世界を浸食していくことだろう。
かつての己らの栄光を、再現したいとでもいうのか。
文明も文化も人心も、なにもかもが荒廃した、暗黒時代。それこそが自分たちにとっての黄金時代だとでも言いたいのか。
「裏切ったのは、お前だ」
知らず、言葉がついて出た。
「……あ?」
嗤いを引っ込め、葉月は微妙に目をすがめた。
「お前らの天下とりなど、しょせんごっこ遊びの自己満足だ。今までも、今この瞬間も」
まるで、自分のものとは思えない。
奥底に眠る誰かの記憶や言葉を借りたかのような、痛烈な舌鉾に、葉月はおおきく肩を揺すって哄笑するだけだ。
だが、その肩の揺れとたびに、その全身から寒波が吹きすさぶ。
まさしくその女は、世界に氷河期をもたらす悪鬼だった。
強烈な個と死が、目の前に存在していた。
「『流天組』のやり方に口挟むんじゃねぇよ、部外者」




