(21)
ふだんは苦にしたことのない山道が、やけに遠い。
不便に思ったことのないバスの通り道のはずれ具合が、もどかしい。
山のふもとで停止したバスから飛び降りた桂騎習玄は、山の道から立ち上る怪光を、燃え盛る劫火を仰ぎ見た。
「はじまったか……っ!」
ほぞを噛んで駆けだそうとして、一度彼は立ち止まった。
徒歩以外に手はないのか、あらためて考えてみる。
タクシー……いや忘年会の時期、この時間帯につかまらないか。
あるいは氏家紀昌に車を出してもらうか。
――いや! アレが葉月……俺の想像している人物だとすれば……
おそらく周囲の被害など無差別に、見境なしに攻撃し始めるに違いない。
それに他人を、よしんば知人を巻き込むわけには、いかなかった。
思考する時間さえ惜しむほどに事態は差し迫っているが、ほかに手がなければ仕方がない。
覚悟を決めて停留所から踏み出した彼の前に、バイクが停まった。
細身のボディが、夜の中でも燦然と薄緑に輝いている。
その脇には車種らしき『SuperSHERPA』というアルファベットが塗装されている。
「アンタ、桂騎習玄だね」
フルフェイスのメットをかぶったまま、シートにどっかりと腰を据えたまま、車体に合ったしなやかな細身をねじって、バイカーはそう尋ねた。
「……貴方は?」
こちらの名前を知る貴方は敵か味方か。そう確認したいのが本音だった。相手もそれを察してはくれるだろうと期待をこめて、習玄は質問をあえて質問で返した。
そしてメット越しに、形のいい唇が動き、みずからの名と素性を端的に表明した。
□■□■
《Checkmate! Pawn!》
人工の音声が高らかに宣言するも、短い黒刃が魔女の肌を傷つけることはない。
動くか動かないかというほどに最小限の腕のスナップで弓を移動させ、新田前の攻撃を防いだ。
当たる気がしない。ただそれでも足を止めるわけにもいかない。手数を重ねて、葉月幽を狙いつづけるしかない。
でなければ、あの岩をも貫くだろう矢が発射される。山をえぐるような一振りがくり出される。
それを封殺しなければ、勝ち目どころかふたりが生きる目さえもなくなる。
そのことをおそれて、新田前は少女を抱きかかえたままにゼンは跳ね回る。
自分が展開した比礼の力で血は止まったようだが、流れた血の量が多すぎる。
たえず体を移動させながらも、離脱か、抗戦か。ゼンはその二択を思案しなければならなかった。
「おい」
と、そこに、その中心にいる相手から声がかかった。
「まさか、ワタシ相手にその死にぞこないを担いだまま戦う気か? ……はっ、とんだお笑い種だ」
魔女のせせら笑いに、ゼンはカッと血をのぼらせた。
「ナメ、んなッ」
道路に降り立ったゼンはそのままの勢いで、真っ向から、葉月めがけて地を蹴った。
激情に駆られての愚挙、と相手は見なすか。だが、怒りながらもゼンは次の一手は比較的冷静に構想していた。その自覚があった。
エネルギーの矢が真正面から射放たれる。生じた衝撃波ごと空間跳躍によって避け、さらに肉薄する。
葉月は二の矢をつがえることなく、先ほどと同じように大上段に弓の刃を振り上げた。
刹那、ゼンはさらに速度を加えて一瞬で葉月との距離を詰めた。
横から弓の持ち手を蹴り飛ばす。予想外の方向から与えられた力には、怪力を持つ腕力でも揺らぎはするらしい。
「もうお前には、嗤わせはしないッ!」
その間隙を縫うようにして、懐に飛び込んだゼンは鍵穴に独鈷杵をねじ込んだ。
音声とともに黒電を帯びた刃を、心臓めがけて突き出した。
「なるほど、たしかにこれは、笑えない」
その声に、感嘆はなかった。
ただ、冷たい印象が、いま彼女を打倒しようとしたゼンに刻み付けられた。
硬い感触が刃を包むのが手に伝わってくる。
分厚い岩壁のような絶望感だった。
瞭然としていた両者の実力だったが、目の前で起こった事実が、新田前から勝機も自負も殺意も、何もかもを削ぎ落とした。
受け止められた。
素手で、なんの道具も用いずに、何一つの小細工さえ弄することなく、真正面から。
「忍森冬花が命を賭けて護ろうとしたものが、こんなどうしようもない、無能のゴミとはな」
かつては人間ではない異形の腕さえも切り落とした必殺必勝の一斬は、あっけなく魔女の指に捕まった。
押し込んでも引いても、微動だにしない。彼女がぐっと力を加えれば、彼の宝具は呆気なくヒビ割れて、あっけなく、駒ごとに破砕した。
「ぐっ!」
《Check! Knight!》
だがもう折れるわけにはいかない。冬花の命も、それによって救われたおのれ自身の生命も、諦められるはずがない。最後の瞬間まで、食い下がる。
即座に距離をとり、冬花のドライバーに付属していた『騎馬』の駒をねじ回した。
展開された黒い錫杖で地に弧を描けば、その軌道に沿って半円月の障壁がそそり立った。
だが、葉月幽はつかつかと、無遠慮に間を詰めると、ぞんざいな裏拳で障壁を叩き壊した。
唖然と口を開けるゼンの首元に、鋭くその怪腕が食らいついた。
「がっ……は!?」
正攻法も搦め手も、力も技もまるで通用しない。
ままならない呼吸。閉じつつある意識。それでもかろうじて、腕のなかの少女だけは意地と意志だけで抱え留める。
「もういい。お前じゃ試金石にもならん。そのままもろともに死ね」
そんな少年のかすかな健闘には称賛を送らず、剛腕の悪魔はさらに締め上げ、ゼンを哭かせた。
次第に抜けていく力。指の隙間をすり抜けていく冬花の感触が、否応なしに恐怖をあおる。
負けてなるものか。手放しでなるものか。
自傷に近いほどの力で奥歯を噛みしめゼンは耐え忍ぶ。
耳が蚊の鳴くような、かすかな音をとらえた。
五感が薄れゆく。だが、それだけが闇に融けることなく、断続的に鳴っていた。次第に大きくなっていった。
明確に、車輪と道路と摩擦音だとわかったとき、ゼンの意識はふたたび明るさを取り戻した。
遠目から見ても、今この山は異質な妖気をはなち、葉月の射放つ矢の衝撃は、山の異常を誰の目にも知らしめたことだろう。
そんな山にあえて急行しようという勇者を、ゼンはこの町でただひとりしか知らなかった。
《Checkmate! Knight!》
硬質な音声が夜の空気を引き裂く。
断崖の下から跳躍して現れた少年は、朱槍をかざして投げつけた。それが闇に、銀色の一文字をえがいて、葉月へと飛来する。
なんなく弓の一振りで弾き飛ばされた。だがその隙をついてゼンは脱出をはたし、間合いをかせぐ。
虚空に浮いた槍をふたたびおのれの手にとり、現れた彼は人と、人の姿をした魔、その両者の間に立った。
「待たせた」
そしてふたりは、長い時間をへだてたすえに、ようやく再開を果たしたのだった。




