(20)
それは天と地がひっくり返って、彼ひとりだけが底なしの空に放り出されたような、そんな感じだった。
何もかもが遠かった。
自分ひとりが現実から隔絶されて、ゆっくり推移していく向こう側を、ただ眺めていることしかできなかった。
一心に、一瞬に集中していれば、物事がスローモーに感じられる。そんな話をどこか聞いたが、まさに今そういう境地に、彼自身が立たされていた。
憎悪を抜きに、彼女を注視したのは、これが初めてだったのかもしれない。
いや、出会った頃は、もっと……
倒れつつある少女の手や背丈は、思いの外にちいさく、か細く……そしてそれらは、ゼンからはあまりに遠かった。
自らの血の沼のなかに忍森冬花がたおれた時、凍りついていた彼の時間は、ようやく融解したといえた。
「おいおい、一撃で終わりか? これじゃホントに据え物斬りだろ」
葉月幽はうつ伏せになった彼女を、爪先で小突きながらせせら笑う。
厄介な敵を一撃の下に仕留めた高揚か、自分の愛機に狂喜したか。葉月の口はふだんよりも軽かった。
「……なに、やってんだ。なにしてんだよ!? お前ッ!」
そしてふたりの女に、ゼンは声を震わせて叫んだ。
だが、その言葉を投げつけたのは、少女に陰惨な仕打ちをおこなった葉月にか。それとも、自分をかばった冬花にだったのか。
自分でも心の整理ができていない彼に、葉月幽は薄い嗤いを見せた。
「まさかお前、気づいてなかったのか?」
え、と思わず声が漏れる。
それこそが、彼自身の無知であったという確たる証だった。
皮肉げに歪められたその唇がめくれ上がり、
「この女は、事のはじめから、お前のために動いていた」
真実が、告げられた。
それを秘していた本人の気持ちを、肉体とともに踏みにじりながら。
あっさりと言われる。だからこそ、ゼンはその事実を即座に受け入れられなかった。
「……ウソだ……」
奥歯がきしむ。汗が噴き出るたびに外気で冷たくなって、氷雨のようにゼンの肌にまとわりついて総身を震わせる。
「どうせ、どうせ……これもなんかの罠なんだろっ!? そうやったお前は、いつもオレを苦しめて……っ!」
そうやって虚勢を張る。だが、彼女は答えない。いつものように笑うでもなく、心無い言葉に泣くでもなく、ただ突っ伏したままに血の面積を拡げていく。無慈悲な時間だけが過ぎていく。
そんな彼らを見て、女魔人は高らかに嗤う。声を出して、武器を揺すって、そのパーツが擦れ合って音を鳴らす。
「よくよく考えろよお前ッ! なぁっ!?」
冬花を隔てて伸びたその手が、ゼンの前髪をつかむ。血の匂いが一層に濃くなり、ガラス質な両の瞳が、高圧的に少年を射すくめた。
「そもそもお前は誰にこの任務を任せてもらった? 大内晴信が誰の口添えでお前をいったん手放したと思っている? そして、さんざん自由を与えてもらっていた? さんざんお前たちの後処理をしてきたのは誰だ? 本来学校で暴発するはずだったワタシの『鏃』が、なんでわざわざ桂騎習玄の手前で発症した? お前らを引き合わせるきっかけを作ったのは誰だ? 正気を失い怪物となるはずだったお前の精神を押しとどめていたのは誰の力だ? ……そして、コイツはお前にいろいろと、散々に忠告しただろう。お前が聞く耳を持っていたかは別としてな」
暴かれていく乙女の秘密が、これまでの彼女の行動原理をつまびらかにしていく。
打ちのめされ、言葉らしい言葉を発することができずにいるゼンは、ややあって
「じゃあ……なんでそれを言わなかったんだよ!?」
叫ぶようにして言った。
言えないならそれはそれで事情は汲む。だが、そんな回りくどいことをする必要まであったのか。
つづく彼の煩悶さえも読み取ったかのように、律儀に、かつ冷淡に、葉月は答えた。
「もし本当のことを言えば、お前はまたその場の感情や状況に流されてただろ? コイツに肩入れしたあげく、余計に組織かにがんじがらめになってた。だからあえて憎まれ役を買って出てた」
――わかった風な口を……
そう、否定したかった。
もしかしなくてもそうなった、という冷静な自己分析は、彼の中にも残っていた。
葉月幽のシミュレートと人物評は、まるで当人の心の中さえも透けて見えるというほどに正確だった。
「まぁ、結局コイツにじゃなく桂騎習玄に肩入れしたお前は、妙な使命感燃やしてこの地に居座り続けた。『吉良会』からは抜けたい。だが与えられた任務はこなす。そしてあわよくば復讐をと企んでいた」
「……っ」
「そんな矛盾に満ちた身勝手のしりぬぐいを、冬花はずっとしてきたってわけだ。それとなくお前がさっさと出ていくよう示唆しながらな。だがお前はその好意を理解せず反発し、そうすればするほどに事態は悪化していき、コイツの言動には無理や矛盾が生じるようになった」
つまり、自分はずっと、彼女に庇護されてきた。
憎んでいたはずの相手に。さっき大内晴信にそうされたような事実を、ずっと。
力強くポンと置かれる方に、ビクリとゼンは肩を揺らした。
「お前のおかげでコイツの本心と弱みがつかめた。留守居役の大内晴信もろともに、この女を排除できた。……どうした? 今日二つの念願が叶っただろ。いや叶えただろうが。お前自身の手によってなァ」
その言葉で、ゼンのなかでもつれて絡み合った緊張と悔悟の糸は、限界を迎えた。
「……うあああああァァ!!」
やり場のない怒りを、目の前の敵にぶつけるべく、拳を伸ばす。だが葉月の手は尋常でない握力を発揮し、まるでゼンの身体を磁力で吸い付けたかのように宙に浮かした。
狙いがはずれた拳は空を切り、その両足が地につかないうちに、相手の蹴りがゼンの腹部に炸裂した。
腸がネジ切れるかのような衝撃は、習玄の槍撃でもそうは味わえないだろう。
血反吐を吐きながら、少女の身体を巻き込んで地面に転がる。
「……んとに、バカだな。キミは」
蚊の鳴くような声だった。
「ボクがキミのために動いたとか、キミのせいでこうなったとか……んなワケないじゃ、ない……はは……あんなヤツの言うこと、間に受けちゃって……」
少年と同じように、自らの血にまみれながら、むせ込みながらも、少女は笑う。
原動力こそ憎悪だった。
だが、間違いなく彼女の笑いこそが、自分がここまで生きていくのに必要だった活力だった。
いや、最初は違った。思い出した。
最初に泣いていた少女に笑いかけたのは自分で、桜の樹から髪飾りを取り返したのも自分でも、笑いかえした彼女がいて、それから、
――あぁ、だからこそ、か……
ぼんやりと、今死に瀕したこの瞬間でさえ、ゼンは奇妙な感嘆とともに納得し、みずからの因果を受け入れた。
「つまるところ、ボクも、大内のジジイもさ。自分の私情や勝手でキミを利用してただけさ。だから……新田くん。そんなヤツらに、キミが何かを感じる必要もないんだ」
だから、とか細い声が徐々にちいさくなっていく。
彼女から外れた真紅の『ルーク・ドライバー』が、ゼンの手元に転がり落ちる。
「キミの笑顔は、いつかまた、べつの誰かに向けてやれよ」
露骨なため息が、現実にもどす。
顔を上げれば、黒い雷をともなった矢が、ゼンたちの方角に引き絞られていた。
「せっかく気を利かせてハラ割って話す機会を与えてやったってのにな。ふいにしやがって」
苦み走った、どこか壊れたような笑みが、魔人の顔に浮かんでいる。
「そういや三つめの願いがまだだったな。……滑稽な茶番すぎて久々に笑えた。お礼にかなえてやるよ。……この世のしがらみもろとも、『解放』させてやる」
甲高い哄笑とともに、矢が指先から離れた。
巻き込まれた風がコンクリートの地面を深くえぐり取り、着弾した瞬間に山肌や周囲の木々数十本を巻き込んで爆砕した。
その土煙を突き破り、
《Check! Pawn!》
《Check! Queen!》
《Checkmate! Pawn!》
音声が、三重になってこだました。
屈折しながら稲妻が夜を駆ける。その輝きは黒みを帯びていたが、闇に溶け込むことはなく、不思議と区別がついていた。葉月幽を貫かんとした。
彼女の弓は一振りで、その雷光を消し飛ばした。
中からあらわになった少年は、魔人の上空を舞った。傷だらけの地面をすべり、ターンしながら彼女と向き直る。
真紅の錠前を腰につけ、『歩兵』を独鈷杵へと変形させたあとで、『女王』の駒をそこに挿し直し。
黒い独鈷杵を口にくわえ、比礼を巻いた少女の体を、片脇で抱いて。
今度はハッキリと、倒すべき敵を見定めて。
「お前の言う通りだ。葉月幽。オレはどうしようもない大バカだよ」
歯で支えていた独鈷杵を逆手に持ち替えて、新田前はその愚を認めた。
「だがお前に笑う資格なんてありはしないッ! オレのことも、彼女のことも!」
笑みをかき消し、いつもの不機嫌な仏頂面にもどった葉月に、刃を向ける。
たとえ感情に流されたうえの行動だっていい。
折れない。屈さない。跪かない。諦めない。それだけの勇気を、くれるのなら。
自分を救ってくれた彼女を、護る力を一時的にでも貸してもらえるというのであれば。
「オレを嗤っていいのは、冬花だけだ」




