(19)
文字どおりの闇雲に、ひたすらに、ゼンの迷走はつづいていた。
ひたすらに、自問自答をくり返しながら。
なぜ、どうして。なぜああなった。どうしてこんなことになっている。
たとえ心の中での呟きであっても、それ以上を言語化することは、酸素を思考よりも運動に費やしている今では不可能なことだった。
そんな彼の心中を反映させたかのように、一本道をまっすぐ進んでも先は見えない。
誰かの視線は時折感じていた。だが、追っ手はなかった。
足は止めない。止めればすかさず追いつかれる。そんな気がした。たとえいずれはそうなる運命だとしても、敵に居場所を気取られ、即座に仕掛けられるよりはよっぽど良い。そう思ったからこそ、彼は衰弱しきった肉体に鞭を打った。
地獄であれ天国であれ、道というのならたしかにどこかへはつながっているはずだ。
……なのに、体感時間でははるかに長い時間逃げ回っても、その先に何かがあるようには見えなかったし、思えなかった。
だが、頭ではわかっていても、生身の肉体では限界がくる。
疲れを感じる間もあたえず前後させていた脚はもつれ、ゼンは倒れこんで肘を擦った。
「……ッ!」
起き上がり、周囲を見ればなんのことはない。
自分は、山路をのぼり、そのふもと近辺に立っていた。背後には標高を示す札が申し訳程度に、かたむきがちに立てられていて、眼下には、文明の光、町の灯りがひしめいていた。
観光バスの通り道としても区画されていた道路は意外にも幅が広く、その夜景も玉石を敷き詰めた宝箱のように、得も言われぬ美しさがあった。
虫の音が聞こえる。自分の息遣いがそこに混ざり合う。
頬をずっと撫で続けていた冷風は止み、それによってかわかされていた肌は、ようやくその機能を思い出したかのように、どっと汗を拭きださせた。
安堵の息を漏らした次の瞬間、
「よく見ておけよ」
と背後から、低くかすれた女の声がかかった。
「いずれ消える光景だ。目に焼き付けておいて損はない」
葉月幽。
さっきまでいなかったのに、その女魔人は、道路標識を隠すような位置取りで、右半身を闇に溶け込ませるようにして、立っていた。
怖じている場合ではない。まして、これ以上混乱している場合でも。
「……あいにくだったな。オレは、まだ死ねない。これでこの夜景を見納めにする気はない」
憎まれ口をたたきながら、すり足で、センチ単位で距離をとり、退く。
そんな彼の微細な動きを知ってか知らずか、無遠慮に、葉月幽は距離を詰めていく。
ただ、その表情にはかるい困惑が浮かんでいた。
だがそれも一瞬のことだった。「あぁ」とひとり、得心したという風に、うなずいてみせた。
ゼンの思い違いに対する、冷笑を浮かべて。
「別に、お前がどうこうという次元で話しちゃいない。この町から、いやこのクソみたいな世界から、このニセモノの蛍火をすべて消し飛ばす。一度、暗黒にして原始の時代へと強引にもどし、そして、『流天組』が新たな夜を作り上げる。一度はやった。もう一度やれる。」
その両目に、狂気はなかった。
……いや正気のままにそうしようとしているからこそ、葉月幽は狂っていた。
当然のように語られる彼女の野望。それはゼンがとっさに理解できる許容を超えていた。
慄然としながら、それを押し隠して、攻撃を避け、逃走することを考える。
「……ハッ、いかにも悪党の言いそうなたわごとだな。で、アンタがその世界に君臨するってか? それが最終目的か? これまたワンパだな」
ことさらに煽って隙を作らせ、かつ情報を引き出そうとゼンは画策した。
ルートとしては背後のガードレールを飛び越えて、手負いを覚悟で崖から飛び降りる。
「べつにお前に理解してもらおうとは、思わないけどな」
ガツ、と鈍い音が足元に響く。
かかとに何か鋭利なものが触れようとしているのに気づいて、それ以上の後退をあきらめた。
その彼の両脇を、その鉄片が通り過ぎていった。
飛行機の翼のような、二本の鎌刃のような、三日月のような、歪曲した刃。
それらは、彼女の右手へ飛来していく。
暗雲に隠れていた半月がようやく顔をのぞかせ、彼女の右手に握られた鋼鉄質のバトンをさらけ出させた。
何かを持っていることはゼンにもわかっていた。てっきりいつもの合成弓を手にしていたものだと考えていたが、手にしたシンプルな棒の上下に、その鎌刃が合わさり、リムとなる。
接合面がボルトで締め付けられて固定され、その両端から射出されたワイヤー状のものが、絡み合って強固な弦となる。
クリッカー、レスト、ハンドル……アーチェリーではそう名付けられた部位が次々と展開し、長く突き出たスタピライザーに、彼女は矢のかわりに、『城砦』の駒鍵を装填した。
《Brave Shooter……Take the field……Rook》
という機械音声によって、ゼンはそれの正体を知った。
「『ターミナル』……ッ」
「この最終機『Brave Shooter』の試運転。それが今この場にいる目的だ」
「……はっ、丸腰の相手で据え物斬りってわけか」
「いや、お前で試す気なんぞハナっからねーよ」
そう言いつつも、彼女はその足を止めなかった。明らかにこちらを抹殺する気で、歩いてきた。
鍵を回すと、
《Checkmate……Rook……》
地の底から聞こえてくるような野太い宣言とともに両端の弓弭となった刃が、彼女自身の霊力や資質に呼応し、赤黒く輝き始める。
二倍、三倍とその熱と質量は肥大化していく。
間近に太陽が空から落ちてきてせまってくるかのような、恐怖。石が溶ける。肌が焼ける。そんな幻想が、ゼンの脳裏を支配した。
迫力に気圧されて、ゼンはふたたび後退した。
だが、遅い。
目の前で際限なく膨張する殺意の塊から、自分が逃げられるヴィジョンが思い浮かばない。
「あ……ああ……」
逃げればよかったのだ。
肌が切れようと崖が落ちて四肢が粉々に砕けようと……たとえそれで死ぬことになっても。
こんな絶望を、味わうぐらいなら。
高々と、ゆっくりと時間をかけて掲げられたそれが、一気に振り下ろされる。
空気を引き裂き自らを両断しようとする一撃から、数秒後に待ち受ける死の運命から、少年は目をそむけた。
だが、
天災にも似た閃光は、彼の肌を焦がすことはなかった。
……代わり、幾重にもかさねたはずの比礼が、呆気なくちぎれ飛ぶ。椿を飾った髪飾りが、たたき折られて砕け散る。
災厄にも似た斬撃は、華奢な肉体を上下に分かつことはしなかった。
……代わり、彼をかばった者の返り血が、熱さを残したままにゼンの頰から首筋にかけてを濡らした。
「…………え?」
決してありえない。あるはずがない。
そんなこと、あってはならない。あって良いはずがない。
ゆっくりと、身体をかたむけていく少女をへだてて、葉月幽は、ひどくいびつに、そして獣じみた冷笑をたたえていた。
「お前がそいつをかばうことは、『眼に視えて』わかってたからな。……忍森冬花」




