(15)
ぐり、と彼女の膝がさらに重圧をくわえてきて、習玄はくぐもった悲鳴をあげた。
「せめて嫌われる理由ぐら、い……ッ、聞いても?」
「君は、ボクがぜったいに手に入れられないものを、持ってるからさ」
少女の瞳に、いつもの愉悦や嘲笑はなかった。
「君はどこまでも正道を貫く。ヘドが出るような正論を当たり前のように振りかざす。ボクよりずっと弱いくせに、葉月幽や時州瑠衣みたいなたいした才能もないくせに。なのにその生き方は、誰よりも潔く、迷いがない。道理が通らなければ折れることもなければ退くこともしない」
忍森冬花の、わずかにめくれあがった唇が引きつりを見せたまま小刻みに揺れていた。
その奥歯がぎしり、と歪む音が聞こえた。
いまの彼女と似た表情を、かつてどこかで見た気がした。
それがどこで、誰の顔だったのかは、思い出せなかった。
「そんな生き方が、新田前のような人間にはまぶしい……だからこそ、ボクや葉月幽みたいなヒトデナシを、どうしようもなくイラつかせる。許せるわけがない。許されるわけがないだろ……っ、そんな在り方が……!」
「そんなこと、は」
「じゃあなにが違う?」
振り上げた拳骨が、不自然な、彼女らしからぬ力みを感じさせた。
「ボクとお前と、なにが違うのかな? どうしてボクはお前みたいにはなれない? お前みたいに振る舞えなかった? ……答えろよ」
一方的にまくし立てられているが、自分にも言いたいこと、弁解の類は山ほどにある。
だが、彼女のなかに確実に動揺は生まれていた。その間隙を縫うことに突破口を見出すほかに術がない。
「答えろ……答えろォ!」
冬花の、彼女にしか知り得ない怒りは、その拳は、当たれば間違いなく習玄の頭蓋を前頭葉もろともに打ち砕いていただろう。
いや、すこしクールダウンして、冷徹な殺し屋として無言に徹し、そのまま突き落とすなり急所を突くなりしていれば、習玄の命は終わっていただろう。
だが、その彼女の腕には、習玄の背から伸びた羽織の袖がからみついていた。
「ぐっ!」
彼女の真似事だが、時間稼ぎには十分だった。
冬花の下半身の力が抜ける。スカートの下を滑り、習玄は彼女の束縛から脱出した。
ふたりの腕を結ぶ天衣の袖は、手錠のように互いの腕から外れない。
自然綱引きのような体勢となって、それぞれの腕力にまかせて引き合った。
冬花が姿勢を組み替えなければならなかった分、引き合いは最初、習玄に分があった。
だが彼女の地力が、しだいに上回りはじめる。
踏み留まろうとする革靴の奮闘むなしく、習玄はズルズルと、ふたたび倒れたフェンスの向こう側で誘われようとしていた。
だが、彼はこうすると考えたときから、力勝負に持ち込む気なんて毛頭ない。
すぐに真っ向からの抵抗はあきらめた。
少女に向かって駆けだした。
冬花もしぶとい敵に歩調を合わせて優位に持ち込もうと、移動をはじめた。
さらに彼女の腕からも比礼が飛んできて、その端が習玄の腕を巻き取った。
――これで良い、ここからが踏ん張り所だ。
と習玄は、奥歯の上下を割れんばかりにかち合わせた。
牽引力が二倍に増えて、強制的に習玄の身体は冬花の許へと運ばれていく。
待ち構える彼女は、常人離れしたあの鉄拳をかためて待ち構えていた。
そして習玄の身体が前のめりに崩れた瞬間、両者の影は交錯した。
習玄は渾身の力で冬花の比礼と、みずからの打ち掛けとを両手でつかんだ。
少女の手首や腰まわりを巻き込みながら両者を絡み合わせ、彼女の背を終着点としてきつく戒める。
「捕縄術……ッ!?」
おどろきに目を見開く少女は、上半身の自由を奪われていた。
強引にそれを引きちぎろうとしても龍脈で折られた二種の布地は、複雑に絡み合っていて、おそらくは鋼鉄の鉄鎖よりも脱するのはむずかしいことだろう。
それを解くには縛った習玄自身であっても精密な手さばきが要求される。
ましては、両手を腰の後ろで戒められている冬花には、自らの比礼を解除することさえできずにいた。
「因果応報ってのはことことかな? っていうか君、こんなマニアックなスキルまで持ってたんだ。あ、それともシュミだった?」
すこしはクールダウンしたのか、それともみずからの不意を突かれたことへ反省をした結果か。忍森冬花はいつもの調子をもどしていた。この一両日中、さんざん聞かされた皮肉の数々。
苦笑を引きつらせながら呼吸をととのえ、習玄はふたつの『手綱』を握りしめた。
「あと、そーいう清廉潔白な善人面してるくせに、妙に抜け目ない立ち回りが、好きになれないねェ」
「……個人同士の好悪はともかく、あらためて事情を話して、手を組みませんか。貴女にしても、葉月幽に心服したわけでもないでしょうに」
冬花は両腕を拘束されたまま、うすく作り笑いを貼り付かせていた。
葉月幽を出し抜く気でいるのは、この戦闘の開始前に彼女が言ったことだ。
そしておそらくは……
「俺たちのやろうとしていること、救いたいと思う目的は、おなじはずだ」
さながら大魚のかかった釣り糸のように、ふたつの布がピンと張ってすさまじい力を加えられていることを訴えてくる。
目の前で捕らえている少女は、見た限りで大差なく立っている。平然と憎い相手に笑みをたたえたままだ。にも関わらず、すさまじい抵抗と意志が、手を介してつたわってきた。
「そんな正道、君だけでやれよ」
こちらに対する、はげしい怒りが。
乱入者は、突如として現れたのはその瞬間だった。
いや、いつからそこにいたのか。その気配さえなかった。
黒装束の、顔のない忍者。
満身創痍の体で、その像を揺らめかせながら歩み寄っている。
「……牧島無量の、分身?」
前日に大量に葬ってきたはずの、忍者。
呆れるほどに数は揃っていたのに、今この瞬間、現れたのはたったの一体だった。
その事実が、この乱入が誰にとってもイレギュラーなものであるということを教えてくれた。




