(1)
「『春の樹の魂は』」
迫り来る美少年に向けて、ウサギはそう言葉を投げた。
喉元に触れるか触れないかというところでピタリと止まった金の刃を、首を微動だにせず目だけで見下ろす。
汗腺が本来の機能を思い出したかのように、習玄の肌からは、急速に冷汗が吹き出し始めていた。
「『珊瑚入り組む四の城に眠る』」
意味不明なウサギの問いかけに、目の前の美少年は訝しみながらも、これまた意味不明な言葉で返す。
どう聞いてもつながらない文脈だが、それは彼らの間では符号するものだったらしい。
ごくり、と嚥下された空気が喉仏の辺りを膨らませ、肌と切っ先がわずかに触れて出血した。
「新田前だな?」
ゼン、と呼ばれた少女と見まごう少年は、眉をひそめたままに、習玄の胸ポケット、そこに住まう人形に目を向けた。
年頃は自分と同じ程度、あるいは年下か。
「そういう貴方は、時州瑠衣?」
「こんな姿で申し訳ないね。ただ君のタイミングも悪い。もう少し早く着いていればこうなることもなかったし、お化粧直しするには少々早すぎた」
「むしろオレはこう言いたい。『定刻よりも早く状況を動かす方が悪い』と」
ゼンという美少年は、ため息をついた。
その身を習玄から引き離したが、依然疑念と敵意は向けられたままのようだった。
その激しさに身をすくませつつ「あのーぅ」と片手を挙げる。
「それでお二人は、何者ですか?」
「……いや、お前こそ誰だよ」
とゼンは聞き返す。
至極まっとうな質問だった。
確かに自分の方が、この異常な領域においては部外者だ。
「彼は桂騎習玄君。わたしが巻き込んでしまってね」
「……なるほど」
と、ゼンの瞳が鋭く細められる。
隠すことなく前面に押し出された殺意に、習玄は頬を引きつらせ笑った。
「口封じは、必要でしょう」
一歩でも動けば死ぬな、と直感した。
対応するよりも早く、あの縮地が再び間を詰め心臓なり咽喉なりを一刺し。
そんなビジョンが彼の脳裏をよぎる。
次の瞬間、胸が大きく震えた。
ただし、物の例えでなく、物理的にだった。
バイブレーションと共に、やたら派手で破壊的な音楽が流れる。妹分が設定した、携帯端末の着信メロディ。
スマートフォンを引き出してみれば、画面にはその設定者の名前。
なんてことのないその名……『みのりさん』の表示が、今にも食ってかかりそうな迫力を与えてくる。
「げ」
と、思わず口からこぼれた。
――目の前の脅威以上に危険かもな、これは。
内心呟く習玄は、この後の展開を想像し、気が滅入った。
「……殺すの、少しタンマで」
目の前のゼン少年を左手で制す。おそるおそる、緑のボタンをタップする。
「もしも」
『何回かけたと思ってんのっ!?』
「よんか」
『八回だよ八回! 倍ッ!!』
挨拶も、抗弁も、怒涛の勢いに押し流される。
その激しさは、鼓膜に噛みつくようだった。
そもそも激闘の中、そんな呼び出しに応じるどころか気づくことさえ難しい。ようやく静寂を取り戻した今になっても、一秒後には死ぬかもしれない世界に、彼は立っている。
……ということを言っても、信じてはくれないだろう。信じたとして、感情的になった妹分をなだめることが出来るだろうか?
ぼんやり流していたので、あやうく相手の咳き込む音さえ聞き逃してしまいそうだった。
「大丈夫ですか?」
《あぁ、悪い》
通話の相手は、男の低いトーンに変わっていた。
「親父さん? お嬢さんは……」
《それがよぅ、寒空の下探し物なんてしてたから、熱出しちまったみたいでな、んで今、無理やりケータイ取り上げた》
「それは……すみません。なんというか」
《なんでお前さんが謝る? 申し訳なく思ってんのはこっちだって。とにかく、そっちも風邪引くなよ》
「……はい。すぐに帰ります」
習玄はハッキリと宣言した。
今、自身に独鈷杵を向ける相手を、正視して。
紀昌に向けた返答は、同時にゼンに対する宣言でもあった。
予想さえしていなかったに違いない。混乱と当惑により、目前の黒曜石の瞳が揺れていた。
『夜道は危ないからな。気をつけろよ』
「そうですね、身の回りは明るくして帰ります」
最後のものとなるかもしれない挨拶を交わし、通話を打ち切る。
「……俺の聞き間違いか? 『すぐ帰る』と言ったのか? この状況で」
やや神経質に、小刻みに震える頬。鋭くこちらに据えられたままの目。それらを観察しながらも、習玄は答えなかった。
断言できるほどに自信はなかったし、口にするだけ余裕もなかった。
ただ、取り出した紅い駒とドライバーが代弁する。
「冗談で言ったつもりはない」
と。
それが伝わったか、呆れのような色がその瞳の中に交じる。
首筋に手を当て、頭をわずかに傾けた。
少年の影が、一瞬後には消えた。
同時に習玄は首を大きく反らした。
それは今すぐにでも来る刺突を警戒してのことだった。しかし回避を狙ってのものではなく……。
がつん、と重い骨の音。
一歩の間を飛ばして迫るゼンの額に、己の頭蓋を叩き込む。
「なッ」
ダメージは同程度。
だが企図した方としての余裕と覚悟が、習玄をゼンよりも早く立て直させた。
左腰に添えたドライバーから鉄鎖が展開する。
紅馬の鍵を差し込み回す。
《Check! Knight!》
音声と同時に生まれた槍を掴み取り、それを再び錠前へと押し込んだ。
《Checkmate! Knight!》
「ッ!」
機械音声を耳にした美少年が必殺技を警戒して退いた。
よし、と習玄は心の中で強く頷き、槍を大振りした。
――残念、こっちの狙いどおりだ。
笹の穂から天空に打ち上げられた一本の銀光が、無数に分散し流星群となって降り注ぐ。
まばゆさが一帯を覆い、相手どころか自分の肉体さえも見えなくする。
使い物にならない目を閉じて、習玄は身を翻して走った。
中学から足掛け四年。
自らの足で歩いて通った母校と通学路は、目を瞑ってでも把握していた。
□■□■
押し殺してきた息が、緩くなった口端から「たはっ」と漏れた。
『すもも』と学校をつなぐ峠の車道。そこでようやく、腰の装置脇のレバーを引いて槍を解除した。
「危なかった」
習玄はナイトの駒を握り、噛みしめるように呻いた。
習玄にとってもあの頭突きは、賭けに近い行為だった。
もしゼンが側面や背後にまわって奇襲を仕掛けてきていたら、また違った運びになっていたはずだ。
それを警戒しなかったのは、微動だにしなかったあのゼンの両目から判断してのことだ。
習玄は、雷のような眼光を思い出し、笑みを浮かべた。
――まぁでも、あのまっすぐな切り込みは嫌いじゃない。もっとちゃんとしたところで手合わせしたいな。
「しかし、一夜にしてあぁも『ルーク・ドライバー』とクセの強い『ナイト』を使いこなすか。ますますに興味深い、君は」
胸ポケットからの手放しの賞賛に「いやいやそれほどでも」と謙遜する。
そして数秒後、今褒めたのが誰なのかを思い出し「あ」と短い声をあげる。
「で、君はヒトをどこまで拉致ろうというのかね」
そのヒト……いや時州瑠衣というウサギは、抑揚のない声で尋ねた。