(6)
「っ……!」
ゼンの回し蹴りは老人の口の端を切ったようだった。
照明もつかず、無人のロビーを先行する大内晴信は、自らの唇に手を当てて、かるく身悶えた。肩を振るわせた。
だが、やがて肩の小刻みな揺れは全身へと回っていき、
「ふ、くくく」
という、地の底から響くような含み笑いへと変わっていった。
「あの技の冴え、あの目……っ! わしが愛でていた頃にはなかったものだ。腹は立つが健気でもあり、美しくもある。なぁ、そう思うだろうっ!?」
振り返り、同意を求められても葉月幽たちが示せるのは生理的な嫌悪感ぐらいなものだった。
だがそれに気づかず、ひとりよがりの、一人芝居はなお続く。
一人陶然と悦に入っていた晴信老人は、突然その恍惚から覚めて、一転して憎悪を露わにする。
「だが許さん! あぁもゼンを惹き付ける男の存在などっ。あれが執着して良いのはわしだけだ! 憎んで殺して良いのもわしだけだっ! その小僧の名、なんといったか」
「桂騎習玄」
唯一自分が返答しうる問いに、葉月はみじかく言葉を切った。
「そう、その間男だ。早急に始末したまえ。君の独断専行を、宗主さまに報告せずにいてやるのだ。それぐらいの汚れ仕事ぐらい、つとめてみせろ」
諾否は聞かず、老人はロビーから出て行った。
外に待たせてある黒塗りのセダンと共に、夜に溶けていく様子を内部から見送りながら、
「……色ぼけたクソ虫が……」
彼女は老人に、そう吐き捨てた。
「まったく、『吉良会』も落ちぶれたもんだな。あんなのが幹部かよ。良順のヤツ、なに考えてる? 素直におれたち『流天組』に、すべての議席を与えてくれればいいものを」
同調したのは始だった。
「あんなクズでも、若い頃は優秀な男だった。ボケ切った今でも、事務処理能力や資産の運用、工作には長けてる。……なにより、良順はいい加減切り離したいんだろう。『流天組』と、『吉良会』とをな」
葉月の胸に、にがい思いが去就する。
かつての戦友が、自分たちと決別しようとしている。その動き自体は半世紀前からあったが、ここ十年は特に顕著だ。
まっさきにかつての名を捨てたのも、良順だった。
「もう僕らの物語は終わったんだ。いい加減、夢から醒めるときなんだ」
という、意味深な言葉をのこして。
それ以来、マトモに口さえきいていない。
「……いいだろう。そっちがその気なら、こちらも好きに動くだけだ、裏切り者」
そう独語した葉月の背後で、わかりやすく咳払いの声が聞こえてくる。
顧みた先に、肩をすくめて両手をかかげた忍森冬花が立っていた。
「もう帰って良いカナ? 明日のデートにそなえなきゃ」
どこかすっとぼけた表情に葉月は鼻白む。
思い切り締め上げられたハジメは「お前なぁ」と勢い余らせつかみかかろうとしたが、葉月は彼を腕力で制止した。
「あのボケ老人は、ひとつだけマトモな言葉を吐いた」
「ん?」
「どうにかできるうちに桂騎習玄は殺しておけ。お前じゃあいつは御しきれない」
「あれま」
口元に指先を当て、つつと忍び寄り、挑発的に葉月の周囲をめぐる。
「まさかあの新田ちゃんとおなじようなことを、あんたともああろうお人が言うとはねぇ? せいぜい十六、七の子どもに、なにをおびえてるんだか」
露骨な挑発、だがその言い回しは前よりも直接的で、口数自体が少なくなっている。
たわむれに矢を射放つと、そこにすでに冬花の姿はない。
ロビーの自販機に矢が突き立ち、その衝撃で全壊した程度だった。
――やはり直接叩き込まないかぎり、仕留められないか。
その状況へともっていくながれを算段しながら、葉月幽は
「……饗場ヒビキにつなぎをつけ、あの女を尾けさせろ」
「なんだったらその尾行、おれが受け持ってやるけど?」
「お前じゃ、まかれるのがオチだろ」
冷たく突き放されてやや傷心する男に、葉月はもう一声、付け加えた。
「お前には、お似合いの相手を監視してもらう」




