(5)
「つくづく見下げ果てた女だ。よりにもよって、コイツを招くとはな」
かぎりなく憎悪にゆがめられた視線を、ゼンは一心に裏切り者へとおくった。
「言われてるぞ」
背後でせせら笑うのは、葉月幽が書生風の小物だった。
対して、当の忍森冬花は肩をすくめ、そして
「ぐえぇっ!?」
……その男を、締め上げた。
情けない声を絞り出す男を、比礼で宙に吊り上げたまま、
「ボクも、聞いてなーい」
と、彼女にしては低い声で、片目をすがめて葉月幽を見据えた。
この場にいる、もうひとりの女。流れから察すれば、冬花ではなく、この『吉良会』幹部が淫蕩な老人をこのホテルに招き入れたのだという。
背格好は間違いなく少女なのだが、腕組みをする所作といい、どことなく男性的で粗雑さを感じさせた。
「言い忘れた」
「言い忘れた? もういい歳なんだししょうがないけど、もうちょっとホウレンソウをさ」
瞬間。
ひょうふ、という奇妙な風切り音が部屋を通過した。
ふと横を向けば、ゼンの顔のすぐ真横、ウサギの人形の頭上に、ちいさな穴が開いていた。
あの頑丈な比礼がちぎれてはらりと風に舞い、青年の姿をした小物が解放されたその場でうずくまってむせ込んでいる。
その傷口から、そして葉月の持つ弓から、魚骨に似たあの矢が自分たちの合間を通り抜けたことに、ゼンはすべてが終わってから気がついた。
いつ、どこから矢を抜いた?
いつ射た?
どうやってコンクリートの舗装もろともに、破砕音さえ立てずに壁を貫通させた?
それさえもわからないが、女ふたりの間ではこうしたやりとりは日常茶飯事らしい。
「……さきに約束を破り報告を怠ったのはそっちだ。ワタシは、桂騎習玄を殺せ、と頼んでおいたはずだ。そこのゴミどもも、本当ならもっと前の段階で処分しているはずだったろ? なのに、こんな場所にかくまいやがって」
「良いじゃない。彼、素人にしちゃ意外に見所あるし、体よくあしらえば、こっちの都合のいいように動かせるし。そこのふたりは、万が一の人質ってヤツでさ」
……などという、剣呑な話を、何事もなかったかのように進めている。
なんだ、こいつら? いったいどういうつながりで、目的はなんだ?
これだけのやりとりを見聞きしても、その真意や真相は判然としない。
分かることと言えば、この連中がロクでもない輩の寄り合いで、良からぬことを計画しているということだ。
「やめろっ!」
と制止の一喝をその場に響かせる男がいた。
それまでゼンを凝視したままなにも言わなかった大内晴信が、視線はそのままに口を開いた。
「まったく、女は無粋だな。我らの再会を騒音で乱すとは……なぁ、ゼン」
老人の声と視線、そして伸びてきた指先が、ゼンの白肌にからみつく。
幼い頃からの虐待の日々が、彼の脳裏にフラッシュバックする。だが、ゼンはすぐさまそれを振り払った。
キッと睨み上げると、晴信の顔が虚を突かれたといった様子で無防備になる。
その隙を突き、狙うは股間。復讐と脱出を企図して蹴りをくり出した。
……が、その爪先は老人にかわされ、虚空をおよぐ。
「……だというのに、なんだその眼は!? なんのつもりだこの足はァ!」
さっきまでの上機嫌な態度とは一転して、修羅のように激しい怒りに満ちた顔が、そこにはあった。
伸びきったゼンの足は逆に蹴り払われて、姿勢をくずし、防御もできずにさらされた腹部に、晴信の逆襲のキックがめり込んだ。
「さんざん目をかけてやったっ! 情けを授けてやったというに、誰にどうたぶらかされていたっ!? このッ二股膏薬がっ」
そう声高に罵りながらサッカーボールのように何度も蹴たぐる。そのたびに、ゼンの身体はギシギシときしみ声をあげて、おおきく揺さぶられた。
声をかすかに漏らしながら、壁や床に爪を立てる。
奥歯を噛みしめ、少年は苦痛が終わるのに耐えた。
ブレる視界の片隅に映る忍森冬花たちの顔は、よく見えない。
――だが、かつてのオレじゃない。痛みに耐えていればすべて済んでいた頃とは、違う。
「ふざ、けるな」
老人の足首を、ゼンは自らの足裏で食い止めた。
正すべき言葉は、正す。言われのない
この身体は、もう自分ひとりのものじゃない。戦えるという名誉と自負は、自分の力で得たものでもない。
「オレなんかは、どう思われようとかまわない。だが、訂正しろっ! あいつは……お前のようなゲスとは、違うっ!」
後ろ手は拘束されたまま、ゼンは立ち上がった。
「き、さまっぁ!」
振り上げられた晴信の拳を、少年は足の甲で受け止めた。押し返す。体勢をかたむかせた老人の頬に、強烈な回し蹴りを見舞った。
老人が痩躯をきりもみさせて倒れる。ドアまでの入り口は開けた。
――この勢いで脱出できるか?
そう希望を見出した矢先、彼の腰は長大な布に巻き取られた。
次の瞬間にはその比礼は旋回して、ゼンを部屋の壁へと叩きつけていた。
「ダメダメ、おとなしくしてなきゃ」
と、その持ち主である忍森冬花は言った。その片隅で、弓矢をつがえていた葉月がその両手をため息まじりに下ろした。
「この餓鬼が、よくもォ!」
晴信も再び拘束されたゼンに殴りかかろうとした。
彼だが、拳は叩き込まれなかった。見上げれば男は思案するふうに、
「顔を壊すのはまずいなぁ。……あぁすまないゼン。
むしろ哀願するような口調でそう言い、頬をなぞる。
これ以上何かしたら、たとえ手足がちぎれることになろうとも、殺す。
それだけの覚悟で睨むゼンだったが、老人は媚びた表情を引っ込め、やさしい好々爺の表情をした。
それから立ち上がり、
「また来る。次までにその身、きれいにしておけ」
とだけ、物静かに言ってきびすを返した。
罵声と苦痛の時間は去った。
痛みがおさまりかけた時には、もう三人の姿はなかった。
静観していた人形と、倒れ伏したままの『忍者王』だけが、彼の周囲にはあった。
「まったく支離滅裂な男だな。……だいじょうぶか」
さほど気にかけていない、いつもどおりの瑠衣の平坦な調子。
「平気。このぐらいは……慣れてる」
身をよじり、楽な姿勢になったゼンは、唯一部屋の中で無事な天井を見上げながら、
――いくら桂騎に策があるっていっても、このままはまずい。なんとかして、離脱するか、あいつの戦力を強化させないと……
「『誰に、どうたぶらかされた』か」
含みたっぷりに老人の言葉を復誦した瑠衣に、「あ?」と少年は目を向けた。
「お前よくわかったな? あの老いぼれが指している人物が、桂騎習玄という男だと」
半ば挑発のようなその問いにゼンは答えず、ただぐっと奥歯を噛み締めるばかりだった。




