(4)
窓は割れて吹きっさらしになったものの、葉月幽が去り、彼女の威圧感から解放された部屋はようやく温度と時間を取り戻したかのようだった。
おのれの血の巡りが蘇ったのを自覚しながら、
「おい」
と、ゼンは隣の人形に呼びかけた。
「さっきの話、本当か」
答えはなかった。沈黙こそが、その回答だった。
「言えよな! そういう大事なことは……っ」
拘束を解こうと、ゼンは身をよじった。
ガンと肘を壁に打ち付けただけで、その拘束が外れることはない。
そもそも、万全の力が出せないようにこしらえられているのだから、力いっぱいあがくことは無意味に近い。
「君らにそれを言ったところで焦らせるだけだったし、なんの解決にもならないだろう? だから言わなかった」
あるいは霊的な力をもってすれば解けるものかもしれないが、時州瑠衣にはもはやそんな余力さえ残っていないのだ。
「それに、君だって薄々感づいていたんじゃないのかね?」
瑠衣に指摘されて、「それはっ」と反論、あるいは弁解しようとして口をつぐむ。
まさに、九戸社の正体を明かされた時にふと考えたことが、それだった。
体力であれ、霊力と呼ばれるものであれ、無尽蔵であろうはずがない。
それには食べ、飲み、眠り、そうして体調をととのえ回復する時が必要なはずだった。
だが時州瑠衣には、ウサギの人形にはそれがない。睡眠や食事を必要としない代わりに、それによって補うことができないでいる。
ひとえにここまで、かりそめの肉体を維持できていたのは、生身の肉体から魂魄と共に移行させた瑠衣自身の膨大な霊力のためだろう。
だがそれも今、枯渇しかけている。
「正味な話、こうして言葉を発するのさえもしんどくてね。ほとんど水中にいるような気分だよ」
「……で、学校に張った結界はどうなる」
「心配するな。自分の命数ぐらいは、君らがとやかく言う前に自覚しているさ。そのうえで、学校の結界維持と肉体奪還のための準備の余力は残している」
「じゃあ、もしも、ずっとアンタがこのままだったら?」
「それまでだな」
事もなげに、さらりと人形は答えた。
「霊力を使い果たせばわたしの精神は消滅し、封印の切れた学園からは汚染された龍脈が一気に噴出し、すくなくともこの市一帯、いや日本全土で多くの人間が理性と肉体を失い、異形と化す」
――うすら寒いことを、平然と口にしてくれる。
もし両手が自由であったなら、ゼンはここで間違いなく頭をかかえていただろう。
「自分の命も関わってるってのに、まるで他人事だな」
「そうかな」
適当な返事にも、真摯さや本気はまるで感じられない。
ゼンが瑠衣の変調を感じつつも確信が持てなかった一番の理由が、それだ。
天才の短命を哀れに思いつつ、それはそれとして、ゼン瑠衣への呆れや反感の念をつよめた。
「……アンタ、今まで一度でも、命を賭けて何かをしようとしたこと、苦しみもがいてあがいたこと、あるのか?」
ウサギの返答は、またも無言だった。
けっして動くことのないマヌケ面をわずかに動かしただけだった。
「……たとえ失敗して世界が滅んだとしても、そうやって『まぁそうなったらしょうがない』で済ませるんだろうな。そんなザマになっても、アンタは他人どころか自分の命にさえ本気になれない」
「凡人のお前にはわかるまいよ」
ようやく瑠衣は言葉をつむいだ。
「生まれてこのかた、お前の言うところの命への執着とか、何かを成し遂げる手応えとか、そんなもの感じたことさえないし理解もできん」
自らを白眼視するゼンに、そのクライアントは声に愉悦をにじませて続けた。
「ちょっと欲しいものがあればすべてが与えられた。知りたいことがあれば、聞けば旧師が世の真理とやらを教えてくれた。それらが間違いであったことも加味してな。実現したい技術理論があれば周囲が膳立てしてくれたし、適当にいじくればだいたい叶った」
いや、それはジョークに見せかけた、自虐だったのかもしれない。
なるほど、とゼンはかわいた声で相槌を打った。
理解できない、という点に関して納得はした。嫌悪を通り越したところで。
たしかに自分にとっては縁遠い存在だった。
生まれてこのかた何も得られず、ただ奪われるばかりだった、自分にとっては。
「というか、わたしにとっては桂騎習玄のほうが、はるかに異常な存在に思えるのだがね」
「……いや、あいつほど単純なヤツもいないだろ。アンタだって、『扱いやすい』とかさんざん言ってたんじゃないのか」
ウサギは少し盛り上がった鼻を、小馬鹿にしたように鳴らした。
「恋は盲目というが、まったくそのとおりだな。……それとも気づかないフリをしているのか?」
「あ?」
「呆れるばかりに鈍感な小僧っ子だよ。自分の感情からも、他人からの想いからも、目をそらしている」
その発言の意図を問い詰めることを、ゼンはしなかった。する余裕はなかった。
外から足音が聞こえてくる。だれかを出迎えるために外出した三人の男女が戻ってくる。
床を鳴らす靴の数は二足分増えていた。
と、同時に外から漂ってくる異臭に顔をしかめた。
生理的な嫌悪が、忌まわしい記憶のフラッシュバックとともに湧き上がってきた。
忘れられるはずもない。
加齢臭を打ち消すための、キツめのコロンを、自分は幾夜も間近で嗅がされていたのだから。
ドアが開くまで、あと三歩、二歩、一歩……
ここにたどり着くまでの間隔が、短くなっていくのさえもわかった。
「ゼン! 久しぶりだなぁ!」
勢いよく、扉が開く。
総白髪が空調とドアの風圧でなびく。
肌の手入れは怠っていないと常日頃閨で語っていたように、六十超の年齢にしては、顔から指まで張りと水気がある。四十かとさえ思うほどだ。だが声のヒビ割れだけは、隠せてはいなかった。
その吐き気がするほどの面の皮の良さは、組織から離れていても、忘れたことがない。当然、悪い意味で。
「大内、晴信……っ!」
自分から多くのものを奪っていった男が、葉月幽に伴われて現れた。




