(2)
街の明かりが、カーテンの隙間から漏れていた。
高速道路沿いにある裏さびれたビジネスホテルでも、その眼下にある夜景は、それなりに見応えがあるものだろう。
とは言ってもそれは十キロ以上は離れた都心部のものであって、周辺にあるのはせいぜいピークを過ぎた町工場や工業団地、採石場ぐらいなものだった。
「……どうにもならないのか、それ」
かたわらの人形にそう声をかける美少年……新田前は、壁際から漏れる光に目を投げたままだった。
だが、たよりの時州瑠衣はガムテープで手足ごと縛られて、身じろぎぐらいしかできないでいた。
「そうは言ってもなぁ、なかなかどうして、たいしたもんだよ。この粘着力。トーマスの野郎、やるなぁ」
「……トーマス・エジソンを機関車みたいに言う奴はじめて見た」
「そういうお前こそ、スパイ見習いなら縄抜けの術ぐらい心得ていたまえよ」
かく言うゼン自身も、親指をバンドする形式の拘束具で縛られている。足の自由はともかく後ろ手に回された姿勢を解くことはできない。
「……で、なんでアンタも捕まってんだよ」
「しかたあるまい? 他ならぬ、カツラキ君のお願いだ。『こっちは大丈夫だから、新田くんのサポートに回ってください』とさ」
「……いや、なんの手助けにもなってないから」
「愛されてるな、新田」
「うるさいよっ!」
耳まで真っ赤にして怒鳴りつけたゼンは、
「だいたいあいつだってきっと記憶を」
そう言いかけて、口をつぐむ。
想像することさえ、おそろしいことだった。
あの研鑽の日々も、自分との日常が、笑い合った日々が、あの桂騎習玄が忘れるのか。
たとえそれが一、二ヶ月程度のことだったとしても、自分にとってはかけがえのない思い出だ。それが、『あの女』のせいですり替えられるというのか。
胸が痛い。苦しくなる。心臓が素手でえぐり出されたような、吐き気と異物感が喉元のあたりまで来ている。
だが口をつぐんだのは、その苦痛ゆえではなかった。
「そゆこと、彼の記憶はボクのものだよ、新田ちゃん」
自分たちを裏切り、関係を破綻させた張本人が、部屋に入ってきたからだ。
カツカツと靴音を鳴らし、ブーツを脱ぎ捨て足を投げ出しベッドに腰を下ろす。
「しっかし人の記憶って、単純なものだよねー。多少の矛盾があったとしても、改竄されたって可能性を考えるよりも自分のカンチガイとか考えちゃったり、都合の良いつじつまを合わせたりする。だから、コイツでイジくるのはほんのちょっとの記憶でいい。筋書きはおんなじでも、演じる役者を変えちゃば……ほら、舞台は成り立つ。『聖夜祭』、彼なんの疑いもなく楽しんでるよ? 無二の仲間で『センセイ』でもあるボクとね。いやー、薄情なもんだねぇ」
クイーンを手で弄びながらヘラヘラと煽る忍森冬花を、ゼンはこのうえなく低い声で、
「黙れ、裏切り者」
と罵った。
「……すこしでも、お前を信じようとしたオレがバカだった」
「ホンットにねぇ。新田ちゃん、その場の雰囲気に流されすぎ。組抜けの時もそうだったけど、もうちょっと情に流されないスマートな立ち回り方、できないもんだったのかなぁ」
「あ?」
「だってそーでしょォ? 新田ちゃんの本当の目的は、『吉良会』からの脱走だったはず。なのに、ヘンに桂騎クンたちに肩入れしたもんだから、こーゆー事態に巻き込まれる。すこしは相談してよ」
冷笑を浮かべて見下ろす少女、その肉感的な股や腰のくびれには心揺さぶられることなく、少年は少女の目だけに憎悪の視線をひたすらに送りかえした。
呪い殺さんばかりの負の感情から、冬花は肩をすくめて目をそらした。
「そのクセ、こっちの言うことは聞かないんだから。……まぁ良いけどさ。それじゃあコンビニでなにか買ってくるけど、リクエストある?」
「お前が取り上げたオレの『歩兵』と『ルーク・ドライバー』。もしくはお前の目玉をえぐるナイフかフォークが欲しい」
「……善処しとくよー」
手を振り振り、靴をはき直した冬花は、そのままベッドから立ち上がった。
意外なほどにちいさい背丈に「おい」と最後に一言、声をかける。
振り返りはしないが、ほっそりとした手足は止まった。
「……忠告しといてやるよ。桂騎の愚直さ加減を、甘く見るな」
……そう、桂騎習玄は、愚直であっても愚鈍ではない。
あの習玄が無策で冬花に挑みかかって敗北し、その傀儡に成り下がったとは、いまなお信じられなかった。
自らが記憶改竄される可能性は、彼も考えていたはずだ。そのうえで、真の記憶を呼び覚ませる時州を自分の許に遣った。なんらかの目論見と打開策があってのことだろう。
「いくら記憶をいじろうとも無くそうとも、人の本質は変わりはしない」
……縛られている身の上でそんな負け惜しみを言っても、まったく意味のないことだということは彼自身がわかっていた。
いつものように嘲笑されるだろうか、思いっきりコケにされるだろうか。
なかばそれも織り込み済みで吐き捨てた一言だったが、
「……そう願いたいね」
ドアの前で彼女は短くそう答えただけだった。
そのノブを握り、半分ほど開けた瞬間、冬花の手が止まった。
自ら開けることも、閉めることさえも許されず、ただ固まった。
隙間に、なにかが挟み込まれている。
骨を組み合わせてできたような、年季の入った白亜の歪曲した、なにか。
――弓弭?
突如弓が差し込まれたことと、無表情で硬直した彼女、そのふたつに訝るゼンだったが、弓がロックを破壊した。
ひとりの少女……の姿をした何者かが中に押し入った時、心臓が止まりかけた。
比喩ではなく、それはすべてを凍死させるかのような極寒の風をともなって、部屋へ入り込んできた。
客室に取り付けられた暖房が、死んだかのようだった。
ゼンは戦慄を隠さない。隠すことさえできず、総身の肌に粟が立った。
まず、防犯用の施錠がたかだか骨の塊程度で破られるとは思えない。自壊するほうが先だろう。
ふたつ、弓の持ち手の自分を見る目。
いや、そも、ガラス質の両眼は、何も見てさえいなかった。
透明度は高く、美しくかがやいているのに、この世のすべてに興味がなさそうで、無関心で、無感動で、まるで分厚い氷壁のように、温度というものを感じさせない。
悪意には何度もさらされてきた。憎悪さえも一身に受けてきた。
だが、そんな自分が出会ったどのタイプとも違う。
相手はこちらを、虫ケラだとさえ思っていなかった。
「おい」
目の形を変えないまま、女が乱暴な口を開いた。
「見た目はボロいが骨組みは頑丈。防音性も高い。窓はそれほど多くもなく、交通の便が悪く立地条件は最悪で客に入りはすくない。……いい部屋だな。引っ越したのなら、教えてくれても良いんじゃねーのか」
「……もう少し落ち着いたら連絡する気だったよ。写真付きのお手紙でね」
「ほんとにいい部屋だな、ここは。……誰かをかくまっておくにはな、忍森冬花」
そして、少女の形をした冬の化身こそが、常日頃冬花が語っていた存在、葉月幽だということに、新田前が我を取り戻すと同時に悟ったのだった。




