(4)
――なんだ、これは。
桂騎習玄の内部を、乾いた疑問の音が満たしていた。
死神、あるいは悪霊、魑魅魍魎の類。
黒衣をまとった顔と足のない存在など、そうとしか言いようがない。表現のしようがない。
暇潰しに読み漁った本の中には、無論こうした手合いを取り扱ったものもあった。それと戦う勇者やヒーローたちの姿があった。
だが、実際それと相対しては、感動も興奮もなかった。
ただ困惑し、唖然とするしかなかった。
「今のをよくかわしたな。なかなか筋が良い」
感心する風な人形の声を機に、我を取り戻す。
この場でわかったことは、二つ。
一に、おのれがこのウサギの甘言に惑わされて、軽率にも踏み込んではならない領域に誘引されたこと。
そしてもう一つ、
――この場に留まれば、死ぬ。
習玄は跳ねた。
すんでのところで、足下を狙った斬撃を避けた。
肩口、面、そして胴。
呼吸も何もあったものじゃない無茶攻めに、武の心得や理性は感じられない。
獣のそれにさえ劣る拙劣さ。だが、原始的だからこそ、理で測れない。読みにくい。
……面白い。愉しい。心が躍る。
タガの外れたような猛攻は、どれもこれも紙一重でかわすのが精一杯だった。
拳での反撃を試みるが、やはりというか、少しのダメージも受けた様子はなく、かえってこちらの腕に、みしり、と嫌な感触が反芻してくる。
習玄は腫れた手を振り、自嘲する。
現役だった頃はあと数発は堪え忍んで、反撃もくり出せたはずだ。
人間の衰えなんてものは、それはもうあっという間だ。タチの悪いことに、自覚症状もない。
「理科準備室に向かいたまえ」
と偉そうに手の中のウサギは言った。
「身も蓋もない言い方をすれば、そこに奴らの対抗手段を隠している」
「逃げる、という考えはなしですか」
習玄の代案に、「ふむ」と大きな口に、小さな手を当てた。
「それも手だな。ただ、わたしがこの場を離れれば、校内に施した人避けの術も、奴らを縛る霊的障壁も解ける。死ぬのが、君ではなくどこかの他人になるだけだ。しかも、不特定多数のな」
――物騒なことをかんたんに、そして意図的に言ってくれる。
習玄は苦く顔を引き締めて、スピードを緩めないまま階段を一気に飛ぶ。
勢い余って踊り場の壁に激突しようとするところだったが、突き出した足でそのまま壁を蹴った。
そのまま床に着地せず、バネの要領で、あるいは水泳のターンの要領で、彼は二歩で一階へと降り立った。
つんのめりながら、地面に手をつく。
タイルに触れる手のひらの、すぐ真横で光が爆ぜた。
網膜が焼かれるような極彩色の閃光。
眩んでいる暇はない。視力が回復するよりも早く、身体を動かし先へ、奥へ。
同種同色の光の弾丸が、走る両脚に迫ってくる。
床に穴を穿つ。
直線的かつ精度が正確でないのが幸いしたが、『一歩でも』間違えれば、死に繋がる。
「っ!」
とっさに足を止める。
90度に折れ曲がって、準備室の一つ前の一年生の教室へ。
後頭部の髪を、歪曲した鋭爪がかすめた。
そのまま振り下ろされた一撃は、学ランの背に爪痕を残す。
彼の肉体をすり抜けた爪は曲線を描き、ドアが三つにスライスされた。
そのまま追ってくる存在は習玄に体当たりを喰らわせた。室内に押し込まれる。
新たにその場に現れたのは、同種の存在だった。
だが得物が違う。追っ手は剣で、この新手の武器は獣の鉤爪だった。
迫る気配とその風切り音は、今まだ目の前の怪物とは関係なく続いている。
その鉤爪が、首根に届かないよう抵抗しながら、いまいち手ごたえのないその怪物と共に転げ回る。
その拍子に、スリッパが両足から外れ落ちた。
「こ、のッ」
頭部を足裏で蹴ると、ようやく確かな感触があった。
獣のように暴れまわる頭部が習玄をはね飛ばし、胸を打たれ背を打った。それでも、二体から間を取ることができた。
黒板を背にして立った習玄の向こう側で、
ぎし、ぎしり……
と音がする。
その音の大きさが最高潮に達するのと、音への危機感から習玄がその場を離れたのは、ほぼ同時と言って良かった。
黒板を突き破る轟音と、洞窟の風音にも似た唸り声。現れたのは、室内に侵入した二体とほぼ同型の異形。強いて言うならひと回りほど大きく、手にしているのは身の丈ほどの両刃の剣。
咆哮と共に繰り出される、大振りの一撃。刃のみならず柄だろうと当たれば内臓を突き破るだろう。
その剣をかわし、鎌をくぐり抜け、突き出された爪を捉えて掴んで投げ飛ばす。
……結果、彼は目の前に無傷で怪力で高速で、かつ種の違う近接武器を持った三体の怪物と、相対することになった。
「どれほどいるんですか、『これ』は」
「三体、まぁこれで全部だわな」
「三体」
ははッ、と習玄は軽い声で笑い飛ばした。
「懐かしいな、3でアホになるアレか。落語家、ちゃんとやれてるのかな」
「違いますよ! 我が身の置かれた状況が意味不明すぎて、かえって愉快になってきただけです」
自身でその事実を改めて口にすると、確かに理屈じゃない興奮が、口の両端を無理くりに釣り上げていた。
惨死への恐怖と未知への好奇心が隣り合わせになって、鼓動を早鐘のように脈打たせていた。
ぶち割られた黒板の先、目的地である理科準備室があった。
ようやく間合いを覚えたような三体の息が、静寂を乱していた。
「君の名は?」
突然、ウサギが尋ねてきた。
「は」という呼気が、喉から出かかった。首を振り、咽喉の奥へとそれを押し戻す。
「習玄。桂騎習玄です」
そう、名乗った。
「で、カツラキ君。君は今、生命の危機に直面しているわけだ。だが」
ぼんやりと彼らを照らし出す非常灯が、幻想と現実の境界をあやふやにしていく。
その視界の奥、準備室への道は、無明の闇が拡がり、夢現を一緒くたに呑みこんでいた。
「今、君は運命を選ぶことができる。確かに手の中にある宿命と」
闇と魔とに向かい合う習玄は、ポケットの内の駒を静かに取り出し、握りしめた。
「手を伸ばした先にある可能性によって」
習玄にも、確かに感じるものはあった。
自らに霊感の類があるとは信じたことはない。それでも、縁のようなもので、手中の赤馬と闇の先の存在が繋がっていると、肌で理解している。
「距離のしてだいたい7メートル。その先の教卓に、文字どおり我々に『命を運んで』くれる代物がある。さぁ、選びたまえ。酔生夢死の中、わけもわからない結末に殉じるか、それとも力を振り絞り、生きるための力を得るか」
習玄は、痛む背を励まし、机の上に足をつけた。
「……今までの貴方の言動で、俺にも少し悟り得たことがあります」
「ほう?」
「一つは、貴方がある種のすぐれた術者だということ、もう一つは」
「前者は当然のこととして、後者は?」
「煽ってるでしょう、貴方」
そもそも本当に人避けの術というものが張られていたのなら、自分なんて入ってこられなかったはずだ。
返ってきたのは、
「まぁな」
という、あまりにあっけらかんとした返答。
「だが、カツラキ君」
「理解してます。事の理非も、貴方の善悪も、今は議論している余裕はない。……全力で駆けます。振り落とされないように」
靴下と机の面とが擦れ合って、キュッと甲高い音を立てる。
それに反応したかのように、異形の鳴き声が空気を揺さぶった。
習玄は一気に跳ね上がった。
身をよじって斬撃の妨害を避け、三列先にある机に、跳ぶ。
壁に開けられた穴をくぐると、背が風でなぶられる。先ほど切られた制服の裂傷が、ふわりと浮き上がる。
奥歯を噛みしめさらに、飛ぶ。
理科準備室に入れた。作業机に突っ伏せ、教卓まで3メートル。
一度下りて木椅子を蹴り上げ、追っ手にぶつける。
瞬く間に両断されたそれにかまうことなく、腰を低めて駆ける。滑る。地面スレスレに移動する彼の鼻先を、回り込んで大きく旋回する大剣がかすめた。
そして彼は、スライディングの勢いのまま、教卓の腹を蹴った。
衝撃で横転する机から飛び上がったトランクケースが、地面より落下するより早く、確保する。
「解除」
ウサギの人形が淡く光を発し、平坦な声に呼応するようにひとりでにその口が開く。
中から現れたのは、錠前だった。
いや、錠前の形をした、何らかの機材。
この暗闇の中でも、ふしぎとまばゆさを保つ銀色の装飾。その中心に、見覚えのある鍵を入れるための穴が彫られている。
「『ルーク・ドライバー』を腰の横に」
美少年じみたその声に従い、ケースを投げ捨て中身を左腰に添える。鉄の鎖が機材の両端から伸びて、金属音と共に少年の腰を絡め取る。
刀の鞘のように固定されたそれに、一体何を、どのように用いれば良いのか。聡い少年は即時に察した。
……運命を変えるために必要な手駒を、己は手にしている。
叫声と共に迫る三鬼を前に、滑らかな手つきで真紅の鍵……馬の駒を機材に装填する。
《Check! Knight!》
昂揚をさらにかき立てるかのように、ほがらかな英語が教室に響き渡らせる。どこからともなく、馬蹄の音のようなビートが刻まれる。
機材に血液よろしく流れ込み、循環する赤光の奔流が、鮮やかに銀を彩る。
その光に弾かれたかの如く、鍵が粒子を帯びて装着者の前方に射出される。
やがて粒は増殖し、周囲を照らし、駒を覆い、闇を、祓う。
鍵を媒介に生み出された『それ』を、習玄は迷うことなく右手で掴んだ。
たった一夜。その中で初めて目にする怪現象。五感を錯綜する、膨大な情報。それらを処理できるほど、習玄の脳は精密でもなかった。
それでも、両手で掴んだ『それ』は、一瞬で、そしてひたすらに手に馴染んだ。
そこからは簡単だった。
光に惑う手前の一体を、紫紺の穂先で一気に貫く。
命や意思と呼ぶことさえできない、何か。それを終わらせるだけの威力があることが、真紅の柄と、付け根の環に結ばれた黒羽の飾りから伝わってくる。
――いける。
理屈じゃない。言葉では足りない。
命を託すに足るものが、今自分の両の手にある。
地をしっかり踏みしめ、朱槍を構える習玄には、ハッキリと次進むべき世界が見えていた。