(2)
ヨモツヘグイ、という習わしが古来日本には伝わっている。
古事記、イザナギとイザナミの神話から端を発するこの言葉は、黄泉の国の食物を口にすればすなわち、現世に戻れないとされている。
また、それとは色合いが異なるものの、遠野物語においては中から椀を持ち帰った者が富貴と成ったという幻の家、迷い家という東北の伝承が紹介されている。
……そして今、異界の異物を持ち帰った愚か者がここに一人……
はたして彼を待ち受けるものとは、幸か不幸か?
□■□■
「……ひどい目に遭った」
現実世界に戻った新田前は開口一番、そう言い放った。
三年生の教室、龍脈に引きずり込まれた地点に降り立った習玄とゼンは、まず飛び込んできた夕陽に目がくらんだ。
『ルーク・ドライバー』を解除すると、重量分そう感じるのか、奇妙な解放感と達成感が、新田前を貫いた。
まるで、素足を直接風で撫でられたかのような……。
「ともかくもう、二度とあんな服着ないからなっ!」
「…………ソウデスネ」
井戸義弘を担ぐ習玄は、辛うじてと言った感じで乾いた声を絞り出した。
視線をそらし、額に汗を浮かべる姿に訝りながらもゼンは釘を刺した。
「もう余計なこと言うなよ……っ、たく。お前が喋るとロクな展開にならない」
その習玄の頭の上では、未だに瑠衣が笑い転げていた。
痛みも感じないだろう腹を抱え、習玄の髪の毛をむしるように強く掴んでいた。
「いつまで笑ってんだよ……」
その人形の忌々しさに、思わず舌を鳴らしてしまう。
煮え切らない習玄にも、彼の頭上でバカにしている瑠衣にも、それぞれに憤りを覚えたままにゼンは引き戸の取っ手に手をかけて……その指先から、世界は反転した。
「っ!?」
濃く練られたようなピンクの壁。黒板をイメージしたかのようなテイストのメニューボード。無骨な勉強机や年季の入ったイスはしゃれたフリルつきのテーブルとチェアに変化していた。
指が触れていたはずの引き戸は、開き所がわからないガラス戸に変わる。
その向こう側が曇ったように不鮮明なこと以外は間違いなく、この内装は先ほどまでいた空間のものだった。
「まさか……っ!?」
見開いた目の先で「なるほどなぁ」と瑠衣がテーブルの上でしきりに頷いてみる。
学術的興味に満足している様子の人形に「どういうことだよ!?」と反転したゼンは問い質した。
「なに、簡単な話だよ。どこかのバカが、あの『龍ノ巣』にあった代物を持ち帰ってしまったんだ。それも最悪なことに、この井戸が強く未練を残すものをな。そいつの影響で、現実世界の周囲の空間が歪められてしまったのだろう」
「……まさかアンタ、変なもの実験用に持って帰らなかっただろうな?」
「どこかのバカ、とわたしは言った。自分をバカ呼ばわりするほど卑下しちゃいないさ。それにこの肉体のどこに隠せるというのだね?」
じゃあ、とゼンは振り返って習玄を見た。ギクリ、と大仰に驚く彼は、そのまま井戸の身体を滑り落としそうになった。
慌てて担ぎ直して、さっきと同じように、イスを並べてその上に寝かした。
その様子を見届けながらもゼンは、習玄が何かを隠していることを即座に見抜いていた。
ずかずかと大股で彼に詰め寄り、その学生服を引っつかむ。
「……お前、いったい何隠してる?」
「か、隠してる……というかなんというか」
「隠してるんだな? 正直に白状しろ。この異常は……いったい何が原因で起こってる?」
習玄は気まずそうに目をそらし、耳の裏に手をやった。
しばらく瞼を下ろして悩んでいるようだったが、やがて渋い表情で、震える指で、ある場所を示す。
それは、自分がさっきまでいたガラス張りの扉だった。遠のいた今、光の加減で鏡の役割を果たすには十分だった。
瑠衣の言う『どこかのバカ』の全身像を浮き上がらせるには、十分だった。
……メイド服を見事に着こなした、新田前の姿を、浮き上がらせるには。
次の瞬間、甲高い絶叫が店内を揺さぶった。
□■□■
「新田くんの慟哭、どうやら外には届いていないようですね。生徒も先生も通りませんし」
「やはり空間自体が現世から隔絶されているようだ。シチュエーション的にはわたしが肉体を手放した時と似ているな。……まぁバカバカしさ加減ではこっちの圧勝だが?」
ヒザを抱えてイスの上で体操座りをするゼンと、意識を失ったままの井戸を放っておいて、習玄と瑠衣は脱出方法を模索しているようだった。
失意のメイドへとちらりと、気の毒そうに目を遣ってから、改めて習玄は瑠衣へと問い質した。
「それで、抜け出る方法はありますか? 例えば実物の『龍ノ巣』内部のように、コモン・キーを用いてみるとか」
「やめておけ、ただでさえあの空間渡航には不安要素が多いんだ。もう少し安全な環境下でテストしたい。力づくで突破というのもナシだな。さっき新田に言ったような悲劇が起こりうる」
「では、あとの方法はというと……」
「んー? 簡単な方法で言えば、この店の媒介……すなわちそこのバカのメイド服を破壊してしまうことだが」
「それだっ!」
と飛びついたのは、絶賛羞恥プレイ中のゼン本人だった。
「なんだ話は早いじゃないか! こんな服さっさと着替、え……て…………?」
そのゼンの語気は、末尾に近づくにつれて弱いものへと変わっていった。
ある事実に気づいてしまった。いや、気づこうとしている。気がつくまいと理性が真実を拒んでいる。
それを振り払うべく、メイド服の美少年はおそるおそる、習玄に目を向けた。
「オレの元々の服、どうなった?」
習玄はこれ以上ないほどに顔を強ばらせた。
固く唇を引き結んで、縋るようなゼンの質問への返答を、拒否した。
だがそれはゼンの懸念が現実のものになったことを、全力で証明する態度だった。わずかな可能性させ否定する何よりの答えだった。
「……お前の学ランよこせ!」
「さすがにそれは断るっ! 十中八九、君が悪いっ! っていうかほら、俺と新田くんじゃそもそも服のサイズが違うじゃないか」
「だったら、井戸からかっぱらう!」
「おやめなさいそんな追い剥ぎみたいなマネッ!」
……という悶着の後、お互いに疲弊して休戦状態に陥った。
その場の床に腰を下ろしたまま、習玄は首下のホッグを緩めて言った。
「その、上着なら貸しますよ」
「貸されたって……下がミニスカなのが致命的だろ……」
「まぁそこは脱いでしまって……ト……トランクス一丁の上から着てしまえば、道中、見つかってもバカな学生のノリとか思ってくれるよ。さいわい、教室にまでたどり着けば体操服がある」
ゼンは麻痺した頭で、それでも一考してみる。
たしかに、習玄の妥協案は危険性を伴うものではあるけれど、考えられるプランの中では一番マシで、リスクも低いもののように思える。
「……だな。まぁ、下着さえマトモならニャアッ!?」
ゼンはそこで思い出した。腰のヒラヒラの中で眠っていた真実を。
猫にも似た奇声をあげて、弾かれたようにスカートの上から、その『下着』を押さえつけた。
これら一連の仕草、乗ろうとして途絶えた返答。その2点から、習玄もまた感づくところがあったようだ。
「……まさか、下も着替えた……?」
険しい顔でゼンのふとももの間を覗こうとする少年を、
「うるっさいバカ! うっさいよこのバカァッ!」
と座ったままゼンは足蹴にした。
そのボキャブラは混乱と絶望のあまり、あまりに乏しかった。
涙は目尻いっぱいにたまり込む。
そんなゼンの様子を見かねたか、「ごめんごめん」と習玄はにじり寄り、あやすようにカチューシャの上からふわふわと頭を撫でてくれる。
「……あの先生? 方法は本当にそれしかないんですか?」
手を止めることなく、習玄はテーブルの上で寝そべる瑠衣を見返し、救済を求めた。
「ん? あるにはあるが?」
「いーえーよ! さっさとッ!」
怒りの矛先をウサギの人形に求めたゼンは、習玄の手を振り払って起ち上がった。
まぁまぁ、と角もなけりゃ指もない手が、メイドの鼻先を押し止める。
「そもそもこの空間は、そこな井戸の妄執が起源となっている。これだけランチキ騒ぎの真っ最中でもヤツが目覚めないのは、今なおその生霊がこの空間に留まっているからかもしれん」
「……どんだけメイドに未練あるんだよ……」
冷静さを取り戻したゼンのツッコミは、「そう、それだ」と嬉しそうで楽しそうな瑠衣の反応を招いた。
「となればこの空間をメイド喫茶として完成させ、ヤツを成仏させるのが糸口となるだろう。それすなわち……君自身がメイドになることだ」




