(9)
槍を振る。独鈷杵が弾く。
独鈷杵が繰り出される。迎撃する槍が接近を許さない。
お互いを探るような、知り合うような応酬から、その模擬戦は始まった。
ぎこちなくも次第に相手の動きに合わせていく流れは、キャッチボールのようでもあり、じゃれ合う犬猫のようでもあり、睦び合うきっかけを探る恋人同士のようでもあった。
斬り結ぶこと五合目に、新田前は大きく動いた。
そこまでは軽く撫でるようなフェイントだけだった彼の刃は、一歩の間合いをすっ飛ばして、身体もろとも懐に入り込む。
緑一色が何筋も描かれて、距離の優位を得ようと退く習玄を追った。
――次に来るのは直線。ならっ……!
習玄は上体を大きくのけぞらした。狙うのは頭突き、初めて出逢った夜と同じく、隙を突いて逆転する。
だが、一瞬後に彼の目前に現れたのは、少年の白い額ではなかった。
目の前に広がったのは、白い掌だった。
「なっ!?」
頭部を掴まれ、視界を奪われたままに、押し倒される。
小柄で華奢で、敏捷ながらも力があった。まるで猛獣の……具体的に例を挙げるとすれば、狼に挑みかかられた時なんかは、こんな心地だろうか。
解放された視界にまず飛び込んできたのは、三点の光の閃きだ。
今自分の顔面に突き立てられようとする緑の独鈷杵。そして、獰猛に輝くゼンの双眸。
この時、習玄の背を冷たくさせたのは、芝生の夜露だけでもなかったはずだ。
いくら人体に影響なしとも言っても、敗北の可能性を孕んだその閃光は、おっかなかった。そして、美しかった。その美しさが自分に向けられていくことが、理屈抜きに嬉しく、名誉なことだと感じた。
――だがっ!
まだ負けるわけにもいかない。まだやれる。挽回の目を残したまま、この恍惚に身を委ねるわけにはいかなかった。
槍を持ち手をたぐり寄せ、石突きに近い部分に遣った。
少年の脇腹を、馬飾りの頭が突つく。痛いのか、くすぐったかったのか。どっちかは分からないが、ゼンは一瞬の間悶えて脱力した。
上体を持ち上げ足腰を奮い立たせ、ゼンをはね飛ばす。
顔を持ち上げた時には、少年の姿はあるはずの大地になかった。
ざり、とわずかに草擦りの音が聞こえる。習玄は振り返らなかった。そんな暇はなかった。半ば賭けのような気持ちで、後ろ蹴りを突き出した。
確かな手応え、骨まで揺らす感触が、確かにあった。
危機から逃れた。それを直感した後で、彼は身体を巡らせた。腕を交錯させて、彼の奇襲を凌いだゼンの姿が今度はハッキリと見て取れた。
その腕の縫い目で、彼は笑っていた。互いの青春を賭けたこの戯れを、全力で愉しんでいた。
肩で息をする自分も、多分同じ顔をしているだろう、という実感があった。
――さぞ、辛かっただろうな。
これほどの才腕を、目の前の秀才児はずっと持て余していた。鬱屈していたことだろう。歯がゆかっただろう。悔しかっただろう。
その全てを解放させ、智勇の限りを尽くせる遊び場がここだった。
――だから俺も、全力で応えるッ!
穂先を草の絨毯に大きく、強く滑らせる。両者の間を、長大な半透明の壁が仕切った。
回り込むには幅が広い。飛び越えようにも、夜天さえ衝きそうな勢いの高さだった。
それに阻まれたゼンは、一旦退いて距離を置いた。
「……その障壁なら、オレの瞬間移動も防げるって?」
「さぁ、どうですかね? 試したこと、ありますか?」
「これから試す」
軽やかに答えて、魔少年は不敵に笑う。
霊的な壁であれば、あるいは彼の跳躍も無効化することは可能ではないのか。そう考えたのは確かだ。
前もってウサギに尋ねてみても、
「さぁ、やったことないし、相手がいなかったし」
で終わっただけだった。今にして思えばあのそっけなさはあまりに不自然ではあったが、当座そんなことを気にしている余裕はない。
だからこそリスクと同じだけ、やる価値はあるはずだ。
お互い同時に、上半身と武器を傾ける。
名残は山ほどにあるものの、次の一手で勝負は決まる。
それが彼の、第一の賭けだった。
風が汗に濡れた2人の頬と額を撫でる。それが、示し合わせたかのような2人の合図だった。
踏み込む。跳ぶ。消える。
方角を読む。心で構える。身体で構える。
もし壁を通過できない場合、彼が攻めくるのは横腹。それも、壁の切れ目からで左右どちらから来られても対処できるだけのリーチは確保できるはずだった。
そこに期待し、意識を注ぎ、目でなく耳で、消えた彼の姿を追った。
草を踏む音がした。
左右どちらからでもない。
真後ろから、無防備にさらした背から彼は来た。
――越えた……
習玄の呟きは、ゼンの呟きでもあったはずだ。
敵味方を超越した奇妙な感動と喜びの共有が、そこにはあった。
後ろ蹴りはもはや通用しないだろう。彼の天性の才に対し、二度同じ手が通じないことは、頭突きの一件でわかっている。対処されるに決まっている。
だから、と習玄は奥歯を噛みしめた。
振り返らない。その必要はない。それでも敗北を認めたわけでもない。
ここまでは読めていた。信じていた。彼の跳躍が、目の前の壁を飛び越えると。背後に回る、と。
習玄は靴底を目の前の壁に叩きつけた。
まずは右足から、そこから重力に逆らって二歩、三歩と壁を駆け上る。
その高さから、足を離して、跳んだ。
「なっ!?」
習玄の背を貫くはずだった独鈷杵が、壁に弾かれガラス質の音を鳴らす。
天を仰いだゼンの目に飛び込んでいたのは、最も高い位置であろう場所から、投擲された習玄の緑槍だった。
さながら古代の弩から発せられた矢の如く、翡翠色の一文字を引くかの如く、槍は風を切って飛んでいく。
吸い寄せられたかのような穂先が、抉るような角度からゼンの薄いその部位を貫いた。
「か、はっ……」
肺腑から押し出された空気が、本人の意志とは関係なく口から吐き出される。
槍が横から倒れて、敗者はそれと同じ時に、制服の上から胸を押さえて転がり回る。
――毎度毎度、紙一重だな。
着地した習玄は、残心を示して大きく息を吸い込んだ。もう十年単位で呼吸していなかったんじゃないのか、という気さえする。新鮮な空気が、爽やかに胸から下を満たす。
これが最後の賭けだった。こんな付け焼き刃で小手先の技術にすがるほか道はなかった。
それでも彼の身体に届くとすれば、彼の勝利の間際、意識の間隙を突いた付け焼き刃だけだろう、という予感はあった。
だからこそ手紙には『壁』という説明を推して彼に防御以外の使い道を考えさせないようにした。
時が来たらし損じないよう、肉体をいじめ抜いてでも特訓した。
そして……最後の最後までその『騎士』の特性を使わなかった。
「……はぁ、はッ……」
ゼンの浅い呼吸が何度もくり返される。やがてそれが含み笑いになるまで、時間はかからなかったように思える。
独鈷杵のすっぽ抜けた、ちいさな半開きの手をぼんやりと見上げ、ゼンは胸を上下させていた。
「……これが全力かよ……なんだ、負けんのか。あれだけやって、偉そうに言っておいて」
「いや、多分次があったら俺が負け」
「でも」
と、新田前は習玄の謙遜を遮った。
「やっと力、出し切れたんだ。戦って戦って戦って、ようやくつかめたオレだけの負けだ。……グズグズくすぶるんじゃない、本当に悔しいと思えた。だから……だからっ」
きゅっと拳が握られる。こつんと額に押し当てられたその下で、熱い雫がこぼれ落ちた。緩んだ口に、涙が吸い込まれていった。
彼の手と口の表情の動きの逐一を、習玄はじっと目を細めて、心を濡らして見守っていた。
「新田さん」
万感の思いを表しきれずに、ただかすれた声で名を呼ぶしかできない。手をそっと差し伸べることしかできない。
涙を拭ったその手が、ゆっくりと伸びていく。指先が触れようとした。
「そいつに触れるなッ」
ゼンの手を腐った紫陽花が陵辱したのは、今まで沈黙を守っていたウサギが吼えた、その寸前だった。




