(8)
特別訓練から三日後。
目の前に広がる芝生の海に、入場口から出てきた習玄は躍り出た。
つい最近まで、少なくとも社と報酬をもらった日までは、放課後すぐなら夕陽を残していた記憶がある。
が、今となってはすっかり夜の色が強くなっていた。ナイトゲーム用のライトが四方を囲む。
熱狂する観客の声がないから、一帯は不気味なほど静まり返っていた。
都心部のこのサッカー場は、プロの試合にも用いられるほどの大規模なスタジアムだ。群青色の空の中、緑を敷き詰めた地面に足を鳴らすように、強く踏み込む。
時州瑠衣がオーナーを務めるこの場所が、広大なフィールドが、桂騎習玄と新田前が果たし合いを務める戦場だった。
プロの戦いの舞台に形だけとは言え足を踏み入れることは、その道を志す男の子たちにとっては一つの夢だろう。
また、そんな舞台を独占して駆けずり回ることは、贅沢にもほどがある。
「恐るべし、時州一族」
という思いを、習玄は噛み締め、一歩を踏み締める。
「んふふ、感謝したまえよ。わたしの口添えがなければ、君らなんぞはサッカーボール役でしか入れない場所だったんだからな」
……という余計な茶々さえなければ、素直に畏敬に値するのだが。
準備運動は要らなかった。というよりもその前に、反対側からゼンが現れた。まっすぐに注がれる殺気は、習玄を臨戦態勢にさせた。
が、何か妙だな。
と習玄は思う。
近づいてくる美少年が敵意を向けてくるのは、今に始まったことでもない。
だが、今晩の彼がまとう気配は、いつにも増して鋭く、暗く、淀んでいる。
その重苦しい空気が、華奢な体躯に似合わず、どっしりとした肚を据えさせたようにも思える。
――何があった、新田前。どう出る、新田前。
困惑、疑念、昂り、期待。
それら情動をとりあえずは、笑顔と理性で覆い包む。
一礼すると、新田は目を丸くして面食らったようになって、ほんの少し素の表情を見せた。
「よく来てくれました」
「お前を排除する絶好のチャンスだからな」
軽口を叩くゼンの口端には、皮肉な笑みが浮かんでいる。
だがそうして笑う自分と、笑み返す相手に気がついたのか。すぐにはっと唇を結んだ。
まるで、冗談を言い合って笑い合うことが、罪悪だと教えられたかのように。
「あー、ではルールの説明を。良いかねご両人」
やや棒読み気味の調子で、両者の足下に降り立った瑠衣は言った。
「ルールは簡単。『ルーク・ドライバー』とそれぞれの『駒』を用いた実戦形式の模擬戦。で、致命傷と思われる一撃を与えられる、もしくは戦闘不能、戦意喪失と見なされればそっちの負けだ」
このウサギの人形は、あまり興が乗っていない様子だった。本当にどうでも良さそうに言ってくれる。
ドライバー同士の実戦データなんて、それこそ開発者としては好奇心の対象だろうに。片割れが新田前というだけで、そこまで意識が削がれるものなのか。それとも結果が決まっているからなのか。
勝敗はどうであれ、この天才術者のちいさな手中には、彼を従属させられるだけの手札があるという。
――そうやって、あれやこれやとみみっちい策を弄するところが、気に食わないんだよな。
だが現状においては律儀に土地も貸してくれて、審判と解説者の役割を果たしてくれている以上、ケチをつける余地はない。
「……というわけだが、何か質問は?」
と左右に首を向ける人形に、ふたりの少年は首を振った。
「では各々、手持ちの『駒』を提出するように」
「ちょ、ちょっと待ったっ! なんで今からそれ使うってのに、出せって言うんだ!?」
習玄よりも早く、ゼンがウサギに噛みついた。
わずらわしげに長い両耳を押さえた瑠衣は、
「ベットするものを一度手放すのは当然のしきたりだろうよ。……その代わり、ほれっ」
とのかけ声一発、両者の手の上の空間が歪み、緑色の結晶が落ちてきた。
透明度の高いそれは馬と歩兵を象った鍵で、反対の手に彼らが取りだしたものと、鍵溝の構造含めてまったくの同型のものだった。
「本来『駒』は採取した龍脈結晶を彫造するものだが、それはわたし手ずから培養した、言わば人工の龍脈結晶から作り出した駒だ。……が、どうにも出力は弱めでね。展開する質量、性質は同じはずなんだが、人体を損壊することさえできない。なんというか、スポーツチャンバラ的なアレ? いっそ袋竹刀? みたいな感じでね。だがこういう時には好都合だろう。……新田くんは、そうは思わないのかね? 傷つき合った方が、都合が良いのか?」
「い、いや……」
探るような瑠衣の問いに、ゼンは目を伏せ、降下させた目線を、さらにさまよわせる。
その表情の動きだけで彼が一物抱えていることは瞭然だったが、瑠衣のようにそれを穿つ無粋なマネはしたくない。
《Check! Knight!》
言われた通りに自分の手駒を預け、腰に巻いたドライバーには、代わりに緑の鍵を挿して回す。軽ささえ感じさせる女性の音声で高らかに響く。
駒と同色の燐光を放つそれが射出されて、習玄の手にはエメラルドの槍が収まった。
「ふむ」
と試しに大きく振ってみると、確かに振った感じは朱槍と同じだ。
緑に染まった穂先に触れてみると、霊威によるわずかな痺れはあるものの、確かに本来の武器ほどの鋭利さは感じられない。
「ッ!」
《Check! Pawn!》
武器を手にした対戦相手を警戒するように、ゼンも反射的に緑の独鈷杵を展開させる。
その目は、緑槍には向けられているのに、習玄自身を見ていなかった。
小刻みに震える瞳は濡れていた。
何かに怯えて、躊躇って、そんな心境のままに彼は、追い込まれている。
心がここにはない。自分にない。
それはいけない、と習玄は思った。空いた片手を耳の裏にやって、かける言葉を探した。
「新田さん」
その姓を呼ばわると、彼の黒目がちの瞳の光が定まった。こっちを、はっきりと視た。
「今は、素直に楽しみませんか」
闇がすぐそこまで蝕んでいた。
それでも、少年たちをまばゆい光が照らしていた。顔を上げる新田のか細い姿が浮き上がる。彼らから伸びた影が何重にも分かたれながらも、そのうちの一筋が伸びて交錯する。
「俺たちの目的も、背後にいる人々の思惑も、全部関係なくして。今は全力で、お互いの研磨の成果をぶつけ合いましょうよ」
ゼンの浅い呼吸が聞こえる。肩と目から、必要の無かった力みが消えていた。
まっすぐに向けられた少年の眼差しは、ナイフのように、あるいは意志の塊のように、習玄の肌と心まで届いた。
「……ばか」
甘く上ずった掠れ声が、耳朶に心地良かった。
「加減はしてやらないからな」
「はい。胸をお借りします」
互いに武具を構える金物の音が、一瞬にしてその甘美さを振り払う。




