(6)
桂騎習玄は自らに課した特別プログラムを成し遂げた。
自らいじめ抜いた肉体が、悲鳴をあげる。
無理な姿勢からの刺突、着地に失敗して硬い床にたたきつけられた背。何度も壁に打ち付けた足は膝関節から下がガタガタとおぼつかない。
それでも、例えようのない楽しさと開放感が、彼の全身を熱気と共に包んでいた。
よろよろと出た施設を 、改めて省みる。
簡易的ながらしっかりした造りのロッククライミングの練習場は、ポケットの住人、時州瑠衣が貸し出してくれた場所だ。
面積140㎡の施設一つを二つ返事で貸し切りにできる時州家の財力と権威を、改めて思い知る。
「感謝します、先生」
と習玄は礼を言う。
施設前のバス停のベンチに、落ちるように腰をかける。
「君に勝ってもらわなければ困るのだよ。……ゴメンだぞ、新田の頼りない肩に担がれるのは」
ジャージのポケットから肩に、短い手足を器用に駆使してよじのぼり、時州瑠衣は言った。
「こんなかわいいウサギさんが、中身はともあれ美少年の誘いを蹴って君と添い遂げようと言うのだ。光栄に思い、その幸福を手放さないよう精進しなさい」
「そのウサギさん、最近洗っても消せない獣臭が漂うんですが」
軽い気持ちで飛ばした冗談だったが、「中身はともあれ」という前置きが意識の端に引っかかる。
「先生、その様子だと九戸先輩が何か掴んだ様子ですね」
「あぁ。これで君が万が一ヤツに遅れを取ろうと、主導権は握ることができる」
「……その辺りの工作は、お任せします」
自分には関係のない話だ、と苦々しく心の中で付け足した。
新田前の正体が何者だろうと、自分は彼の武を気に入っている。跳ねっ返りも一種の愛嬌だし、ひたむきな目は敵意だろうと向けられれば好ましい。
「そういう君はどうだ? わざわざ挑戦状に自分の能力と知識を披瀝するほどだ。勝算はある、と見て良いんだな?」
「勝ち目のない戦いはしません。が、必ず勝てる自信なんて毛頭ありません」
だからせめて一分でも、勝ちの目は増やしておく。
とにかく朱槍が生み出すのは『壁』であることを懇切丁寧に説明した。
まずおそらく、ゼンはこちらとの戦闘中にある行動に出る。そこにこそ習玄は勝機を見出した。
そのための特殊な環境下おける集中特訓だ。
「……では、やはりあの文面には何かしらのペテンが含まれていたのかい」
「ペテンなんてとんでもない。彼とは正々堂々と戦いたい。それに」
「それに?」
「勝つなら、完全に勝ちたいじゃないですか。負けるなら、とことん尽くして負けたいじゃないですか」
議論の余地無く、言い逃れもできないほどに、さっぱりと勝敗を分けたい。
「約束していたとしても、あっちが納得のいかない勝利を得たなら彼はそれに従わないですよ。彼にとっての勝利は俺の排除ですけど、俺にとっての勝利は彼の手を取ること。その辺りをはき違えちゃいけない」
「……面倒だな。そうまでして、ヤツは君にとって得たい人物なのか?」
「はい、彼とは与しやすい。それを強く感じます」
そうかそうか、といつものように平坦な声で相槌を打つウサギの人形は、
「だが、わたしのことは嫌いだろう、君」
……そんな調子のまま思いがけないことをぶつけ、習玄を一瞬硬直させた。




