(5)
「なんなんだあいつは!」
授業の後、ゼンは逃げ出すように屋上に向かった。
それ以上教室に留まっていると、あの少年の顔を見ていると、どうにかなってしまいそうで、その場で意味不明なことを叫んでしまいそうで、どうして良いか分からなくなって、思わず逃げ出した。
引っつかんだ挑戦状を改めて見る。
手の中でグシャグシャになったそれにじっと視線を落とすと、
「俺は君を評価してる。誰よりも」
という一時間前の言葉が頭の中に反芻し、また熱がかーっと頭の中に染み込んでいく。
「なんなんだ、なんなんだあいつっ!?」
訳のわからない、感情と共に繰り返し吠える。
理解できないんじゃない。そんな弱い言葉で片付けて良い感情でもなかった。自分が今まで知らなかった感覚が、そこにある。
あてなくうろうろと歩き回ったり、備え付けのベンチの脚を蹴ろうとして失敗したり、挑戦状を恐る恐る開こうとして慌てて閉じたり、勢いでそれを投げ捨てようとして投げ捨てられなかったり。
それは、傍目から見ればパニックのお手本のようなものだったろう。滑稽な醜態ぶりだっただろう。
そしてその「傍目」から、タガの外れたような笑いが轟いてくる。彼の上空から、高らかに響いてくる。
「乙女ごっこしてどうしたの? 新田ちゃん」
忍森冬花が給水タンクの上に腰を下ろしている。
屋上の強い風が、校則ギリギリに切り詰めたスカートの裾をわずかにまくり上げて、白い股が陽光にさらされる。
「今ッ更純情ぶれるカラダでもないじゃない」
一番見られたくなかった相手。それでも、さっき以上の狼狽はゼンは見せなかった。
むしろ、冷水を浴びせかけられたかのように、さっと頭の熱は引いていった。理性を取り戻し、以前の自分を恥じる気持ちもなかった。今のところは。
降り立った彼女が、ゼンの横をそのまますり抜ける。
気がつけば手の中にあった紙の感触が、喪われていた。彼女の手に、いつの間にかそれが渡っていた。
「で、なんなのかなぁー? このラブレター」
これ見よがしに開いてみせる冬花に、ゼンは抵抗しなかった。返せとも言わなかった。そんなことをすればさらに調子づくのは目に見えているし、そもそも取り返すスキなんてものがなかった。
「なになに」と読み上げられたのは、ここに来る最中も散々にゼンも読み上げた内容だった。
場所と日時、そして当日の持ち物……もとい使用可能な武器、と言っても『ルーク・ドライバー』とそれぞれの駒なわけだが。
そして特筆すべき内容は……障壁を作るという『ナイト』の効能の事細かな説明と、『ポーン』の性能を自分も時州瑠衣に教えられたという、事実の追伸。
「ふぅん、こいつバカ正直だねぇ」
それに対してはゼンも同意見だった。不本意ながらも。
自分の手の内をさらしたばかりか、こちらの戦力に対する理解度さえ漏らしている。
――本当に、正真正銘真っ向勝負する気なんだろうか、こいつ。
内心でそう呟いて、呆れた。敵ながら、心配にもなる愚直さだった。
だが、
「……けど、バカ正直すぎてどうにも気になるけどねー」
冬花の呟きに、気を留める。
「それは、オレが自分の力を過信して油断するのを誘ってるとでも? 本当はココに書かれたことはデタラメで、なんかトリックを仕掛けてくるということか?」
「さっアねェー。ま、なんにせよ関係ないでしょ。言っても、その時にならないと意味ないのが忠告ってヤツだからさ。ここまで大・活・躍! の新田ちゃんなら、下手なことしないよねぇ?」
と自らの考えははぐらかし、冬花は手すりに腰を下ろして言葉を続けた。
「大丈夫だって! 新田ちゃんなら……殺せるよ」
ぞっとするような、おぞましい言葉を。
「……… 殺す?」
自らその単語を反復すると、 さっと頭から足の指先まで冷めていった。だがさっきまでの冴え冴えとした冷えとはまるで違う。腐った冷水にも似たこの悪寒は、彼から理性と体温を奪うものだった。
「新田ちゃん、コイツの口約束信じてるわけじゃないよね? それにカツラキ君、だっけ? 色々知りすぎでしょ。力もつけ始めてるみたいだし、不安要素はさっさと除かなきゃ、だよっ」
「……だからって」
初めて出会ったあの日、瑠衣に制止されるまでもなく、自分は手の刃を止める気でいた。ちょっと痛めつけて脅してやれば、すぐにドライバーを放り出して逃げ出すはずだった。
そもそも、自分は、人を……
「まさか……新田ちゃん、殺したくない!? 殺せないの!? 天下の『吉良会』構成員が!? その中でも秀才とかなんとか言われてる新田ちゃんが!?」
「……ふざけんな! いつでも、その覚悟は……ある……ッ!」
売り言葉を買ってつい口走った瞬間、新田前はハッとして口をつぐんだ。自分が決して言ってはいけない一言を漏らしたことを自覚し、苦いものが胸にこみ上げる。
対する冬花はいびつに目を細くした。
狭まった瞳の中に闇を抱え、その前で細い指を重ね合わせて、少女は言った。
「さっすが、プロ! いやー、新田ちゃんは頼りになるねぇ」
「ふざけるな、お前が言わせたんだろうが……っ」
「いや、『吉良会』としてもさ、素人にかき回されるのは面倒なのよね。元々『騎士』ともう一基のドライバーは、ウチの葉月幽がキミの後釜で使うつもりだったし。知ってる? あの陰気でガラ悪い弓使い。どっから来たか全然知らないけど、元首サマにえらく信頼されててさ」
冬花の顔から笑みが一瞬消えた。
深く思慮するようなその鋭い眼差しが向けられたのは、校門の口に据え置かれた、赤銅色に錆びた鐘だった。
かつては予鈴として使われていた、山のように大きな釣り鐘。だがそれはもう、使われてはいない。鳴らされることは二度となかった。
「……知らないぞ、聞かされてないぞ。そんなこと」
「うん。だってキミ、いつもみたいにさっさと帰される予定だったし」
あまりにあっけらかんとした答えに、ゼンは二の句を継げなかった。
――ということは、桂騎がドライバーを手にしたからこそ、オレはここにいられるのか……?
間接的に、自分はヤツによって延命させられていたのか。
複雑な思いによって項垂れる彼の、その細い肩を、背後に回った少女の手が絡み取る。
「……いやー楽なお仕事だったのに、残念だったねぇ。いつもなら、見て、帰って、『寝る』だけの簡単なお仕事だったのにねぇ」
寝る、をことさらに強調し、別の意味を悪意と共に持たせる。
歯噛みする少年は「ふざけるな」と声を振り絞った。
「別に俺は、そんなこと望んじゃいない! オレは、オレは……っ」
「だよネェー。だからさ、殺そうよ。あいつ殺して、証明しようよ、キミの強さを。そうすりゃ組織も、瑠衣も、キミを認める。口出しできないようになる」
冬花の手が、形を変えて肩から胸板を這う。
「キミは、充分に自分を理不尽に犠牲にしてきたじゃない。だったらさ、今度は自分が他人から理不尽に奪ったところで、バチ当たらないんじゃない?」
さながら毒蛇のような蠕動が、彼の心を黒く蝕んでいく。
「殺人の童貞なんて、カンタンに捨てられるでしょ? ……処女はさっさと捨てたじゃない」
煽られ、嬲られ、慰られ、理解を示され、理で説かれ、また挑発され、歪められる。
その繰り返しが、彼の腕に熱をぶり返させた。
何かの芽が、自分の内部から肌を突き破ってこぼれ出ようとしていた。




