(1)
夜の校舎で、人と魔とが交錯する。
振りかざした独鈷杵が、鉄の音を響かせる。
跳ぶ。
闇を海とし、イルカのように跳ねて回る。
一歩分の空間を跳躍する新田前を、白く分厚い雲が追っていた。
先日の土曜日、行方不明となっていた女子生徒を小脇に抱え、鏡塔学園北棟の廊下で、ゼンは逃げ回っている。
――てっきり服部のように『龍ノ巣』に引きずり込まれたものかと思っていたが……
ところが、生徒の一人は現実に留まっていた。
「不穏な気配を感じる」
という協力者の報告を受けた新田前が、その中等部の校舎を探し、そして見つけた。
蜘蛛の巣のようなものに絡め取られているこの少女と、それを目前に佇む、異形の孤影とを。
奪還それ自体は簡単だった。
が、獲物を奪われ激昂したのか。そもそもそんな感情さえ読み取れないが、敵はがむしゃらに追ってくる。
今まさに、その追っ手をかわすのにゼンは必死だった。
「……っ!」
黄金色の独鈷杵が非常灯の明かりを鈍く照り返して閃く。
反撃の刺突は雲を突っ切り、中に潜む異形目がけて繰り出される。が、突き出された右の手甲にあっけなく弾かれた。火花を散らす。
朱に緑青を混ぜたような分厚い外套がひらひらとたなびく。
乳白色の雲はこの時完全に晴れて、中にいたその人型が露わになる。
手甲とは逆の手首には、他の異形の報告例に漏れずに枯れた紫陽花の花がこびりつく。
顔には銀仮面、くぼんだ眼窩は左が青空の色、右が灰色がかった光が覗いている。
ただ違うのは、外套の裾には満ちることのない三日月と、そして菖蒲の花の刺繍が入っているということか。
その菖蒲の花が、ひらりと浮き上がる。
「しまっ……!」
その裾から足が伸びる。
すり切れた靴底が美少女然としたゼンの顔に伸びてくる。
辛うじて自由の利く右手が蹴りを防ぐ。その脚が振り切られて腕骨を砕かれる前に、ゼンは床のタイルを足で叩く。
一歩分、跳ぶ。
それが彼の持つ『歩兵』の持つ固有の能力だった。
あらゆる方角いかなる地点であっても、新田前は一歩踏み込むだけで、その跳躍力の幅分だけ、転移することができる。自分と、自分の周囲の所有物を。
「人間にそんなことできるはずがない」と、迂闊に待ち構えている素人の出鼻をくじくこともできる。
もしくは、背後に回り込むこともできる。
それが今だった。
――とった!
彼の企図した通りその外套怪人の、うなじと思われる部分を射程圏内に捉える。
帯と呼ばれる部分を強く握りしめ、鈷と呼ばれる切先が風を切る。
が、次の瞬間散らされたのは血肉でなく火の華。
鳴り響くのは断末魔でなく、金物の音。
「あ……っ!」
それの頭の後ろ手、歪曲した鎌の刃が交差していた。彼の独鈷杵に食い込んで妨げていた。
反りの浅い鎌が二本で一対。一つに重ねると蟹のハサミを思わせる姿となっている。
ゼンの心身の一瞬の硬直を、その異形は見逃さなかった。
旋回した長い脚が、無防備にさらされた脇腹に叩き込まれる。
「ぐっ!」
女子生徒を庇うようにして転がりながら、踏み込む。跳ぶ。
かろうじて追撃の鎌を避けたゼンの目の前で、機械的にそれは足を引き戻した。
爪先で床に弧を描き、まるで帽子をかぶり直すかのように、鎌を握りしめた手がフードを上から押さえつける。
「何者だ、お前」
理性ある返答をくれるとは思っていない。それでも、問わずにはいられなかった。
この身体さばきは、明らかに人類が培った戦闘技術の粋……武術の心得があった。
「からだ」
「は?」
「いの、ち」
自分と同じぐらいの少年少女の声が適当に入り交じり、高低でたらめに、ない交ぜになったような声の響きを持つ呟き。そこにはやはり脈絡がない。ゼンはため息をついて首を振った。
――これ以上は、無理だ。
そこでゼンは目の前の対象を討伐することを諦めた。
もう一度、靴底で床を叩く。
彼のスキル『初歩跳躍』は、一歩分の距離ならあらゆる地点に出現できる。
助走をつけない飛び方なら、高校生の平均記録は2.5m。新田前の脚力なら3mを超える。
その範疇なら、どこへだって跳べる。
……それこそ、壁に仕切られた向こう側だろうと、床のタイルを隔てた、下のフロアだろうと。
□■□■
「ぐっ……!」
少女の肢体を両腕で支え、机の上に着地する。不安定な足場からは早々に下りる。
無人の教室からは、ゼンと少女の息使いだけが聞こえていた。
やつれてはいるが、とりあえずは息がある。そして着地の衝撃からか、睫と瞼が震えていて、覚醒の兆候が見える。
うっすらとその目が開き、生気と正気がぼんやりと眼光として戻りつつあった。
……が、未だ曇りを残す瞳に鋭く尖る仏具が映り込む。
「ひっいいぃぃ!」
瞬間、少女はゼンを突き飛ばし、悲鳴をあげた。
「っ! おいっ!」
不意のことで対応が遅れたゼンは、もつれる足で教室から出て行った少女の姿を追おうとした。
直後のことだった。
《Check! Queen!》
聞き慣れた人工音声が、聞き慣れない単語を発する。
少女の消えた廊下の先で。淡い発光と裏返った絶叫を伴って。
その薄紅色の光の中で、少女の影をタコの触手のようなものが絡め取っていく。そのまま大きく傾いた少女は、倒れ伏す音と共に姿を消した。
「なんだと……っ?」
思わず呟くゼンは、速度を緩めず教室から出た。
折れたその先にいたのは、包帯のような長大な布に巻き取られた、少女だったもの。身体の輪郭や見え隠れする顔のパーツからそれが分かる。
だが、それとは別にもう一人、同じ年頃の少女が立っていた。
その身にまとっているのは、救い出した少女と同じ制服。
細い腰には自分と似た機具を巻いていて、ツーサイドにまとめ上げた波打った髪の下には、小動物的な愛らしい顔立ち。
だがその横顔を見慣れていたゼンには、相手に愛くるしさなど覚えなかった。むしろ、嫌悪した。
「……忍森冬花」
そこでようやくゼンの存在と接近に気がついたように振り向いた。
「あはっ」
と、あどけなく笑み綻ぶ。だがその笑みは、愛嬌たっぷりだがどこか人を不安にさせる。
「こんばんはァ、新田ちゃん」
今夜の騒動の原因となった情報提供者は、同僚の目の前で両手を重ね合わせた。




