(12)
龍脈の進入は、一瞬だった。
潜った途端に、閃光がその身を覆う。
まばゆさに瞼を閉じ、再び開いた時には地面が広がっていた。
だがその刹那の時間には形状しようのない快と不快が同居していた。
原因など分からない。認識も把握も理解もできない。
ただ光の奔流は、五感以外の何物かに訴えてくる。
それらに引きずられないようにして、少年は異界へと降り立った。
心もとない浮遊感。足元に広がるのはアスファルト。
伸びきった足に触れる硬い感触。季節が巻き戻ったかのような暑気とぎらつく太陽が、厚手の学生服を着込んだ彼を発汗させた。
ここは、本当に龍脈の中……いわゆる『龍ノ巣』と呼称された地点なのか。
――季節以外は、俺のいた世界と変わりがない。
彼の疑惑を察したかのように、その胸の前で人形が語りかける。
「紛れもなく、ここは龍脈の中さ。……しかし、この空間の完成度たるや見事見事、よくもまぁ記憶の再現だけでここまでやれたものだ」
一人知的欲求を満たす瑠衣はさておいて、余韻は肉体に残っている。
自分が超常の存在を通過したという実感がある。
今も残り香のように、その影響が今いる時空にまとわりついているのも感じ取っていた。
「おそらくこの風景は服部曽路にゆかりのある場所を模したものだ。龍脈は当人にとって強い念を残す事物を模して、コロニーを形成。汚染の浸出を妨げているようだ。……ここに見覚えは?」
ウサギの問いに習玄は強く頷いた。
忘れるはずもない。目の前にそびえ立つのは県の総合体育館。城跡公園に実在するこの施設のうえに時節が夏とくれば、彼が何に未練を持つのか、察することはできる。
「今年の夏、剣道部では大会がありまして。ひょっとすれば県内一というほどに期待されてました。俺も一年生ながら、先鋒として参加できる栄誉に預かりました」
「で、ダメだったと」
「……まぁ、有り体に言えば」
端緒から、相手は名の知れた強豪校。初戦敗退の四字が、部に重くのしかかる。
習玄自身も先鋒を務めながらも、相手は運悪く上級生。接戦したという自負はあるものの、結果はむなしく判定負けとなった。
「才能なんてなかったんですよ、剣道には」
肩をすくめてそう言った習玄に、
「違うな」
……という否定の声が入った。
「三本目はお前の面打ちの方が速かった。あれは、誤審だった。にも関わらず、お前は抗議もせずに引き下がった」
ウサギのボーイソプラノではなく、野太い男の声だった。服部曽路のものだった。
胴間声だけが、空間に響いている。
どこにいるのか。そう問う間も無く、突風が吹いた。そこに含められた紫陽花の花弁が視界を覆う。それを振り払った時には、習玄たちを取り巻く環境が一変していた。
そこは、間違いなく大会を催していた試合会場の中だった。
観客席に四方を囲まれた中央に、当時と同じように自分は立っている。だが相手側に立っているのは、防具をつけた上級生ではなかった。
いつぞやの死神たちと同じ茶色く薄汚れた外套に、2メートルを超える屈強な肉体が包まれている。
その切れ目裂け目から鎧のような地肌が覗き、錆び付いた銀仮面が顔を隠す。
手首には枯れ果てた紫陽花の花弁がびっしりとこびりつき、侵食された手は時折何かを思い出したかのように痙攣していた。
その手が何かを握るような仕草をすると、幅広の刀がどこからともなく現れて、それの手の中に収まった。
「剣道というしがらみを抜け出して、真剣を手にして理解できた。あの時のお前は本気じゃなかった。いや全力を出せなかったと言った方が良いか? 桂騎習玄」
そしてこの怪人は、服部曽路の記憶にもとづいて、服部曽路の声音で語りかけてきた。
「後ろ足を開いて地に強くつけた足。有効打以外を狙ったかのような奇妙なクセ。今にして思えば、あれは金物の重さを知っていたからこその戦い方だったんだろう。敵を確実に行動不能にできる打ち筋を、無意識のうちにお前は狙っていたわけだ。……お前にとっては、剣道なんぞは茶番だったんだな」
――これがあの服部先輩の成れの果てか。
習玄の胸元で「惑わされるなよ」と叱咤が飛んだ。
「あれはヤツを汚染していた龍脈が、その本心と結びついて本体を取り込んだものだ」
「本心……」
「まぁ本心とはその人物の『本性』ではない。理性とそれとをせめぎ合わせてこその人間性だ。そうだろう?」
「……そのあたりの問答はともかくとして。あれは倒して良いものですか? 倒せば先輩は帰ってきますか?」
「倒して良いか、ではない。滅さねばならないものだ。というかそもそもな」
ものだ、と念話が発せられたタイミングで、目の前の怪異の姿が消えていた。
次の瞬間には、習玄も動いていた。
繰り出された槍が、刃鳴り散らす。
「殺す気でやらねば、君死ぬぞ」
相手の力量に呻く少年の胸で、人形が言った。




