(1)
「……えーと? ごめんなさい」
人も自然も冬の支度を始めた十一月の夕空の下、鏡塔学園本校校舎裏では、あるアプローチが拒否されていた。
「……理由を聞いていいか」
と、声を落として男が尋ねた。
屈強な胸板を持つ190cmはある巨漢だった。この三年生の肉体と向かい合っている少年は、頭一つ分ほど小さかった。
「いやー……どうも自分にはなんか、もったいないお申し出ですが」
彼の口から発せられる声は軽やかで、寒々とした空気の中でよく響いた。
「そんなことはない。お前には才能がある。だから、また部に戻ってくれないか。……桂騎」
桂騎習玄は、元主将の説得に首を振った。
耳の付け根に指を添えながら、習玄は愛想笑いを浮かべている。ややだらしなく思えたかもしれない、と彼は内心で気にかけた。
髪は剣道をやっていた少し前では、考えられないほどにだらしなく伸びていた。
防具の跡が残るほど日焼けもすっかり抜け落ちて、変わらないのは棗の実をくりぬいてそのまま穴にはめ込んだような、大きな瞳ぐらいなものか。
いっそ失望してくれたら、と桂騎少年は願った。
ところが、目の前の服部曽路は自分を買いかぶったまま説得を止めようともしない。
部を辞めてから連日のように、
「才能がある」
「目の中に他の連中とは違うものを見た」
「顔を出すだけでも良い」
そんなことをくり返し言われて説得される。それをやんわりと受け流しながら、彼は何度も首を振った。
そして、いつものように右袖をまくりあげて自嘲する。
「自分にはもう、剣道なんてできませんよ」
熱弁をかまわずふるっている彼に見せつけたのは、手傷の傷跡。
手首にうっすらと残るピンク色の痕が、服部に息を呑ませた。
「……それでは、これで」
ぺこりと頭を下げて、くるりと踵を返す。
後輩の背をその足では追わなかった。だが険しいその目は、習玄が表の通りに出るまで、ずっと追っていた。
□■□■
習玄は、服部をあしらってから教室に戻った。
帰り支度を整えてから、図書館に向かう。
そこで李衛公問対を返却し、文庫サイズの野鳥図鑑と適当な画集を借りた。
受付を担当する学校司書に一礼する。
図書室を退出すると、細い影が、暮れかけた夕日の中に伸びていた。
中等部の女子生徒にしては持てあまし気味の、長い手足。
それとは対照的な幼い顔立ちに、優等生であることを示すかのような真っ黒なおさげ。
遠目に見れば一本の棒のようにも見える立ち姿に、習玄は目をうっすらと細めた。
「みのりさん」
愛嬌のあるまん丸な少女の目が、じっとそちらを見返した。
「どうしたんです? こんなところで」
タイル二枚分の間合いで止まって、習玄は左手を挙げた。
その目の前でみのりと呼ばれる彼女は、左手を肩から提げたバッグの中へと突っ込んだ。
無言で取り出されたのは、ミカンのジュース缶。
「……?」
訝しむ習玄の目の前で、缶を握る少女の手が持ち上がり……年上の少年の顔面目がけて投げつけられた。
「のぉぉぉっ!?」
咄嗟にキャッチしてしまったその右手に、中身たっぷりの缶の重さがズシリとかかる。
だが、別に痛みはなかった。
「ウソつき。ケガなんて、もう痛くないクセに」
そしてそれは、相手にも看破されていた。
幼く無垢そうな顔立ちに反し少女、氏家みのりの声はドライだった。普段以上に、冷たく、乾いていて、トゲを含んでいる。
どこから見られていたのだろうか。
間が抜けたように缶ジュースを握りしめたままの習玄に、みのりはズイと顔を寄せた。
「……ケガしたってのは、嘘ではないですから」
少女の非難に冷や汗をダラダラに流しながら目をそらし、やり過ごし、桂騎習玄は校舎の口へと足を速めた。
□■□■
「何で部活辞めちゃったの? ケガ、理由じゃないでしょ」
校外に出る。
下校路である坂道を共に帰りながら、少女の追及は止まらなかった。
神社沿いのその道を、歩幅を揃えて下りつつ、
「……正直、俺には服部先輩の言うような剣の成長は見込めなかったと思います」
丁寧に、選んだ言葉を前置く。
「ヘンなクセが中々抜けなくてね。どれだけ先輩方や先生方に注意されても治りませんでした。腕の方も中の下。あとは……反則負けも多くて、えーと……ら、ラ」
「ラフプレイ?」
「そう、それが多かったんですよ。だから対戦相手や同輩たちとの折り合いも悪くて」
ふぅん、と要領を得ない返事がかえってくる。納得とまでは得られなくても、半信半疑にまでは持っていけたようだった。
「本当に、それだけ?」
「それだけと言われましても……理由としては、十分な気がします、けど」
みのりの勘が鋭いのか。それともただ単純に、自分がごまかしの苦手な人間なのか。
彼女の背負うカバンのファスナーで、ブサイクなウサギの人形が左右に揺れている。その不安定さが自分の心理と同調しているようで、奇妙な共感を覚えた。
数ヶ月ほど前、部活の遠征で自分が買ったおみやげ。あの時はつい軽い気持ちで買ってしまったが、はたして商品価格と合っているか疑問な、ひどい出来と意匠だった。
「まぁいいや」
くるりと体をめぐらせた少女は、口の端をわずかに吊り上げた。それは、二年の付き合いになる習玄にようやく分かるレベルの、みのりなりの笑顔だった。
「私が、お兄がまっとうな学生生活に復帰できるように、キョーイクしてあげるから」
苦笑と共に習玄は頷く。そして、前をちゃんと見るようみのりを促した。
背を向けた彼女と、彼との間にひらりと一枚の羽が舞い降りる。
電柱から飛び立った、鴉の黒羽。
ほぼ無意識のうちに右手を伸ばす。つかもうとした指の間から、羽はすり抜けていった。
習玄は肩をすくめてため息をつき、遠のく少女の背を早歩きで追った。