(10)
「……お前か……桂騎」
熱い息を吐きながら、服部曽路は習玄と瑠衣に振り返った。もっともこのウサギ人形のことは知覚しているとは思えないが。
顔のパーツすべてが視線に入った時、そのおぞましさに習玄は表情を曇らせた。
目には狂気を、口には歓喜を。全身にはみなぎる殺気を。
――これが、あの服部先輩なのか。
数日前は当たり前のように接していた彼の変貌ぶりに、習玄は言葉を詰まらせた。
会話は通じる。未だ理性は引っかかっている、はずだ。
何が彼をそうさせたか、それだけでも知りたいと思い、彼は剣道部の長に視線を注ぐ。
「こいつの剣は、てんで話にならん。こういうのを児戯とでも言うのかな。……今なら、お前の気持ちが分かる」
「……俺の? いったい、それはどういう」
言葉は途切れた。脳で理解するより早く肉体は動いた。
習玄がいた空間に竹刀が振り下ろされる。その剣先が、いやその剣先のまとう風の塊が、床板を割った。
戦慄は後回しだった。
咄嗟に拾い上げた竹刀が、跳ね上がった切っ先をいなす。
わずかに触れただけなのに、弦は切れた。竹は根元から折れて四散し、むなしく彼の手に残されたのは柄だけだった。
それのみで二の太刀に応じる。
――熱い、速い。
習玄は舌を打つ。
人間とは思えない体温が、直接触れていなくとも肉薄する男の身体から滲み出てくる。
その太刀筋はやはり小さな嵐のようなものをまとっている。手に伝わる感触に、竹刀の軽みはない。
尋常でない剛力に三歩押し負け、壁に背を押しやられる。
――精神だけじゃない。肉体そのものが作り替えられたかのようだ。
「良い捌きだ。試合では、まずそんな動きなんてできないからな」
「だから、なんの話、ですかッ!」
「とぼけるなっ! お前……お前が部を辞めたのは、怪我のせいじゃないッ! お前は嗤っていたんだろ!? おれたちの試合なんて、所詮実戦では役に立たない、と! 真の武じゃない、所詮棒振り、スポーツだと思っていたんだろう! そこにお前の居場所は……本来の力を出せる場はなかった、それがためのラフプレイだろう! お前の経緯なんかは知らんが、それでもお前の身体捌きは実戦の味を知っていたっ!」
「……それ、はっ……」
血走った白目が、習玄の肌を射貫く。
大喝が鼓膜を震えさせる。
その巨体が視界いっぱいを覆い、発散される汗が鼻を突く。
充血する指先の感覚は次第に薄れていく。
それが完全になくなった時が自分の死に目のような予感があった。
習玄がその問いに答えを詰まらせたのは、外からの圧力かあるいは内なる煩悶か。
それさえも分からないほどに五感と脳髄を、情報が埋め尽くす。
みしみしと音を立てる竹刀の残骸が、限界を告げていた。
それを捨てるのとほぼ同時に、習玄は横に飛んだ。
袈裟懸けの一撃が壁に軌道を描いて亀裂を残す。
本来なら繰り出した剣士の肉体を持って行くだろう一撃。だが狂える超人と化した服部は、異常な身のひねり方をした。
――蹴りか、剣か。
一瞬逡巡した習玄だったが、両足は床にどっかりとついたまま。燕返しの要領で切先がすくい上げられる。
「これが……これが真の武だァ!」
暴風を宿した剣が床をめくり上げる。
これ以上習玄は退けなかった。退けばその先に、倒れ伏すかつての同輩がいる。
「ッ!」
《Check! Knight!》
腰の裏からドライバーを取り出す。装着する。鍵駒をねじ込み、朱槍を展開する。
基本的な動作は、よどみなく行われた。穂先が暴風を受け止め、そこから生じた障壁が、剣士たちの生命を救った。
「こんなものは、真の武じゃない……ッ、武というものは、今俺たちの足下にいる彼らのために用いられるべきものだ……っ」
男の双眸に驚愕はあれど、それが身体を鈍らせることはなかった。
それでも彼と同質同量の力を得た習玄が、二度押し負けることはなかった。
巻き上げた竹刀が服部の手から取り上げられて、宙を舞った。
カツ、と乾いた音を立てて明後日の方向へ飛ばされたそれを、虚ろな男の目が追っていた。
「あ……おれの、武が、力が、剣が……」
途端に意気は消沈する。萎える敵意を前に、当惑したのは相対した習玄だ。
「終わった、のか……?」
何やら肩すかしを食らった気分で、それでも残心は示し、
「退け。巻き込まれるぞ」
……瑠衣の忠告に、即座に従った。
「あああ、熱い……からだが、熱い。あつあああぁあぁぁぁぁあああぁ!」
悲痛な慟哭が、耳をつんざく。
窓を割らんばかりの叫声に呼応するかのように、男の利き手からは花が生えた。
根はなく、実もつけず、葉さえない。
紫陽花の花。
ただ薄青色の花弁の群生が、蛆のように男の上腕から指先にかけて沸いた。
瞬く間に全身を蝕む。髪の毛一本さえ残さず、侵して包む。その花弁から白煙が噴き出す。
いや煙というには勢いが足りない。霧や霞というには濃さと厚さが段違いだ。強いているのならばそれは、
――夏の、雲のような……
旧友たちを守るべく乱造される防壁の中、習玄はその光景を見た。見てしまった。
美しくも妖しくも、吐き気を催すおぞましさが、服部の全身を喰らっていく。
雲が薄れてかき消えた時、影も形もなかった。
ただ一人、服部曽路の姿だけが消えていた。




