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「……お前か……桂騎」


 熱い息を吐きながら、服部曽路は習玄と瑠衣に振り返った。もっともこのウサギ人形のことは知覚しているとは思えないが。

 顔のパーツすべてが視線に入った時、そのおぞましさに習玄は表情を曇らせた。

 目には狂気を、口には歓喜を。全身にはみなぎる殺気を。


 ――これが、あの服部先輩なのか。


 数日前は当たり前のように接していた彼の変貌ぶりに、習玄は言葉を詰まらせた。

 会話は通じる。未だ理性は引っかかっている、はずだ。

 何が彼をそうさせたか、それだけでも知りたいと思い、彼は剣道部の長に視線を注ぐ。


「こいつの剣は、てんで話にならん。こういうのを児戯とでも言うのかな。……今なら、お前の気持ちが分かる」

「……俺の? いったい、それはどういう」


 言葉は途切れた。脳で理解するより早く肉体は動いた。

 習玄がいた空間に竹刀が振り下ろされる。その剣先が、いやその剣先のまとう風の塊が、床板を割った。


 戦慄は後回しだった。

 咄嗟に拾い上げた竹刀が、跳ね上がった切っ先をいなす。

 わずかに触れただけなのに、弦は切れた。竹は根元から折れて四散し、むなしく彼の手に残されたのは柄だけだった。

 それのみで二の太刀に応じる。


 ――熱い、速い。


 習玄は舌を打つ。

 人間とは思えない体温が、直接触れていなくとも肉薄する男の身体から滲み出てくる。

 その太刀筋はやはり小さな嵐のようなものをまとっている。手に伝わる感触に、竹刀の軽みはない。

 尋常でない剛力に三歩押し負け、壁に背を押しやられる。


 ――精神だけじゃない。肉体そのものが作り替えられたかのようだ。


「良い捌きだ。試合では、まずそんな動きなんてできないからな」

「だから、なんの話、ですかッ!」

「とぼけるなっ! お前……お前が部を辞めたのは、怪我のせいじゃないッ! お前は嗤っていたんだろ!? おれたちの試合なんて、所詮実戦では役に立たない、と! 真の武じゃない、所詮棒振り、スポーツだと思っていたんだろう! そこにお前の居場所は……本来の力を出せる場はなかった、それがためのラフプレイだろう! お前の経緯なんかは知らんが、それでもお前の身体捌きは実戦の味を知っていたっ!」

「……それ、はっ……」


 血走った白目が、習玄の肌を射貫く。

 大喝が鼓膜を震えさせる。

 その巨体が視界いっぱいを覆い、発散される汗が鼻を突く。

 充血する指先の感覚は次第に薄れていく。

 それが完全になくなった時が自分の死に目のような予感があった。


 習玄がその問いに答えを詰まらせたのは、外からの圧力かあるいは内なる煩悶か。

 それさえも分からないほどに五感と脳髄を、情報が埋め尽くす。


 みしみしと音を立てる竹刀の残骸が、限界を告げていた。

 それを捨てるのとほぼ同時に、習玄は横に飛んだ。


 袈裟懸けの一撃が壁に軌道を描いて亀裂を残す。

 本来なら繰り出した剣士の肉体を持って行くだろう一撃。だが狂える超人と化した服部は、異常な身のひねり方をした。


 ――蹴りか、剣か。


 一瞬逡巡した習玄だったが、両足は床にどっかりとついたまま。燕返しの要領で切先がすくい上げられる。

「これが……これが真の武だァ!」

 暴風を宿した剣が床をめくり上げる。

 これ以上習玄は退けなかった。退けばその先に、倒れ伏すかつての同輩がいる。


「ッ!」

《Check! Knight!》


 腰の裏からドライバーを取り出す。装着する。鍵駒をねじ込み、朱槍を展開する。

 基本的な動作は、よどみなく行われた。穂先が暴風を受け止め、そこから生じた障壁が、剣士たちの生命を救った。


「こんなものは、真の武じゃない……ッ、武というものは、今俺たちの足下にいる彼らのために用いられるべきものだ……っ」


 男の双眸に驚愕はあれど、それが身体を鈍らせることはなかった。

 それでも彼と同質同量の力を得た習玄が、二度押し負けることはなかった。


 巻き上げた竹刀が服部の手から取り上げられて、宙を舞った。

 カツ、と乾いた音を立てて明後日の方向へ飛ばされたそれを、虚ろな男の目が追っていた。


「あ……おれの、武が、力が、剣が……」


 途端に意気は消沈する。萎える敵意を前に、当惑したのは相対した習玄だ。

「終わった、のか……?」

 何やら肩すかしを食らった気分で、それでも残心は示し、


「退け。巻き込まれるぞ」


 ……瑠衣の忠告に、即座に従った。


「あああ、熱い……からだが、熱い。あつあああぁあぁぁぁぁあああぁ!」


 悲痛な慟哭が、耳をつんざく。

 窓を割らんばかりの叫声に呼応するかのように、男の利き手からは花が生えた。

 根はなく、実もつけず、葉さえない。


 紫陽花の花。


 ただ薄青色の花弁の群生が、蛆のように男の上腕から指先にかけて沸いた。

 瞬く間に全身を蝕む。髪の毛一本さえ残さず、侵して包む。その花弁から白煙が噴き出す。

 いや煙というには勢いが足りない。霧や霞というには濃さと厚さが段違いだ。強いているのならばそれは、


 ――夏の、雲のような……


 旧友たちを守るべく乱造される防壁の中、習玄はその光景を見た。見てしまった。

 美しくも妖しくも、吐き気を催すおぞましさが、服部の全身を喰らっていく。


 雲が薄れてかき消えた時、影も形もなかった。

 ただ一人、服部曽路の姿だけが消えていた。

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