番外編:秘して吐露して
異変が生じたのは、あくる日曜の朝食後だった。
事のきっかけは「あれ」と小さく漏れたみのりの声。据え置きなり携帯なりのゲームの攻略を習玄たちの前で進めるのが、彼女の食後の日課だった。
不審げなその表情はわずかに険しくなって、やがて自宅スペースのリビングに、彼女の不穏な雰囲気が満ち満ちる。
少女の手にした携帯ゲームの端末が、ミシリ、と音を立てた。
なじみのない人間にはそうした彼女の不機嫌さは伝わらないかもしれない。可愛い顔立ちがわずかに曇っただけに見えるかもしれない。
しかし、父親と兄貴分にはすぐにその空気の流れを察知した。
――この娘、激おこだ。
「ねぇ」
という呼び声に過剰に反応し、男ふたりは大仰に肩を揺らした。
「私のゲーム、どっちかイジった?」
少女にしては低い声に、習玄と紀昌は同時に驚いた。
しかし身に覚えのないことだった。少なくとも、習玄自身にとっては。
みのりの父に視線をやっても、首を振って否定するばかりだ。
そして口を揃えて
「知りません」
と答える。
それでも娘の疑惑が目の中から消えることはなかった。
「じゃあ……なんで昨日まで中盤だったのに隠しボスまでクリアされてんの?」
「く、クリア?」
「それだけじゃなくて、アイテムも装備もフルコンプ状態だし、なんか覚えのないDLCがダウンロードされてるし、水着のコスが増えてるし! っていうか全タイムアタック更新ってどんだけ廃人だってのよ」
「? ……?」
何を言っているのか、その手の知識のない習玄は疑問符を浮かべることしかできないでいる。
そうした彼の、ポカンとした表情を少女の大きめの目が見返し、そしてため息をつく。
「お兄、じゃないよねそりゃ。……っていうかそれだったら、もっと一緒に」
「はい?」
「もう良い、お兄じゃないのは分かったから。……ゲームの方は、全然良くないけど」
ふぅん、と習玄は相槌を適当に打った。
――言うなれば、将棋の一手を第三者が勝手に指したものか。
そう置き換えれば、彼女の静かなる怒りにも納得がいく。
自分の兄も、将棋の手を勝手に差されれてキレたことがある。
将棋盤は人間の拳でたたき割れることを、習玄はその時初めて知った。
――だが問題は、その犯人か。……心当たりがあるやら、ないやら。
「でも、誰なんだろう。このキャラネーム『ル☆イ』って」
□■□■
「やってくれたなぁ……やってくれたなぁ……」
「ごめーんね」
「誠意の欠片もありませんね」
急いで帰ってきた自室。
その勉強机の上、寝そべるウサギの人形の前で少年はバン、と強く掌を打ち付けた。
「『もう二度と余計なことはしないよ』とか言って、舌の根の乾かぬうちにこれですか」
「これにはわたしも苦笑い。というかこの体、舌なんてないけどな」
「黙らっしゃい!」
むくりと上体を持ち上げた『勝手にゲームコンプ犯』こと時州瑠衣は、まるで悪びれた様子もなく、投げやりな所作で首を振るばかりだった。
「しかしアレだな。人間の頃は睡眠も必要とせず、疲れも知らない肉体が欲しかったんだが。なったらなったで時間を持て余すものだよ。まして、行動が制限されているとなると」
「だから、げぇむ、をしたと?」
よくその体でボタンをピコピコできたな、と内心で感心する。
仮にもお説教中だから、口に出すことはしなかった。
「彼女のプレイは実に詰めが甘い。無料なんだからDLCも取り入れれば良い。シャツが透けるんだぞシャツが! 今度はPCゲーにエロMODも入れよう、な!」
「……言葉の意味は不明ですが、絶対阻止しなくてはいけないのは分かります」
「だいたい君もいけない」
習玄の1/100にも劣る小ささを持つその人形は、彼の不毛な部屋をぐるーり、と駆け巡る。内装らしい内装も防寒用のカーペットだけで、清潔感が保たれているそれはちょっとの私物を片付ければそのまま宿泊施設としての役割を果たしてくれそうだった
「なんだねこの部屋は。無趣味にもほどがある。おかげでわたしは深夜の民宿を徘徊し、彼女の部屋を物色しなければならなかったぞ。あ、ちなみに彼女のフェイバリット下着は白の」
「それ以上しゃべると俺としても貴方の首を落とさざるを得ませんが、それでも話したければどうぞ」
ウサギは黙り込んだ。
習玄はそれを認めると、深くため息をついて「まぁ」と話を転じた。
「あれが彼女のお気に入りのゲぇムだったのがいけなかったですよ。ヒマを持て余すようであれば、欲しいものは俺が用意しますので」
「買ってくれるの!? わぁい! じゃあね、ボクね! DNMとかにあるガッツリNTR物がイイや!」
「……代金は貴方の家のサイフから後日拝借します。そして、法や道徳にもとる代物は拒否します」
ちぇー、という子どもらしい嘆きの後に、「チッ、役立たずが」という露骨な悪態が聞こえてくる。
それをあえて流していると、
「しかしそーゆーお遊戯にまったく疎い君が、よく彼女のお気に入りのソフトを知っていたな」
問いは重ねられる。
「そふ……?」
「ゲーム」
「あぁ、頻繁にやっているのを見ます。というか、やり始めるのをよく目撃しますので」
一瞬の沈黙があった。
何かを押し殺したかのような声で、
「例えば?」
とウサギはさらに尋ねた。
「例えば……今回のように俺たちが食卓についていると、始めますね」
「……」
「あとは、俺が居間でゆっくりしていたり、風呂から出て居間とか彼女の部屋を通りがかったりした時、電源を入れるような気が……あれ、でもそのゲームとは限らない気も」
「よし、死ね!」
「だぁっ!?」
おもむろに繰り出されたウサギの小さな拳には、かなりの霊力が入っていた。
直撃はかわしたものの、したたかに壁に背を打ち付けた彼の鼻先に、バチバチと紫電渦巻くフェルト製の手が突きつけられる。
「こんのド鈍感がッ! 思いっきり誘われてるじゃないの、それ! 一緒にゲームしたがってるってことだろうがっ! ……クソッ、なんで神仏はこんな朴念仁のクズに義妹を与え、わたしにはそういった存在をただの一人も与えないの!? いや実妹でも良い! なんなら背が低くて胸に夢いっぱい詰まった子で頼む」
「……神仏がそういう言動をご照覧あそばしてるからじゃないですかね……」
掠れ声で辛うじて呟いたその習玄の、背後で足音がした。
ノックもなく静かに戸が開き、
「お兄、なんかスゴイ音したんだけど」
というみのりの声が習玄の心臓をわしづかみにした。
――この人形を隠さなければ……っ!
だがどうするか?
ただでさえ妙に勘が鋭い少女なのに、謎のプレイヤーにゲームが勝手に遊ばれて警戒心が高まっている。
少しでも不審に動けば怪しまれる。手足の動きは最低限に、この汚物を隠匿せねば。
だが隠せる箱は近くにない。元々そうした家具には乏しい部屋だ。着ているパジャマ代わりの作務衣は紀昌のお下がりで、ポケットもなく、袂に物を入れる機能がない。
無理をして勉強机に行ってこれを隠せばかえって怪しまれる。
ならどうする。
この場から一歩も動かずして、瑠衣を隠せるような場所は……?
刹那的な時間制限の中、死ぬほどに思い悩む習玄の脳裏に、一筋の可能性が生まれた。
――いや、これがある。否これしかないっ!
意を決する。それこそ、泥でも食うような覚悟を決めた。
「へ?」
とマヌケな声をちいさくあげるそれを『入れて』、彼は妹分へと振り返った。
「……なにか、食べてた?」
次の瞬間みのりの目に映ったのは、人形を口に含み頬を膨らませた少年の姿だったろう。
えも言われぬ珍味……いや、泥土をベースにした不快さな味が舌の中で踊り、鼻から生ゴミのような悪臭が抜ける。
「ぐえー! ぐえぇええー!」
必死の抵抗をするウサギの人形は口腔で暴れまくってはいるものの、筋肉で無理矢理に押さえつけて表面上は何事もないように努める。
五感をことごとく刺激する猛烈な刺激に涙を浮かべ、それでも笑みを繕って頷くだけだった。
「……そ。じゃ、そのままで聞いてよ」
肯定の意味で、彼は首を動かした。
「なんか、据え置き機の方のゲームもデータいじくられてたんだけどさ……って、何してんの?」
ぼすぼすっ、と習玄は自分の頬の上からウサギを殴りつけた。
頬肉の内側にカウンターパンチを見舞われつつ、張り付いた笑みで続きを促す。
――なんか、余計に疑われている気もしないではない。こんなことなら、尻に敷いておきゃ良かった。
「で、そのデータなんかキモかったんで消したんだけど」
「なんだと!? 貴様、わたしがお色気スチルコンプするのにどれだけ時間かけたと思ってる!? シークレットのホモエンドまで網羅したんだぞ!?」
一晩だろ、というツッコミを強烈なパンチに替えて、彼は鎮めた。
「おかげでもう一回やり直すことになったんだよね」
うんうん、と習玄は頷いたが専門用語まじりの彼女の言葉を五割も理解してはいないだろう。それでも、この時彼の脳裏を過ぎたのはつい数分前の、
「彼女は自分とゲームをしたがっている」
という瑠衣の推測だった。
それが真実か、彼女の聞き出せるまで話を聞いてやる。そのために必要な過程だと信じていた。
そしてそれは、
「だから、手伝ってよ」
言葉少なに、しかしひどく迂遠で不器用な言い回しで表現された。
だが、鈍感で朴念仁と評された習玄にも、その真意はよく伝わった。
知らない間に、笑みがこぼれていた。
――なるほど、愚者にも千慮の一徳ありとはよく言ったものだ。
さっきの時州の直接的な解釈がなければ、自覚のないままに聞き逃していたのかもしれない。
苦笑と共に頷いてみせる。一緒に遊んでやるから先に下りてなさいと、目の動きで促す。
ほんのわずかに、怒る時と同様の分かる人を選ぶ微妙な変化。それでも、少女のまん丸な瞳が、その顔色が、嬉しさに満ちて笑みを見せたのがわかった。
わかった、とみのりは部屋を出て、階段を下りていく。
ぱたぱたとした足音は、普段よりも軽やかだった。
――原因はこちらにあるし、他にも色々と悩ませられるけど。あの察しにくい娘を嬉しがらせることができただけでも瑠衣先生をこの家にお招きした意味はあったか。
習玄はしみじみと内心で呟いた。
――まぁ、それは良い。それはともかく、だ。
ゲームの手伝いよりも、感慨にふけるよりも、彼にはまずやらなければいかないことがあった。
「おえぇぇぇぇぇえッ!」
人形を吐き捨て、その彼と共にえづいてむせぶ。




