(1)
桂騎習玄が、風邪になった。
その衝撃は、新田前にとって年末の一連の流れにおいても二、三を争うほどだった。
ーーあんな男でも、病気にかかるんだな。いやまぁ、人間……だから当たり前なんだけど。
その動揺が伝わったかのように、手に提げたエコバッグが小刻みに揺れていた。
「にしても珍しいな。アンタがオレにひっつくとか」
マフラーに隠れたウサギに小声で話しかけながら、新田前は帰路につく。
「いやぁ、カツラキ君の風邪が移ったら大変だしな」
とウサギはうそぶいた。
「移るか。……なんか、一昨日から妙にぎこちないんだよな。何があった?」
「べつに何も。ただ、ガラにもなくわたしが彼にマジレスして、今までなぁなぁになっていたお互いの価値観の隔絶が顕著になっただけさ」
「思いっきり何かあったじゃないか!」
あっけらかんと言ってのける時州瑠衣に、ゼンは頭を抱えながら、マンションの自動ドアをくぐり抜けた。
「勘弁してくれよ……もう世界も滅びる手前かもしれないし、アンタだってもう長くないんだろ。こんなときぐらい、仲良くできないのか」
「どっちかが死んでも譲らんよ、我々は。お前からそんな同情的なセリフが出るとはな」
「……オレだって、アンタには恩義や同情ぐらい感じてるんだ。そりゃ憎たらしい部分もあるけど、あいつほど割り切れないわけでもない」
それに、と句を切って声のトーンを落として、彼はつづけた。
「そんな風に、オレが表面的な好悪で二分したから大内も、冬花も」
そこまで言って、少年は口をつぐむ。
心理的にも割り切れなかったというのもあるが、ロビーのインターホンの前で立ち往生している、ダッフルコートの少女の姿があったからだ。
思い余って、つい勢いで来てしまったといったところだろう。
向こうはどうあれ、ゼンたちは彼女の為人を伝聞で、あるいは断片的ながら見て知っている。
詰め込めるだけ必要品を詰め込んだといった感じだろうか。満杯のスーパーの袋を重石のように足下に置き、目当ての部屋番号がわからず指のタッチパネルでさまよわせている。
「氏家さん? 桂騎の見舞い?」
彼女、氏家みのりのファミリーネームをゼンが背から呼ばわると、彼女は目を見開いて振り向いた。
だが、ゼンの姿を認めるや表情を一転、険のある顔つきになって、紫電のごとき眼光をバシッと飛ばしたのだった。
「なんで!?」
□■□■
「ほんっとうに、お兄とはなんでもないんですよね?」
エレベーターの中、何度も念押しするように聞いてくるみのりに、ゼンはうんざり顔を作って答えた。
「だから、さっきも言ってるけどアレとは友達だって。そういう勘ぐりより、自分が巻き込まれたことのほうが気になるんじゃないの?」
「そっちは、問い詰めました」
「結局覚えてたのか」
「こっちはできれば忘れてほしいんですけど……」
「ムリ。あきらめなよ。オレだってあんなふうに桂騎に見られたし」
「割り切れませんよ」
なるほど彼女の口調は、鏡塔中等部のクールビューティーという異名にふさわしい、キレがあった。
呆れ半分感心して見せて「そっか」と相槌を打つ。
そういう言い合いが終われば、気まずい沈黙が流れる。
そのたびに肩の人形が、
「お、修羅場? 修羅場か? ノールールでやりたまえ!」
などと執拗に煽ってくる。
それを押さえつけるかたりで黙らせると、ようやく目当てのフロアについてほっとする。
「……なんかホッとしてないですか? そんなに色々聞かれてマズイことでもあるんです? っていうか、見られたって何をですか?」
――めんどくさいな、この娘。
食らいついてくるみのりを適当にあしらい、自分たちの下宿先のドアを開く。
丈夫さに反して軽やかなドアを引きながら、ゼンはみのりを招き入れた。
「ただいまー、って……!」
そして自身も入ろうとして、リビングのソファに座る作務衣姿の桂騎習玄を見てぎょっとした。
「何してるんだ!? ベッドじゃなくてこんなとこでッ」
「おかえりなさい、すみません。ちょっと同じ景色だと退屈なもので」
「だからって、窓まで開けることないだろ!? ったく」
ベランダで全開になっている窓を閉める。そのドアの根元に寄っていた瑠衣は、
「君にしてはずいぶんと不用心というか、無防備だな」
とポツリと漏らした。
絡むようなその物言いは気になったが、ゼンは頬を紅潮させた習玄を見た。
「また熱上がったんじゃないのか?」
と彼を案じ、額に手か、あるいは自身のそれを押し当てようとした。
その背から、雷光のごとき敵意が、矢となって飛んでくる。ゼンは自分の不覚を察し、ややぎこちなく習玄の顔から離れた。
「ど、どうぞ……?」
と、体温計の役割をみのりに譲ろうとする。
言った直後、我ながらずいぶんマヌケな気配りだと思った。そんな配慮を『恋敵』からされて嬉しかろうはずもない。
……だが、言ったあとではもう遅い。
「なんですか、それ」
と、冷たい声音が返ってくる。
「大丈夫?」
荷物を冷蔵庫の前に置くと一転、桂騎には熱と心配とが入り混じった声で尋ねる。
「みのりさんも、わざわざお見舞いありがとうございます」
いっそよそよそしいまでの丁寧口調で、彼は弱い笑みを浮かべた。
どことなく距離を感じるのは自分の気のせいか、あるいは単純に病気をうつさないための気遣いか。
……でなければ、あの『龍ノ巣』内でのトラウマからくるものか。
幸いにして、その距離感まではくみ取ってはいないらしい。どことなく浮かれ気味の少女は、ややテンション高く袋を
「これ、お父さんたちから。果物と、あと冷えたピタするヤツ。で、あとカレー! お昼まだでしょ、作ってあげる」
うれしげに言いながら、みのりはレトルトカレーを取り出した。
それを見た瞬間、ゼンは声にならない声を漏らした。
「あ、昨日食べたやつ」
そして、自分が思ってもあえて言わなかったことを習玄が口をすべらせたとき、そのなごやかな空気が一変した。
――バッカ、このバカ! 朴念仁!
シンプルな、だがあらん限りの罵声を視線に乗せて、ゼンは習玄をにらんだ。
「あぁあぁあ! あのですね、べつにイヤってわけでもないですよ!? れとると……ですからいつでも自分で作って食べられるわけですし、ね! これから新田くんが卵粥作ってくれるんです、だからせめて果物はこの場でいただきますから」
彼もそこで自分の失言を悟ったらしい。さっきまでの上機嫌が吹き飛んだかのようにうつむく少女に、わたわたと弁解する。
ただし、それは自分の失敗を繕うどころか地雷を踏みまくっている。
いったいこいつは彼女の空間でいったい何を学んだのか。そう問い詰めたくなったゼンだったが、自分がフォローすれば余計に話がこじれそうだから、戦々恐々と成り行きを見守るしかない。
……だが、
「ぷっ……あっはははは!」
彼女は吹き出し、肩をふるわせ、やがてはちゃんとした笑い声に転じた。
今まで仏頂面を貫いていたから、ゼンには年相応なはずのその表情が、かえって新鮮だった。
かつては日常的に顔を突き合わせていた習玄にとってさえ、彼女の笑いはレアらしい。キョトンとナツメ色の眼をしばたたかせる彼に、「ごめんごめん」と少女は指で浮かんだ涙を切った。
「なんかさ、そんなお兄が懐かしくて。なんか、ずっと隙が、っていうか余裕ない状態だったし」
「そう、ですか?」
「そうそう」
――ようやく取り戻せた、ってことか。
それは、今この瞬間の平穏だけではない。
氏家みのりもまた、心のよりどころとも言うべき、桂騎習玄との時間をふたたび手にできたのだ。
たとえ紆余曲折あっても、終わりよければすべて良し。
自然と部外者であるゼンの口端も、ゆるむというものだ。
「じゃ、軽くつくってくるよ。氏家さんのぶんも」
「お願いします」
と彼女は言った。
「お兄がふだん食べさせられてるものが、どんなレベルなのか知っときたいですし」
ややトゲを含ませて。
ひきつった笑みの裏に、ほとばしる敵意をひそませて。
「…………」
訂正。まだ修羅の時間はつづいている。
みのりが創り、色市ハジメが改変したあの狂気の世界。彼女が自力で打破したことによって精神と肉体を削り取るような地獄は終わったはずなのに、何故現実にもどってまでその延長戦が行われているのか。
そしてどうしてその労苦を被っているのがもっぱら自分なのか。
ゼンはため息をこぼしながらコートをエプロンに入れ替えて、重い足取りで調理場へと向かった。