(6)
「はい。それじゃ授業を始めますよ」
颯爽としたふるまいとともに青年教師が、いつわりの教室に入ってくる。
学校では一度も見たことのない顔が目の前に現れたとき、本来桂騎のクラスにはいない新田前が、立ち上がった。
「い、色市ハジメっ!?」
思わず腰をあげたその『女子生徒』に、ニヤと男は笑った。
「先生を呼び捨てとは感心しないな。……『ふだん』と違うことをすると、また巻き戻されるぞ?」
という訓諭が、彼が他の生徒のように役割を当てはめられた偽物ではなく、自分の存在をねじ込んだ本人だと教えてくれる。
習玄は表情こそ変えなかったが、ノートのページを握りつぶした。
「そうそう、良い子だ。お前たちは、おれと、彼女の作ったルールの中で延々とめぐってれば良いんだ。……みじめでちっぽけであわれな、野ネズミらしくな」
つまらないジョークを飛ばすと、クラスの皆がどっと笑い声をあげた。みのりでさえも忍び笑いを漏らした。
それを誇らしげに甘受して、手で彼女らを制止しながら、ハジメは上等なスーツのエリを正してキザったらしく言ったのだった。
「さぁ、あらためて授業をはじめようか。なに、時間はあるさ。……たっぷりとな」
□■□■
色市ハジメの公民の授業は、今まで聞いたどんな教師の、どんな教科のものよりも無益で、くだらない内容だった。
彼は雑誌や経済新聞を見れば一面に載っているような内容を、さもみずからの知識のように披露し、それを読めば誰もが感じるであろう当たり前の感想を、さも自分のすぐれた見解のように語る。
そのつど、
「やっぱり、先生はすごい!」
だとか、
「感動した!」
だとか、
「さすがハジメさん!」
などと生徒がヨイショする。
その偽りの賛辞を、
「いやぁ、それほどでもないさ!」
などと謙遜しながら彼は勝ち誇ったように受けるのだった。
「お兄ちゃん、私いつもどおりの場所で待ってるね!」
苦痛のような五十分弱が終わり昼休み。そう言い残してウキウキと退室するみのりを笑顔で見送る。
彼の頭の裏で、
「いつもの、というのは屋上のことだぞ」
とウサギがささやく。
「ったく、なんなんだアイツは!?」
と毒づく声に反応したのは、習玄と瑠衣だけだった。
じっと見つめる彼らに、「あ、いや」と冷静さを取り戻して言葉をにごし、
「みのりさんじゃなくて、あの自意識過剰男のこと。あんなヤツ、オレたちの武器さえあれば」
と悔しがるゼンにも独鈷杵がもどらず、習玄にもいつもの朱槍はない。
「気にするだけ、無駄だよ」
と習玄はゼンのセーラー服に手を置いた。
「カツラキ君の言ったとおりだ。そしてさっきわたしも言ったとおりだ。あの男はあまたいる人外の『長寿種』のなかでも最低クラスの生物だ。信じられないぐらい霊的才能が感じられない。せいぜい我々の武器を薄皮一枚の外壁に隠匿し、用意されたNPCをオナニーに使う程度しか能がない。ムリを押せなヤツ自身が消滅させられかねないから、仕掛けてくることはまずないと言っていい」
「……あれが介入してくれれば、逆に隙は大きかったでしょうがね。たしかに俺は、女がらみにはとことん消極的ですから」
「女みたいなヤツのフトモモは、平気で触るくせにな」
そう指摘されて、習玄の視線は無意識にその人物の、当該箇所へと注がれた。
いっさいの汚れのない、シーツみたいな真っ白で薄くてきれいな肌。そこから華奢な身体つきを上に向かって追っていけば、真っ赤に染まった首筋の上に、羞恥と嚇怒で紅潮した新田前の美少女フェイスがあった。
そして一言、つぶやいた。
「たしかに」
「たしかに、じゃないだろ自分のことだろ!」
ったく、と口をとがらせている最中にも、ゼンの怒りも羞恥も、顔からみるみるうちに消えていく。
熱しやすいかわりに状況次第で水に流してクールダウンできるのが、ゼンの愛すべき美点のひとつだと習玄は思った。
ただこの時は、気持ちが改まっても、ぼんやりと視線を虚空にさだめ、心ここにあらずといった感じだった。
「……新田くん?」
「あ、悪い。ただ、ちょっと考えごと」
「考えごと?」
この状況を打破するためなら、どんな些細な情報でも取り込んでおきたい。
そんな念から、習玄はふだんは聞き逃すべきところを、あえて踏み込んでみた。
「ほんと大したことじゃないって。オレ自身のこと」
習玄の思惑を汲み取ってか、ゼンは念押しするように改めて断りを入れた。
ただ彼の様子が、どことなく話したげで、というよりかは秘めていたものを吐き出したくて、といった感じの深刻さを帯びていた。
習玄はみのりの行った方角に向けていた足を、一度切り返してゼンへと向き直った。
「……たださ、思ったんだ。もしオレが本当に女だったら、いろいろ違ったのかな、てな感じでさ」
「……」
「大内のことも違ってて、あと冬花とも、ひょっとしたらもっと別の出会い方とか付き合い方があってさ。あんなことに、あいつがあんな目に遭わずに済んで。あと」
わずかに憂えと潤みを帯びた切れ長の目が、習玄の姿をとられていた。
自嘲とも苦笑ともつかない微笑みとともに、ゼンは言った。
「お前とも、また別の関係だったの、かな」
「……それはどうだろうな」
対する習玄は、伸びてくるような美しさを振り払うように首を振った。
「もし君が男性であれ女性であれ、俺が感じている友情に変わりはない。君の気高さと一本気は、十二分に尊敬に値するよ、新田くん」
新田前は、一瞬真顔になった。
眠るように目を伏せ、その睫毛はわずかに震えていた。
硬く結ばれた色形の良い唇からは、やがて笑みがふたたび咲きこぼれ、
「……そっか」
とだけ言った。
そのうつむいた顔がどことなく寂しげだったから、声をかけようとした刹那、はじかれたように彼の顔は持ち上がった。
「そうだよなっ、何言ってんだか、オレ」
まるで整いすぎたヘアスタイルをあえてかき乱すかのように、ゼンは乱暴に自分の前髪を梳いた。
だが、ごまかし半分につくっていたはにかみとその視線が、凍り付いて硬直する。
彼の目の先にいるのは習玄ではなかった。その背の向こう側にいた。彼の不在をいぶかしんで戻ってきた氏家みのりが、死んだ魚の目をしている。
振り返って彼女が腕を持ち上げるのを確認した後、習玄はあらためて正面の『女子高生』へと向き直った。
視界が途切れて再チャレンジに突入する前に見聞きしたもの、それは新田前のこわばった「やらかした」という茫然自失のつぶやきだった。