プロローグ
寝支度も整いさて寝ようかと思う頃、窓を閉め忘れた事に気づいた。季節は春。積み重ねられた温暖化の代償によって、ほぼ無くなり掛けている春の気候は暖かいと言えど、この時期は花粉が飛ぶ。
「さて、どうしたもんかな……」
廓に入って癖づいた廓詞だが、流石に一人の時にまで使うことは少ない。ついつい出てしまう時もあるが、大抵は現代の標準語を使っている。生まれ付いた時から遊女な訳ではないし、お客は全て外の人間だ。そのお客と会話しているのだから、勘違いされがちだが廓詞しか話せない訳はない。
「花粉もしんどいし、閉めようか……」
布団の前でしゃがんだ体勢のまま窓を恨めしく見据えていると、外が急に明るくなった。
おや?
雨はしとしとと降ったままなのに、外は雲が晴れたように明るさを取り戻した。早朝の淡い光がそっと窓から忍び込んでくる。
身体を起こして窓に寄れば、予想通り。
「狐の嫁入りか」
天泣、お天気雨、狐雨、言い方は様々あれど、内容は「晴れているのに雨が降る」と言う現象を指している。その不思議な現象が起こる理由は知っているが、雲と言う蛇口が無いのに水と言う雨の出てくるこの現象は、やはり「狐の嫁入り」と少し化かされたような気分にさせてくれる呼び方が好きだ。
珍しい狐の嫁入りだ、止むまでは窓を開けていよう。そう思って窓枠に肘をついて顎を乗せて眺めていた。狐の嫁入りと虹の発生する条件には共通点も多い為、どうせなら虹を見て寝ようと思ったのだ。
しとしとと雨が降る。
見える桜をほんの僅か巻き込んで、花弁の絨毯を地面に作り上げていく。
「いい朝だ」
微笑んでそう思わず零した時、外で何か物音がした。中庭だ。
「?」
ガサッ
何か物を引き摺るような音。今の時刻は午前7時、まだまだ商人が来る時間でも廓の活動時間でもない。この時間に誰かが活動していることは基本的に無いし、あったとしても廓をカフェとして開放する月1回の廓茶屋だけで、今日は当然その日ではない。
「寝不番が外でなんぞしとんのかえ?」
少し訛った標準語を口にするも、そうではないのだろうと確信めいたものを抱きながら部屋を出た。
寝不番、男一人が歩く音にしては軽すぎたし、靴の擦れる硬い音でもなかった。茂みに隠れたような音がしたから、もしかしたら動物かもしれない。
少し早足で中庭へと続く扉を開けた。