プロローグ
雨が降る
音もなく、はらはらと。
桃の花弁を巻き込んで、
汚れを少しずつ流していく。
嗚呼、世界は美しい――
「では、気を付けて帰っておくんなましよ」
気怠げに欄干に凭れてそう言葉を転がせば、男は簡単に顔を赤くする。その様子の男を何処か下卑たものを見るような気持ちで見送り、やっと部屋へと戻る。
「もう兎は飛びぃしたか?」
部屋へ戻って妹分にそう問えば、そちらも仕事上がりなのだろう、気怠げに頷いた。
「大門はもう開きぃしたよ。
全く、手数な客でありんした。
わざわざ大門まで送らにゃもう来んせんと仰りぃすから、行って来たでありんす。
丁度そん時ゃ大門も朝の音立てて開くところでありんした」
それは大層面倒だったことだろう。小雨とは言え雨の降る中女を外まで送らせるとは、あまり気の利かない客のようだ。
お客の帰る朝6時頃、吉原の町へと入る大門は重い軋みを立てながら開く。昔に使われていた時間の単位で「卯」と呼ばれるその時を、吉原で働く女達の間では「兎が飛ぶ」と表現したりする。
近代化の進んだ現代に取り残されたかのような空間の街、それが吉原だ。関西の島原、関東の吉原を一緒くたにした歪な街は、現代の歪みを凝縮したかのような小箱だ。
今日は先程からしとしとと優しく雨が降っている。折角の八分咲きの桜が、満開を迎える前に散ってしまうのではないかとも思ったが、この勢いの雨ならばあまり散ることもないだろう。
「そりゃあ災難でありんすね。よく来るお客人でありんしょう?」
その時世話役の禿が入ってきて、妹分を通り過ぎ私の着物を脱がせ始めた。昨晩は床入りする事もなく夜が明けたので、重い着物を纏ったままだ。
スルスルと突っかかることなく順調に脱がせていく禿を見て、上手くなったものだと少し微笑む。
「あい、そうざんす。
もう来られんでもようござんす」
辟易したようにそう零す妹分に苦笑して、ようやく帯を解き終わった禿に礼を言う。
「ありがとうさんでありんす。
そう申すもんではおざんせん、お客人の付きんせん女もいっぱいおざりいす」
目一杯微笑む禿が微笑ましく、後で菓子でもあげようと思い付くが、今は邪魔しないようにじっとその小さな姿を見下ろす。
不満げな妹分はそれでも素直に謝って、自分の着物を脱がせる為に禿を伴って私の部屋を後にした。その時禿にバウムクーヘンを手渡すと満面の笑みを浮かべていた。
うん、良い朝だ。