雪を見に空を飛ぶ
ジャンル:ファンタジー・ほのぼの
今日もぼくは泥のように眠っていた。
昼か夜かも分からないけれど、外はきっといい天気。澄みきった水が溢れるように、おだやかな時間が流れているのだろう。淀んだ泥とは大違いだ。
まどろみが次第にうすれ、ぼくは覚醒した。ひさびさの目覚め。寝床からひょっこりと顔を出してみる。夢の外の世界は真っ暗だ。深夜なのかもしれない。もう一度眠ろうかと思ったけれど、なんとなくその気にはなれなかった。
それじゃあ今日は何をしよう? お腹も空いていることだし、誰かを誘って食事に行こうか?
でも最近、誰とも会話をしていない。きっとぼくのことなんか皆は忘れてしまっただろう。それくらいぼくは眠っていた。一人で夢に引き籠っていたのだ。
口をあけるとしょっぱい水が飛び込んでくる。別に泣いているわけじゃないんだけどね。塩水とため息を無理矢理飲みこんで寝床から出る。
身体を伸ばし、睡魔の名残である泥を払うと、ようやく頭がスッキリしてきた。
そして思い出す。ぼくは何をしたかったのか。ぼくはなぜ眠っていたのか。
ぼくは雪が見たかった。とおいとおい記憶の中に見た景色。どんな夢よりも幻想的なあの世界に行きたかったのだ。ただ、少々虚弱体質のぼくは力を蓄える必要があった。だから眠っていたのだ。あぁやっと全部思い出した。よかったよかった。
さぁ善は急げだ。
雪を見ながら食事をしよう。誘う相手がいないのは残念だけれど、いつかのデートの下見だと思えば問題ない。……あぁ、しょっぱい。くどい様だけど泣いてなんかいないよ。
ぼくは地を蹴るように空に向かって飛ぶ。飛ぶのは久々だったけれど、身体は飛び方を覚えていたようだ。力を蓄えたぼくなら高く高く飛んでいけるだろう。雪の舞う空の彼方まで――。
空に向かって飛びながら色々なことを考えた。眠っている間に見たたくさんの夢のこと。友達のこと。敵のこと。とくに敵のことを考えた。ぼくの餌になる生き物がいるように、ぼくを餌にする生き物だっているはずだ。あんなに無防備に眠っていたけれどよく考えれば危なかったと思う。今度からは気をつけて眠らないと。
それにこうやって飛んでいる間だって、どこから敵が襲ってくるのかわからない。あまり目のよくない僕は、敵の口に向かって飛んでいたって気付かないかもしれないのだ。
そんなことを考えていると、だんだん気が滅入ってくる。これなら安全な場所でこんこんと眠り続けていた方がいいんじゃないか?
しだいに明るくなる空を飛びながら、そんなことを考えはじめていた。
高度が上がるにつれ息も苦しくなってくる。内臓が飛び出しそうになるのを口を閉じることで押さえこむ。少し速度を落とそう。
そもそも、どうしてぼくは雪が見たいんだっけ?
最も根本的な疑問が浮かんだ。こんな危険を冒してまで飛ぶ必要性はあるのだろうか。あの夢のような美しい景色の記憶。あれは本当に夢の中のことだったのでは?なんだかそんなような気もしてきた。それぐらいたくさんの時間を眠ることに費やしていたのだ。夢の記憶だったとしてもおかしくはない。
もしかしたら今も夢の中なのかもしれない。この苦しさも実は空を飛んでいるせいではなく、寝込みを襲われているからだとしたら……いや、考えるのをよそう。夢でもなんでもいい。ぼくは雪が見たい。それだけでいいじゃないか。
どれくらい飛んだだろう。もう200mは飛んだのではないだろうか。
ふわり。
視界の端を何かが横切った。
ひらり。
ぼくの求めていたものだ。見間違いなんかじゃない。
雪だ。雪が降っている。
ぼくは飛ぶのをやめ、その場にたたずむ。気付けばぼくはすっかり雪に囲まれていた。上を見ても下を見ても雪。僕の寝床よりも遥かにあたたかくまぶしいその場所は、ぼくを優しく包んでくれる。
小さく口をあけた。雪が飛び込んでくる。久々の食事はどこか懐かしい味がした。
それは淡く儚い命の味。
しんしんと降る雪にはたくさんの命が宿っていた。
その雪景色の果てに、顔も知らない母の後ろ姿をみつけた。ぼくは本能でここまで来たのだとようやく気付く。なんて心地よいのだろう。
ここにはぼくの故郷があった。遥か昔、遠い祖先がここに住んでいた。この味が、この喜びが、この懐かしさがその証。やっとここに帰ってきた。それがたまらなく嬉しい。ぼくは全てのことに感謝をしながら食事をした。こんなにもあたたかな食事ははじめてだ。
しばらくぼくは雪の舞い散る中にいた。
ぼくの目には見えないけれど、たくさんの命が雪の中にいる。こんなに静かで賑やかなのはなんとも不思議で面白い。ずっとここにいたい。本当に心の底からそう思った。
けれどもういかなければ。ぼくはここに長く留まることができる体ではないのだから。
ぼくは雪と同じ速度でゆっくり降りた。少しでも長く雪を見て、この目に焼き付けたかったのだ。目も頭も悪いぼくでもちゃんと覚えていたくて……。それでも現実は残酷で、降りれば降りるほど辺りが暗くなってきた。雪もまた闇に溶けていく。
味も変わっている。やはりあの味は光が関係していのだろう。光合成をする植物プランクトンとその死がい。それが絶妙なバランスで混ざり合い雪が降る。
ずっとあそこにいたいけれど、ぼくの退化した目には眩しすぎた。
またいつか、ぼくの夢が醒めるころに。
元いた場所に帰ってきたぼくは泥のように眠りはじめる。目に見えないけれど降り続く雪は、やがてぼくを泥の中に隠すだろう。それなら敵も見つけられないはずだ。安心すると意識がだんだんにとけていく。ぼくはまた夢の世界を旅する。
ここは深海。水深400mの漆黒の世界。ぼくはここで眠り続ける。
いつかまた、マリンスノーで食事をしよう。
おやすみなさい。
人類はまだ、彼のことを知らない。