孤独の旅路 ~副題・独身男の独り温泉地ぶらり旅~
異国風の皮を被ったただの温泉旅行記。自分の実体験を基にしたお話です。
※自分が文芸部で製作した小説の公開になります
ガタガタと若干整備されていない道に揺られ、私を乗せた馬車はひたすら進んでゆく。
外から見える風景は、青々とした木々に覆われた山、そして綺麗な川や渓谷、所々広がるなだらかな平地が、私の目を楽しませる。この暇とも退屈とも似た感情を何となく適当に受け止めつつ、私は幾人かの乗客たちと一緒に馬車に揺られている。
……私はキース・パワード。しがない商人である。
何故私が馬車に揺られているかと言うならば、何の変哲もない単なる旅行である。何かしらのイベントやハプニングを期待するというものは間違いにも程があると、予め念を押しておく。
商人という職業は日々大変な仕事だ。否、仕事という者に楽なものなど存在しないのは分かっているが、個人で開く商店の店主というのは、実に辛いものがある。何せ全くのノウハウも人脈も存在しない、ゼロからのスタートなのだ。人脈や流通ルートの開拓に卸業者への営業活動に商売方法エトセトラ、やる事は万とあるのだからその苦労は並の職の比ではないと、常々私は心から感じ、そんな仕事に追われる毎日に対して私は深くため息を付いた。
……思えば、それなりに商売を軌道に乗せ常連の客を得た。人脈や流通ルートも大企業ほどではないがそれなりに得た。ここまで来るのに軽く見積もって十数年は掛かった気がする。
……だから今日くらいは仕事も忘れて休んで放り出し、ぶらっと旅に出たって許される……筈だ。仕事机に書類やらが幾つがあったが、まぁアレは納期にまだ時間はある。旅行が終わってから取り組んでも十分に間に合うだろう。
……おっと、いかんいかん。仕事を忘れる為に旅行に出たというのに旅行中でも仕事に没頭するとは何事だ。それは旅行に対して失礼という者だろう。ウン。
「お、もうすぐか」
ぼーっとしている間に馬車は目的地に着いたようだ。有名場所ではないが小さくもない、風向明部な温泉街ヴェスブルグ。ここが俺の今回の目的地だった旅行先だ。
「スゥー……、ハァーッ……」
街全体に漂う綺麗な空気とうっすら漂う硫黄の香りが、俺の鼻を刺激する。
「うーん、このきれいな空気に鼻を突く刺激臭の臭い。こういうのを嗅ぐと『温泉地に来た』って感じがするね」
さて、温泉地に来たのだ。事前に予約していた宿で一休みした後は、温泉巡りや食べ歩きを楽しまなければ損というものだ。
◆ ◆ ◆
旅館から宛がわれた専用の和室に入った私は、すぐさま衣服を脱ぎ、クローゼット内に用意されていた浴衣に着替える。藍色の帯に、藍色の文字で「ゔぇすぶるぐ」という文字が無数に刺繍された白の浴衣を纏う。革靴と靴下を脱ぎ、素足の上から木製の落ち着いたデザインの草履へと履き直し、私は自分用の小綺麗な和室を出た。分厚い防寒用の羽織もあったが、今はまだ昼で気温もそれなりに高いので、今は着用する必要性は皆無だ。
「お出かけですか?」
ロビーに出ると、旅館のカウンター前に居た係の女性が声をかけてきた。
「ええ、ちょっとここの観光などを」
「ではヴェスブルグの街を、ごゆっくりお楽しみ下さいませ」
丁寧なお辞儀と挨拶だ。
「何かいい名所はありますかね?」
「名所、ですか。やはり少し先にある、天然の共同温泉や商店街でしょうか。ここは温泉街ですから」
「そうですか。教えて下さりありがとうございます」
ありきたりの答えではあったが、少しでも情報を頂けるのは有難い。こちらも丁寧に礼を返し入口から外出する。当初から変わりはしなかったが、温泉巡りというのは楽しみだった事だ。前から計画していた事を取り組むのは、心が自然とうきうきするものだ。
◆ ◆ ◆
「はぁ~。実に、生き返る……」
熱い湯気と蒸気が木製の大浴場内を満たしている。
浴場に備えつけられた獅子の口からは、絶えず熱い湯が注がれ続けている。サウナ程の熱さはないが、それでもこの熱さは実に心地よい。湯の熱い湯の熱が全身に沁み渡り、全身の血肉に伝わってゆく。程よい硫黄の香りが鼻を刺激し手足の末端がじわっと痺れ、筋肉や神経が解れるような心地よい熱。堪らない、これこそが温泉の醍醐味そのものだ。この心地良さは街中の銭湯では到底味わえない快楽だろう。
「おっ、其処の若い兄ちゃん。いい風呂の入りっぷりやないか」
ふと隣の老人が穏やかな笑みでこちらを眺めて話しかける。老人の気持ちよさそうな心地よい笑みに、こちらも自然と笑みがこぼれる。
「兄ちゃん、今日は旅行かいな?」
「ええ、まあ。仕事休みの息抜きというやつで」
「若いの~。そういう事は若い者の特権やな」
老人がやや羨ましげにに笑う。
「ははは、それに自分はそれほど若くはありませんよ」
「なんのなんの、儂から見れば兄ちゃんは十分若い内やで」
熱い風呂でのしばしの雑談に没頭するも、次第に頭と身体が予想以上に熱を帯びてきた。ああ、熱い。実に熱くて湯船の中だというのに頭から滝のように汗が噴き出す。
「熱そうやなぁ兄ちゃん」
そう呵呵と笑いながら、老人は熱など感じないかのように気持ちよさそうに湯船に浸かる。
……この湯の熱にも耐えうるとは、流石は長い時を生き抜いた老人というべきか! 長い年月とはこうも優れた我慢強さを与えるとは、日本の老人とは実に興味深い!
すると私自身が変な眼で見過ぎたのか、老人が一瞬怪訝な顔をするも、すぐに破顔しクスリと笑う。
「……ははぁ、さては兄ちゃんのぼせたか?」
「……見抜かれましたか」
「はっはは、そんな真っ赤な顔で見るから何かと思ったがすぐに合点がいったわ」
そう言って不敵に笑うと、老人は湯船に付けた四肢を動かした。
「そういう時はな、こう手の指先を湯から出して脚を大きく拡げるんや。ほれ、やってみ」
そう老人に言われた事をやってみる。
……おお、身体から一気に熱が抜ける!
これはいい! 実に快適だ!
「兄ちゃん、まだイケるか?」
老人が挑発的な笑みと視線を向ける。そんな視線を向けられてしまうと、私も年甲斐もなく若々しさと自身が心に溢れてくるではないか。
「……負けませんよ?」
「ハァーハッハッハッハ! そうじゃ、若者はそうこなくちゃのう!」
元気よく盛大に笑う老人に釣られて、自分も笑ってしまった。さあ、名もなき老人よ。我慢比べと行こうじゃないか。この背中、年老いた老人に譲るほど軟弱でも老人想いでもないぞ……!
「や、やりすぎた……。……うっ」
結論を言おう。私と老人はのぼせてしまった。頭がふらふらとし、足が若干おぼつかない。
「そ、そうやな……。ハッスルしすぎたのう」
私の発言に釣られるかのように、真っ赤な顔の老人が苦笑いを零す。今我々は風呂の外のロビーの大椅子にぐったりと座り、横に備え付けられた送風機に当たっている。
ああ、頭がちかちかする。分相応の若さに溺れてしまった末路とでもいうのか。身体から力が抜けぐったりとする。
……そんな時だ。
「お二人とも、大変ですねぇ」
そう声を掛けてきたのは、ふっくらとした中年の女性だ。その体系からは、横の老人とはまた違った年季を感じさせる。
「はい、どうぞ。サービスですよ」
そう言って私達二人に手渡してきたのは、ガラスの牛乳瓶だ。
瓶を手に持った瞬間、ひんやりとした冷たさが私の手を刺激する。キンと肌に突き刺すような強烈な冷たさ。よく冷えている。
……ああ、今ののぼせた身体に、この牛乳の冷たさは反則的な心地よさ、最早麻薬に等しいに違いない。おばさん、ありがとう。今の貴女は天上の女神に等しい神々しさを放っているに違いない。堪らず衝動的に牛乳瓶の蓋を開け、一気に中身の牛乳を飲み干す。
「……っく」
脳天に突き刺すような冷たい刺激が、全身を走ると同時に牛乳の甘みと冷たさが全身に、そして臓腑という臓腑や血管、神経に染み渡る。
ああ、これだ。この冷たさだ。この風呂上りの甘味とじわりとした冷たさが無くて何が温泉か。これこそが真の至福であり極楽の具現だ。ああ、この快楽が永遠に続くなら、死んだって構わないだろう。口角が吊り上るのが止まらない。横をちらりと見れば、先程の老人も極度のリラックス状態のようだ。きっと、今の私と同じ気持ちなのだろう。
……ああ、素晴らしい。
「温泉はええのう、兄ちゃん」
「ええ、そうですね。このような気分が味わえるんです。この世の極楽とはまさにこの事だ」
急な老人の言葉に、私は即座に同意した。温泉は素晴らしい。これは偽りなき私の本心。頬が緩むのが止められない。
「これからどうするんだい?」
「まぁ、そこら辺の商店をぶらりと回ります。温泉上がりに何か食べようかと」
そういうと老人はしばし考えて、口を開いた。
「ここら辺だと、少し先の温泉チャーシューがオススメやな。あの柔らかさが溜まらん」
温泉チャーシュー、そういうのもあるのか!
未知の食材に心が躍る。やはり地元の人間というのはよく通な事を知っている。
「ご老人、ありがとうございます。ちょっと食べに行ってみますよ」
「温泉、楽しんでくるんやで」
「ええ、言われずとも楽しませていただきます」
そう返事をした後、笑いを返した後席を立つ。牛乳のお蔭か熱も取れた。清々しい気分とはこの事だろう。受付のおばさん、そして牛乳よ、ありがとう。
足を弾ませ浴場を出る。吹く風の心地よさを味わえるのも温泉の魅力の一つだ。
……ああ、本当に気持ちよかった。早くチャーシューを食べに行こう。未知の美味が、新たなる景色が私を待っている。
大浴場を出た私の目の前には、あちこちから見える白い湯気と、多くの浴衣を纏った人々の群れが広がっていた。
完
気が向いたら続きを書くかもしれない(希望論)。
ご覧いただきありがとうございました。