フロイントシャフト・シュバーン――不可解な手紙
戦争が私にもたらした傷は深かった。いや、今思い返してみれば、それは私が私自身にもたらした惨禍であったのだろう。
戦後、世間は私のような人殺しを受け入れることはなかった。だから私はそうした人々に散々に虐げられた。しかしそれすら、私の中にあった自らの生きかたを肯定できないという心でもあったのだろう。
そんな私に僅かばかりの光を与えてくれたのが、いまの女房だ。
私は彼女に対して償うことのできない罪悪感を抱えていた。それゆえ惹かれてゆく感情とは裏腹に、彼女に近づくことを恐れた。彼女もまたそうであった。
しかし私たちは会って語り合う時間を重ねゆくなかで、恐れというものに折り合いをつけ、共に暮らすことを選んだのだ。だからといって、お互いの暮らしの中から罪悪感を消し去ることなど到底できなかった。
それはいつも私たちの間に横たわり、音もなく呻いたり軋んだりし続けた。声なき苦悶は私たちをやつれさせ、疲れさせ、苦しませた。女房の顔に刻まれた深い陰鬱な皺、そして私の顔に刻まれた怒りや憤怒といったものが、何よりも明確に夫婦生活の破たんを物語っていた。
何よりも、私が厭だったのは、女房が慎ましいほど信心深かったことだ。彼女は日々みすぼらしい祭壇に跪き祈りを捧げた。何か大きな悩みにぶつかると彼女は、ただひたぶるに祈っていた。
青春という貴重な数ページを戦うことだけに費やした私からすれば、それは何の意味もないことに感じられた。女房のそうした背中を見つけると、私は抑えきれない怒りに襲われ、祭壇を蹴り飛ばした。みすぼらしい祭壇はなおさらみすぼらしくなった。
そうしたことは何度も繰り返されたが、ふと気がつくと、祭壇はキチンと整えられ、いつも供物が捧げられていた。
終いには、怒ることさえ馬鹿らしくなり、いつからか彼女の背中を見ても、何かを感じることすら無くなっていったのだ。
冷え切った暮らしの中に、もし希望を求めるとしたら、それは子供という存在だったのだろう。だから私たちも、それなりに体を重ねあい、偽りに似た愛を確かめあった日々もあった。だが希望が芽生ることはえなかったのだ。
女房に対してさえそうだったから、私はかつて共に戦った男たちとの糸をたぐるようなこともしなかった。
そんな生活が、三十年以上も続いたある日のことだった。
「あなた、ハインツさんて方、御存知? お手紙が来ていましたよ」
「ん? ハインツ? そんな名前の男はドイツにはいくらでもいるだろう。どうせ何かの勧誘かなにかだろう」
「ええ、私もそう思ったのですが、随分と分厚いお手紙だったので、一応あなたに、お話しておこうと思ったんですよ」
妻はそういうと、食卓から立ち上がり、一通の手紙を私の手元に置いた。
「ハインツ・フロイントシャフト・シュバーン。なんだこの名前は……。これは偽名だろう」
「私もおかしな名前だとは思ったんですよ。名字としてはありえないんじゃないかと……」
私はその手紙への興味をすぐに失って、そのままテーブルに戻した。
「まあいい。食事が先だ。さめてしまっては味気がなくなるからな」
「そうですね。でも、気が向いたら読んでみてはいかがですか?」
妻は私の表情を伺いながら小さな声でそう言った。私は何も言わず、手を動かしはじめた。
それっきり妻との会話はなかった。ナイフとフォークと食器が立てる、ガチャガチャという音だけがダイニングに響いた。
「珈琲は居間で飲む、悪いが運んでくれ」
私はそれだけ言うと、新聞と妻が渡した手紙を掴みテーブルを立った。いたたまれなかったのだ。
居間は私にとっては、この家で最も居心地の良い場所だった。あの忌々しい祭壇さえなければの話だったが。
それでも私はそこが好きだった。無駄に広かったとはいえ、その広さに心が安らいだのだ。狭苦しい操縦席で味わった閉塞感がまだ体のどこかに沁みついていたのかもしれない。
私が腰かけた椅子とテーブルの横には小さなキャビネットがあり、その上にはスタンドに納められた写真が幾枚か立ててあった。それは妻の祭壇へのささやかな抵抗でもあったのだ。
新聞を読み終えた頃、妻が珈琲を乗せたお盆を抱えてやってきた。
「ああ、ありがとう」
「いいえ」
私は珈琲を受け取ると、空になったお盆に新聞を乗せた。妻は何もいわず静かにキッチンへと戻っていった。
窮屈だった。なぜあいつはこうも俺に従順なのだ。湧きあがる怒りを抑えようと、私は大きく溜息をついて、嫌な気持ちを振り払うように、乱暴に手紙の封を切った。
親愛なるエーベルハルト様
なんて書き出しをするものなんだから、形式はなしでいくぜ。
俺だ、ハインツだ。憶えているか? 憶えていないとは言わせないぜ。
俺がメッサーの計器盤に挟まれた時、真っ先に飛んできたのはお前だった。
そのお前が俺を忘れたなんて言わせないぜ。
そんなことより、随分と苦労したんだ。お前を探し出すのにな。
何度か病院に見舞いに来てくれたのに、いきなり来なくなったときは死ぬほど心配したんだぜ。
もっとも、お前が死ぬたまだなんて、思っちゃいなかったがな。
だが、風の便りでお前が生き残ったと知るまでには、十年もかかった。
俺だって苦労した。自分のことだけで精一杯だったんだ。
でもな、ある日、何かが足りないって思ったんだ。お前なら何となくわかる。
俺はそんな風に考えた。で、必死になってお前の居所を探して手紙を書いたってことだ。
まあこれにもたっぷり時間はかかった。他にも色々とやることがあったからな。
話は飛ぶが、お前、もう一度メッサーで飛んでみたいと思わないか?
俺は思ったんだ。馬鹿な男だと思うだろうが、俺は本気だ。
だけど、俺の足はご存知の通りのありさまさ。
今、俺の周りには飛べる連中が幾人かはいる。
だけど俺は考えたんだ。俺の夢を叶えるのは、俺とあの時代を知る男じゃなきゃ駄目だってな。
それで俺はお前に白羽の矢を立てたってわけさ。
俺は十五年かけて飛べるメッサーを手に入れた。
お前にその気があれば、奴はいつだって舞い上がれる。
どうだ? やるか?
返事は焦らなくてもいい。お前が色々と抱えて生きてきたであろうことは、俺にも解るつもりだ。
だけど、期待して待つ。
俺はお前を信じるぜ。
忘れじの友、エーベルハルトへ
ハインツ・フリートヘルム・ジークベルト
追伸 封筒の名前はちょっとした冗談だ。
だけど、そこには俺の気持ちが込められている。
笑うなよ。エーベルハルト。
束になったその他の手紙は、ハインツが経営するファクトリーについての詳しい説明や、メッサーのフライトマニュアル、そして私が鳥になるために必要な書類の申請書などだった。
私は唖然としながら、キャビネットの上にあった色褪せた写真を手に取った。
そこには、田園風景の向こうに霞むブロッケン山があった。




