ロトキィエッシェン
私が薄暗い整備ハンガーで、ペンキや刷毛と格闘していた時、オトマールが声をかけてきた。
「大尉。こちらは済みました」
「そうか早いな。こっちはこの有様だ。ちっともはかどらん」
作業着の袖で額に垂れてくる汗を拭った私を見て、オトマールはクスリと笑った。
「大尉。顔にペンキが」
「はは、そうか。俺は昔からこういうのが苦手でな……」
「手伝いますよ。刷毛を貸してください」
そういうとオトマールは、私の持つペンキで汚れた刷毛を避けるような手つきで指差した後、手袋をしはじめた。
オトマールの手際は見事だった。子供の頃から父親の後を追い、部屋の壁や柱、庭にあるベンチなどを修理したり塗り直したりすることを手伝ったとは聞かされていたが、私は彼の見事な筆さばきに少々圧倒された。
「空軍に志願して、まさかこんなことが役に立つとは思いませんでしたよ」
オトマールは腕を動かしながら言った。
「たいしたもんだ。俺など、絵ひとつ描けない」
「そのようですね。この機首にある鳥は一体なんですか? カラスですか?」
「ふん。そう見えるか?」
「だとしたら不吉ですね」
そういうとオトマールは小筆をとり、サラサラと流れるように筆を動かしはじめた。
出来上がった鳥は見事だった。鶯色の両の翼を軽く開きながら尾を立て、橙色の顔にある眼光は鋭く、黒い嘴を大きく開いて全身で囀る1羽の鳥の姿がそこにあった。
「ロトキィエッシェン(ヨーロッパコマドリ)です。それにしては、すこし大き過ぎますがね」
そういって立ち上がったオトマールは満面の笑みをたたえていた。
こうして二機のG10は完全な夜間迷彩を纏った。
国籍標識とレターコード以外を塗りつぶした、デュンケルグリュン一色の機体は不気味ではあったが、機首に描かれたロトキィエッシェンの絵が、その不気味さをすべて吹き飛ばしているように見えた。
そしてその日から、 私たちはロトキィエッシェン・アイン、ツヴァイというコードネームで空を駆けたのだ。
その夜から、過酷な戦闘が始まった。
日暮れとともに待機ピストに入り、敵機情報が入電されしだい、私たちは飛び立った。
フルスロットルで漆黒の空を、高度六千メートルまで駆けあがりながら、ベルリンへと向かう。時間にして僅か五分のことだった。だから敵機を逃すことはなかった。
幸運なことに二機のG10はスーパーチャージャー付の最新型のDB605DCという心臓を持つ、最速のG型だった。そのうえ、プロペラ軸内に装備されたモーターカノンは三十ミリ砲であったから、巨大な爆撃機に対しても有効な爪を持っていたのだ。小型の戦闘機であれば、数発当たれば致命傷を与えるうる鉤爪だ。
ベルリン上空に到着すると、燃える街の災と、サーチライトに照らされた連合軍爆撃機の黒々とした腹がハッキリと見て取れた。
「オトマール、右上にいる。ゆくぞ!」
私は陽炎にゆらめく爆撃機の黒い腹を下から突き上げるようにして突進した。
影が照準環からはみ出るまで近づき、機首の十三ミリ機銃二丁と、三十ミリモータカノンの引き金を同時に引く。青白い曳光弾の筋が敵機に吸い込まれてゆく。
「大尉。左になにかいます」
「了解」
私はすぐさま引き金から手を離し、スナップロールしながら急降下へと移った。オトマールがあとに続いた。
敵機の行く末を見届ける暇などない攻撃を何度も繰り返す。
「左下戦闘機らしきもの。機数わかるか?」
「四機、いえ八機います」
「よし、一番左のをやる。続けー!」
今度は二丁の機銃の引き金だけを引く。
とどめを刺せたとは思えなかったが、すぐさま左にバンクを切り、今来た方向へとひるがえす。
今度はオトマールも銃撃したようだ。少し遅れて私を追ってくるG10の機首にロトキィエッシェンのマークが見えた。
深追いせず、高度を失うことをためらわず、降下で速度を稼ぐ。
「左上、爆撃機、います!」
オトマールの冷静な声が聞こえた。
「そいつはやりすごす。距離も速度も足りないようだ」
「はい、大尉」
果てしなく続くように思える、狂ったような機動と銃撃。しかし、それには終わりが用意されていた。弾切れというやつだ。
私は引き金に何の反応も示さなくなった銃撃を終えると、即座に帰投のコースを取った。あの森と湖の基地まで、十分あれば済む。
その夜は、こうした戦いが四度繰り返された。四度目の着陸を済ませた私たちは、ただただ泥のように眠った。
私とオトマールの顔や体に、疲れがしのびよるのに、そう時間はかからなかったのだ。