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夜間飛行――ノルトハウゼンからヴェルナーへ

 それからしばらく、俺たちに出撃の機会は訪れなかった。

 昼は飛行場周辺を飛び、オトマールを鍛えたが、次第にそれすら許されなくなってきた。

 燃料が逼迫していたのだ。何もかもが足りない。無い無いずくしだったのだ。

 オトマールの上達振りは思ったよりずっと早かった。だが、そうした日々が心を通い合わせ、別れを辛くさせることを知っていた私は、相変わらず非情な男を貫き通していた。

 基地のどこかしこにも灰色の厚い雲が漂い、どの顔にも疲れが見え、心の底にはあきらめが居座りはじめていた。

 夜ごとにドイツの空は赤々と燃えていた。昨夜は東、今夜は西といったありさまに。

 誰もかれもが薄々感じとっていたことだろう、敗北の日が来ることを。

 私は、私の心にも居座ろうとする敗北主義を必死に振り払おうとした。私の仕事は飛ぶことであり、生きることだ。どんな状況であろうと、私は私の仕事をする。それだけしか見まいとした。

 そんなある日、私は基地指令に呼び出された。


「君も知ってのとおり、もうこの基地の存在価値はない。上層部は腹を決めたようだ」

「そうですか」

 私は制帽を小脇に抱えたまま不動の姿勢で答えた。

「君の部隊がすでに機能していないことは報告を受けている。だが、最後の奉公をして欲しい。夜間飛行できる部下はいるか?」

「いえ。私以外は無理でしょう。いるとすれば、私の小隊にいる一人くらいのものです」

 私は司令の心にどっかりと腰を据えた敗北感を見抜き、オトマールを基地に残してゆくことを憂いてそういったのだ。

「そうか。ならばその男を連れて、ベルリン南部のここへ向かえ」

 司令はデスクの上に広げた軍用地図を指揮棒でさしながらいった。

「出発はいつですか?」

「明朝、四時。日が昇る前に発て。お前の部下にも、一度ぐらいは夜間飛行の訓練も必要だろうからな」

「残る連中はどうなるんですか?」

「それを知る権利はお前にはない。だが心配するな。もうドイツのどこにも逃げ場はないからな」

 私はそれ以上いらぬ詮索をすることを止めた。ただ黙して仕事をすることに決めたのだ。

 いや、それ以上にこの加湿された部屋にいる気持ちになれなかったのだ。とても不愉快で湿っぽい空気が嫌だったのだ。

 危険を承知でオトマールを連れて行く決断をしたことは、間違っていない。そう確信もしたのだ。

「なにか質問はあるか?」

「いいえ。ありません」

「ならば頼んだぞ。以上だ」

「ハッ!」

 私は勢いよく踵を鳴らして敬礼し、その部屋を辞した。


 問題は山積していた。だが時間は少なく、時計の針は午後六時を既にまわっていた。そして仕事は抱えきれないほどあったのだ。

 私はまず、補給課や整備課の連中にツケていた、ポーカーの賭けの支払いからはじめた。そのことで、私は勝ったという記憶がないくらい負けがこんでいたことに唖然とさせられはしたが、妙に納得でがきた。そう、私は賭けで幸運を使わなかったということであり、それが生き残ってきたひとつの要因だと、ふと気づいたのだ。

 たんまりと金を受け取った連中は、いくらでも無理な注文を受け入れてくれた。

 必要な補給品、補充品、食糧被服、私はそうしたもの、そしてこの基地で最良の状態のG10、二機を確保したのだ。あれほど感じた無い無いずくしが嘘のように感じられさえしたものだ。

 司令や基地の連中のそうした奉仕を受けて、私は自分の考えが適切だったと確信した。恐らく、この基地もこれから向かう基地も長持ちはすまい。であれば、必要なものは出来るだけ確保しておくにこしたことはない。そうしておけば、後悔も残らないだろう。そう考えたのだ。

 時計の短針が午後十時を回った頃、出撃に関する機械的な準備を済ませた私は、ようやく人心地をつけた。

 空腹感は感じていなかったが、なにか人間らしいことがしたかった私は、自室に戻り珈琲をたて、ライ麦パンに 挟まれたハムとレタスに、たっぷりとマスタードが塗られたサンドイッチを齧った。

 燈火管制下にある部屋はやたらと暗かった。使い古されたガスランプの炎がゆらゆらと揺れ、私が動くたびに、細長い影も揺れていた。

 その時、誰かが扉をノックする音が聞こえた。


「誰か?」

「オトマール上等兵です」

「形式はいらん。入れ」

 ドアが軋み鳴いて開き、オトマールの遠慮がちに覗く、緊張した顔が見えた。

「かまわん。いいから入れ。入ってこい」

 そう言って、私は事務用デスクから立ち上がった。

「はい。失礼します」

 意を決したようにオトマールは素直に、私の言葉に従った。

「わあ、凄い部屋ですね!」

「ああ、お前は兵舎暮らしだったな。士官室は初めてか?」

「はい、初めてです。ならば、良く見ておけ。いずれお前もこういう部屋の住人になるんだからな」

「はあ……」

 私の心は暗かった。自分が発する言葉と、自分の心に湧きあがる感情。そのあまりにも異質なものを抱え、話さなければならなかったのだから。

 オトマールのために、場所を開けた私は固いベッドに座り、ランプに照らされた少年の顔をまんじりと眺めながら続けた。

「明朝4時、出撃が決まった」

「え? 私はまだ夜間飛行の経験はありませんが」

「ああ、それは知っている。だが、やらねばならん。まあ気を楽に持て。ただの基地移動だ。それにお前の大好きな着陸は明け方過ぎになるだろうしな」

「はい、大尉」

 オトマールはふわりとした笑顔を見せた。

「ああ、すまん。もう少し早めに伝えるべきだったな。お前にも荷造りする時間が必要だったな」

「いいえ、大尉。大丈夫です。たいした荷物はありませんから」

「さて、俺の方の用事は済んだぞ。で、お前の要件は?」

「あ、特に用事はないんです。ただ今日はあまり大尉を見かけなかったので、少し心配になったもので」

 私は、オトマールが最後まで言葉をいう前に、思わず豪快に笑った。

「はは、ははは……、俺がお前に心配されるとはな。こいつはまいった」

 私は腹の底から笑い続けた。

「大尉、大尉、いい加減にしてください。怒りますよ!」

 だが、そういいながら、オトマールも釣られて笑い出していた。

「すまん、すまん、しかし可笑しい……」


 笑いはいい。どんな時でも人間を素直にする。

 俺たちはそれからしばらく、地上に翼を休めた鳥になり、色とりどりのさえずりを交わし合った。

 オトマールのすっかり溶けた緊張を、私はさえずりの中に見たのだ。


 午前四時、私とオトマールはまだ闇が支配する空へと飛び立った。

 暗闇はなんの道標も示さなかったが、鳥たちは自らの翼に明りを灯して飛び続けた。右の翼に青い星、左の翼に赤い星を散らし、尾には白いカンテラを灯して。

 月は二羽の鳥が迷わぬようにと、薄い雲を通してささやかな優しい光を送っていた。

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