戦友ハインツ
アントンが去って三日ほどが過ぎた頃、私の小隊はようやく再出撃の体制を整えた。
敗色濃いドイツは、既にまともな補給や補充を行う力がなかったのだ。
「で、補充兵はきたのか?」
ハインツが葉巻きの煙を揺らしながら言った。
「昨日の午前中にな。だがアイツは使えないぜ」
「なぜさ? 一人だって増えれば戦力にはなるだろう」
「さあどうかな。アイツは俺たちの世代とは違う。恐らく飛ぶことさえままならんだろうよ」
休憩室の壁に背を当てて立っていた私は、そこから繋がるトタン屋根の下に座ったハインツの影と、自分の影を交互に眺めながら、暗澹とする気持ちを抱いた。
ひとつの影は長く、ひとつは短かった。
「なあ憶えてるか? 訓練生の時のこと」
ハインツは、それとなく話題を変えた。
「もちろんさ。鬼のような教官ばかりだったけど、あの頃は楽しかった。ただ飛ぶことが楽しかった。忘れようはずがない」
私が力を込めた視線を上げると、半ば逆光になった日射しを受け、小麦色の髪を揺らすハインツが微笑んでいた。
「そいつを忘れるな。俺は忘れてなんかいないぜ。皮肉なもんだな。戦争のために鍛えられ、その戦争にさらに鍛えられ、俺たちは見事な鳥になった。だが、そいつに勝つために育った世代は飛ぶこともままならないヒヨッコだなんてな。そう……俺たちがヒヨッコを一人前にして……」
ハインツはそこまで言うと、葉巻きをくわえなおして、つぶやいた。
「俺たちは卒業ってことだろうさ。今回のヒヨッコは俺があずかるぞ」
私は思わず問い返した。
「おまえ、死ぬ気か?」
「エーベルハルト、言っただろ。忘れるなと。俺たちにはそれだけで充分なはずだぜ」
鳥は恐れない。鳥が飛ぶことを恐れたなら、鳥でなくなるからだ。
ハインツの飛行を何度も見てきた私は、言葉に込められたさえずりを、何の抵抗もなく受け入れられた。だから、私はそのさえずりに不吉な欠片ひとつない祈りを感じたのだ。
先に歩き出したハインツを追いかけるように、私は使い慣れた飛行帽を手荒に掴んで立ち上がり、四機のメッサーが並べられた方へ顔を向けた。
ハインツはヒヨッコことオトマールと肩を組み、年の離れた弟をからかうようにあやしていた。
いや、それはきっとハインツらしいさえずりだったのだろう。
私が愛機のコクピットに座ってから随分と時間が経っていた。
ホラントの乗る機の尾翼に問題があるらしいのだ。
メッサーシュミットの尾部は少し変わっていた。機体の大きさにそぐわない小さな垂直尾翼。その小さな尾翼で、強力なエンジンとプロペラが作り出すトルクと釣りあいを取るため、翼型をしていたということだ。普通、垂直尾翼は左右対称なものだが、メッサーはそうではなかったということだ。それは大きな問題ではなかった。
真っ直ぐ飛ばそうと思うと、俺たちは常に左右のフットバーのどちらかを蹴り続ける必要があっただけなのだ。
鳥達からすればありふれた日常であろう。
半ば無意識にフットバーを蹴る動作をしながら、そんなことを考えていた時、翼の上に待機していた整備員が準備が終わったことを教えてくれた。
私は無線機の電源を入れてホラントに訪ねた。
「大丈夫なのか?」
反応はなかった。ふたたび同じ言葉を繰り返す。
今度はノイズに交じってホラントから答えが戻ってきた。
「いけるぜ。今日はヒヨッコ同伴の爆撃機狩りだろ? これぐらいなら何とかなるってさ。だけど、あんまり派手に飛ばすなだとよ」
ホラントは苦笑いしながら続けた。
「戦闘機乗りに派手に飛ばすなとは、贅沢な注文だが、そういうことらしいぜ」
整備士と祖国ドイツに対する、半ば嫌味とも半ば尊敬ともつかない気持ちを表すかのようにホラントがさえずった。
私は思わず破顔したあと、大きな声で機付きの整備員に叫んだ。
「まわせー!」
たちまち、静寂が喧噪に変わった。
一八五〇馬力のエンジンが作り出す音は豪快としか言いようがない。そいつが四機も一斉に爆音を立てるのだ。耳栓がなければそれだけで充分難聴になるレベルだ。
少しずつ右回りにまわる油温計や水温計の針が、なにもかもが順調だと告げる。
何度となく繰り返してきた離陸前の操作は毛づくろいみたいなものだった。飛び立ってから毛づくろいをする鳥などいないのだ。
私は左手の親指を立てた。
それまで同じ空気の中にいた男が二、三歩近づいて風防を閉める。数センチのアクリルガラスに隔てられたとき、私は完全な一羽の鳥になったことを感じた。
ハインツがやたらとオトマールにがなり立てる声が少しばかり耳障りだったが、それもさして気にかからなくなった。
私は左右を振り仰ぎ仲間たちの様子を伺ってから、両の親指を立てて腕を上下に動かした。
飛ぶぞ! と。