ビアンカの祈り――再生への飛翔
私がハンイツからの手紙の内容にくまなく目を通していると、ふいに傍らから優しい声が聞こえた。
「あなた、あなた……」
それが聞きなれた、いつもなにかに怯えているような妻の声だと気づくのに、少し時間がかかった。
「珈琲、もう一杯入れましょか?」
そのとき、私の感情の中に何があったのかは分からなかったが、それまで妻に対して抱いていた暗い雲が少しずつ払われていくのを感じた。
「あ、ああ」
「では、そうしますね。お手紙を読むのに熱中していたみたいで。何度か向こうから声をかけたんですよ。でも何もおっしゃらなかったので」
そう話しながら妻は使い古された丸い銀のお盆に珈琲カップを乗せて立ち上がった。
「あ、そうだ。珈琲は止めよう。紅茶だ、紅茶にしよう。お前もここで一緒に飲め。いや一緒に飲もう。少し話もあるしな」
そう私は妻の背中に声をかけた。
妻は振り返り、少し怪訝な表情を見せた。
「そういえば、あれはあったかな? あれだ、薄いパイを重ねてカスタードを挟んだやつだ……えっと……」
「ミルフィーユですね?」
「ああ、それだ。ミルフィーユだ。あるのか?」
「困った方ですね、あんな手のかかるもの……。もうお店も閉まっていますし……、ちょっとお隣に声をかけて見ますか……」
「いや、そこまでしなければならんなら、別になくても構わんが……」
「大丈夫ですよ。お湯も沸かしなおさないとですからね。お隣にお伺いにいく時間くらいはありますから」
「そうか。それならばいいが」
「とにかく少し待ってください」
そういうと妻は、少しソワソワとした空気を漂わせながら居間から出て行った。
十分ほどたつと、妻はお盆に二つのティーカップと、切り分けられていない二人前のミルフィーユを乗せて戻ってきた。
「お待たせしました。お隣さん、昨日、大きなもの作ったんですって。そういえば、あちらはお子さんが多いですもんね。でも助かりましたよ。あなたが……」
私は妻の長話をさえぎり、型どおりの礼を言ったあと、それまで手紙が占拠していた椅子をずらして、私の横に彼女を座らせて切り出した。
「ハインツとかいう男からの手紙のことだが……」
それから私は、彼が直筆で書いてよこした便箋を妻に手渡し、ことの次第を長々と話したのだ。それまで誰にも話さなかった、あの痛ましい戦争の話をしたのだ。
妻は、頷いたり相槌をうったり、時に笑い、時に嘆き、時に両手で口を覆って悲しみを表現していた。
妻にこれだけの感情があったことに、私は驚きを禁じ得なかった。だが、そうではなかった。彼女にはそうしたものがあったのだ。
出会った頃の十六、七歳の彼女はコロコロと笑い、にっこりと微笑み、そして時に激しく泣いたのだ。なぜ彼女が異常なまでに慎ましくなってしまったのか、私はその原因が解きほぐされていくような気がした。
オトマールの話を終えたとき、私の目からも彼女の目からも、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。彼女は独りで悲しみに耐えられなかったのだろう、私の胸に頭を預けて暫く泣いていた。私も彼女の細い肩を抱き、泣きつづけたのだ。
居間に漂った紅茶とミルフィーユの香りが、ふたりを優しく包んで抱擁していた。
翌朝、目を覚ましたとき、妻はまだ横で眠っていた。
どんなことがあっても私より早く床を抜け出し、朝食の用意をするのが常だったから、私は不思議な感覚を抱いた。
「おい、朝だぞ。そろそろ起きてくれないと困る」
私は優しく妻を揺り起した。
「ああ……すみません」
そういうと妻はゆっくりと起き上った。裸であることに気づいた彼女は、シーツを引き剥がして体に纏い、窓を開け放った。
差し込む太陽の光に照らされて、金色の長い髪が風に揺れて光っていた。
誰人も逃れえない時の流れが彼女の体にも見受けられたが、それでも充分に美しかった。光の中に立つ妻は天使のようでもあり、少女のようでもあった。
「まあ恥ずかしい! 何を見ていらっしゃるの」
私の視線に気づいた妻は肩までシーツを引き上げると、床に散らばった服をかき集めて、小走りに部屋を出て行った。
それから三ヶ月後、私はハインツの経営するファクトリーを訪ねた。それはブロッケン山の麓にあった。
目的を今更説明する必要はないだろう。メッサーに乗るためだ。もう一度だけ、ただただ自由に鳥のように空を飛びたかったのだ。
ハインツの顔にも時の流れを感じはしたが、彼にはもう戦争の影は見えなかった。十五年の歳月をかけて夢を追いかけた少年の輝きがそこにはあった。
彼を囲む若い連中は生き生きとしていた。そんな連中に囲まれているハインツが少しだけ妬ましかったが、私は素直にそれを表現することが出来た。
「いい天気だな」
「ああ、絶好の飛行日和だ。雲はあるが、そんなのは良い余興になるだろうよ」
「お前は変わらないな。相変わらずがなる癖が抜けていない」
私たちは大きく口を開けて笑いあった。
「さあ準備は整っているぜ。いつでもいける」
「それにしても懐かしいな」
私は深い郷愁に駆られて、しばらくメッサーを撫でたり叩いたりしてまわった。
どこを見ても完璧だった。迷彩塗装はあの当時のものそのものだったし、計器も何もかもがあの頃のようになっていた。勿論、三十年を経てドイツの空を飛ぶために必要な改修は施されていたが、余程の専門家でない限り、そんなことには気づかない見事なレストアぶりだった。
装備を整え、コクピットに座った私にハインツが言った。
「無線は開けておけよ。お前だけ鳥になるのは許さんからな。せめて会話くらいさせろよな」
「ああ、適当にがなっていろ。そのほうがお前らしい」
「よし、それじゃー始めるか。始動だけは昔と違う。こいつはセルで一発でかかるようになっている。始動スイッチの場所は変わらん。ここだ」
「なあハインツ。俺がこの日のためにどれだけ準備してきたか分かっているのか?」
「あはは、そうだな。そうだろうよ。それじゃあとは無線でな」
「ありがとうハインツ。じゃ、いってくる」
そういい終わらないうちに、ハインツはせっかちに風防を閉じてしまった。
私は大きく息を吐き気持ちを落ち着けると、無線のスイッチを入れ、離陸の準備にかかった。
「よし、回すぞ。コンタークト!」
――キュルルルル、カラン、カラン、カラン、ブロッ、ブロップ、ブロローン……。
排気管から青白い煙が爆発するように噴出すと同時に、プロペラが勢いよく回り始めた。
とたんに全身に心地良い振動が伝わってくる。それは遠く懐かしい記憶を瞬間的に蘇らせた。
「いいな、いい音だ」
「まだあまり回転をあげるなよ。さすがに年期ものだから熱がまわって安定するまでは時間がかかる。古女房ってとこだ」
ハインツのたちの悪いがなりが割り込んできた。
彼の指示に従って暫くアイドリングを続ける。油音、油圧、燃圧とも安定してきたことを告げると、ハインツはそれを待っていたかのように言った。
「よし、じゃーブーストが正常かどうか確かめてくれ」
私はスロットルをゆっくりと前後に動かした。
それに連動してエンジンが唸りをあげ、プロペラが作り出した風がちぎれた草を吹き飛し、機首が上下に揺れた。
「大丈夫らしいな。充分安定してる」
「よーし、チョークはずせー!」
私の視野の左右からファクトリーの若い男が現れて消えた。車輪止めが外されたことがわかった。
「よし、エーベルハルト、全てオーケーだ。あとはお前に任せる。自由に飛んでくれ」
「わかった。じゃー行ってくる」
私は狭いコクピットの中からハインツに敬礼を送ってから、スロットルを全開位置に進めた。
凄まじい爆音――全て俺に任せろ! エンジンがたてる轟音がそう怒鳴っているように聞こえた。頼もしい音だった。
私はそれを確認すると、機首を滑走路へと向けた。
ゴツゴツと下から突き上げてくる振動が無くなったのを感じた私は、即座に脚とフラップを引き込んで全力上昇に移った。
「おいおい、随分とせっかちな離陸だな。敵はどこにもいやしないぜ!」
ハインツのがなりが聞こえた。
「ああ、わかっている。でもこれが俺の飛び方だ。お前も良く知っているはずだ」
「ふん。そうだな。正直お前が羨ましいよ」
「俺だってそうさ。お前の周りの若い連中。いい顔をしている。俺はそういう連中を育てられなかったからな」
「ああ、ありがとう。でもまだ遅くはないんじゃないか?」
ハインツの意外な言葉に、私は思わず苦笑した。
「さあな」
私がそれだけ答えたとき、私は視界いっぱいに広がる大空に心を奪われた。
なんて美しくて静かなのだろう。俺はこの空で一体なにを掴んだのだろう。あの頃はああするしかなかった。そういう悲しい時代だったのだ。だが今はどうだ。この平和で例えようのない美しい空は。
俺に何を教えてくれるのだろうか? 私は自分自身に問いかけた。
白くぶあつい雲を何度か突き抜け、高度を上げる。
時間の流れはあるはずなのに、こうして飛んでいるとそれすら感じなくなる無窮の存在。それが空だ。
メッサーの高度計が六千を指した時、ハインツがまたがなった。
「おいおい、どこまでいくつもりだ? 天まで昇るつもりじゃないだろうな。その辺で勘弁してくれよ」
「ああ、わかった。初めからそのつもりだ。心配はいらんよ」
「ならばいいが。さて、それじゃー無線を一旦切るぜ。しばらくは一人で楽しむがいいさ」
「おい、話が違うが、それでいいのか?」
「フロイントシャフト・シュバーン。それが俺の気持ちだ。そういうことだ」
「ハインツ、ありがとう。心から礼を言うよ」
それから私は、かつて戦いのために使った、ありとあらゆるアクロバティックな飛行を繰り返して、思いのままに空を駆けた。
私はそのとき、間違いなく鳥になっていたのだ。えも言われぬ満足感があった、だが何か物足りない気がした。
私は失速降下というとっておきの飛行を、までやっていないことに気づいた。
よし、いくぞメッサー。こいつはお前にとってはかなり酷だが、俺もハインツもお前を信じ切っている。さあやるぜ、相棒。
すでに私の愛機になったと感じたメッサーにそう呼びかけてから、操縦槓をグイっと引いた。
メッサーは何のためらいも見せずに上昇し、やがて垂直に天を目指しはじめた。だがさすがのメッサーも息切れを起して徐々にスピードを落としてゆく。
昇降計の針が止まったとき、鳥はほんの僅かのあいだ羽ばたくのをやめた。次の刹那、鳥は尾から落下をはじめたかと思うと、苦しさにあえぎながら、クルリと嘴を地上へ向けなおして降下をはじめた。
その瞬間、それまで爆音を轟かせていたエンジンが唸ることをやめた。
愛機を信頼し尽してした私は、一瞬なにが起こったのか理解できなかったが、すぐに事態の重大さに気づいた。
ちくしょう、エンジンが止まりやがった! 再始動できるのか……。
それまで満たされていた心に恐怖が忍び寄ってくるのを感じた。
「コンタクト!」
そう声に出して始動レバーを動かした。だがエンジンは何の反応も示さなかった。どんどん降下速度が増している。
あと2回も始動に失敗したなら……。
(エーベルハルト、弱音を吐くな! お前はあの戦いを生き抜いたんだ)
私は冷静になれと自分に言い聞かせながら操縦槓を引いて、メッサーを滑空の体制に入れた。
よし、もう一度だ。
「コンタクト!」
今度は少し反応したが、それだけだった。プロペラが惰性で回るカラカラという虚しい音がした。
大気を切り裂く音が次第に大きくなりはじめた。
しまった! これではノッキングを起して再始動しずらくなるだけだ。
そうは気づいたものの、高度の低下が気になった私は計器盤から視線を外して、大地を見た。
(なんだ! 何が起こっている!)
私がそこに見たものは燃えるベルリンの街だった。
私は幻覚を見ているのだと思い、目を閉じて頭を振り、再び大地を見たが、そこにはやはり赤々と燃える地獄のようなベルリンの街があった。
(くそ! もう駄目なのか!……)
私がハッキリと死を意識したその時、誰かの声が耳を打った。
「そんなことよりエーベルハルト、昨日のポーカーの払い、忘れるなよ。あれは俺の久々の快勝だったんだからな。田舎のビアンカの……」
(アントン、アントンか! 何が言いたいんだ。俺はお前を裏切るようなことはしていないぞ!)
「ちくしょうー、風防が開かない。ちくしょう開きやがれ! いやだ、こんなことで死んでたまるか!」
(ホラント、ホラントか! あのとき俺に何が出来たっていうんだ! 俺を責めないでくれ!)
私の脳裏を、メッサーの十字架と、祭壇に跪く妻のうしろ姿が重なるようによぎった。
(やめろ! やめてくれー!!)
「卒業だな。葉巻をくれ。一服やりたい」
(何をいっているんだ、ハインツ。俺は卒業などしないぞ! 死んでたまるか!!)
「おい、どうした! 高度の下がり方が普通じゃないぞ、おいエーベルハルト、何かあったのか!」
無線のノイズに交じってハインツの声が聞こえた。
「エンジンが止まった! 再始動は試みたが、まだかからない。ヤバイんだ。」
「なんだと!……」
ハインツの生々しい声を聞いて、私は現実感を取り戻した。だが、死の恐怖を振り払えない私には、まだ燃えるベルリンの街が見えた。阿鼻叫喚の地獄の炎に焼かれて逃げ惑う、女や子供、老人の姿もハッキリと見えたのだ。その時――
「大尉、大尉……」
オトマールの優しい呼びかけが聞こえた。
「ああ、父さん、父さんそこに居たんですね。探してたんですよ……」
(オトマール。お前まで俺を責めるのか! 俺は、俺は、お前を愛したんだ。忘れたのか!!)
「母さん、何を祈っているのですか? ああ僕の…… じゃあ、僕もそこに行きますね。少しだけ待っていてください。一緒に……」
(一緒に……お前は一緒に何をしたかったんだ!? 教えろ、教えてくれー!! )
再び、妻が祭壇に跪く姿が見えた。
(お前は、いったい何を祈っていたんだ……教えてくれ、頼む……一緒に……)
その瞬間、私の心を何かが貫いていくのを感じた。
わかった。わかったから。
私はそう呟いた後、心を無にして考えうる限り最良の再始動の状態を無意識に作り出した。
「コンターク!!」
私は、アントン、ホラント、ハインツ、オトマール、そして妻が祈っただろう祈りを込めて始動レバーを入れた。
――ガス、ガスッ、ブロップ、ブロロロロ!
かかった!!
大地はもう目の前だったが、そこにもう地獄はなかった。美しい緑の大地が見えた。
操縦槓を引いてメッサー引き起こしたとき、ハインツのがなる声が聞こえた。
ハインツのファクトリーとブロッケンの山に別れを告げた私は、三日ほどかけて、ゆっくりと列車で家路に着いた。
心にじわじわと湧きあがってくる様々な感情は、全てこの世界への感謝の気持ちだった。
汚れきっていたと思い込んでいた私の心のどこにこんな感情があったのかと、少しばかり戸惑いはしたが、私は素直にそれを受け入れて許した。
だから私は、妻の待つ家に向かう途中の駅で、彼女に電話をかけたときも、すっとんきょうな声をあげたのだ。
「あなた、怒らないで聞いてください。あのですね……恥ずかしいことなんですが、私、私……妊娠したみたいなんです。お医者様が妊娠三か月だって……。お電話でお伝えするのは心苦しかったのですが……でも、私、私……どうしたらいいのか、わからなくって。独りでずっと泣いていたんです……ごめんなさい。ごめんなさい。私、泣いてばかりで……」
妻は泣きながら長々と話し続けたが、私は相槌を打ちながら、ずっと彼女の声に耳を澄まし続けた。
彼女のすすり泣きだけが聞こえはじめたころ、私は優しく話しかけた。
「何が恥ずかしいんだ。何も泣くことじゃないだろう。悲しいことじゃない。私は嬉しいし、私が嬉しいことはお前も嬉しいことじゃないか。もう泣くな。泣くなら嬉し泣きをしようじゃないか」
「ありがとう、あなた。私、あなたに出会えて良かった」
「ああ、もう電話が切れそうだ。小銭を用意しそこなったからな。あとは帰ってから話そう。すぐに帰るから」
私は妻のすすり泣きが収まるのを確かめて電話を切った。
それから彼女の泣き腫らしてぐしゃぐしゃになった笑顔を見るまで、そう時間はかからなかった。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、ビアンカ。俺はお前に出会えて良かった。心からそう思っている。もう鳥であることなどどうでもよくなった。俺にとって一番大切なのはお前だと気づいた。そして、このお腹の子だ。アントンも俺たちを許してくれるだろう」
「ああ、あなた、あなたって人は……まだ……」
ビアンカは最後まで話し続けられずに、少女のように泣き出した。
私はそっと彼女の肩を抱きながら、お腹にそっと手を置くと、ビアンカは私の手に手を重ねた。
どこからかミルフィーユの甘い香りが漂い、ロトキィエッシェンの囀る声が聞こえた。
――完――




