アントン――消えた男
私の青春は飛ぶことにあった。
あの当時、心に映った空は、広く、青く、静かで、いつも平和を感じさせた。しかし、私の青春そのものは血で汚れてしまっている。とにかく私は若かったから、当時、感傷や郷愁といったものを微塵も抱くことはなかった。
それゆえ、ただ鳥のように飛び、祖国の空や緑の大地を、故郷や人々といったものを守ることだけに情熱を傾けられた。
しかし、それはそう長いこと続かなかったのだ。
一九四五年、ドイツの空は燃えていた。
連日続く、連合軍の激しい空爆。昼となく夜となく続く空爆にドイツの空は燃えていた。
だが我々はあきらめはしなかった。
「アントン、何か見えるか? どうした? そんなにソワソワして」
私は酸素マスクと一体になったマイクに向かって叫んだ。
「いや、見えない。だが、なんだか背中がゾクゾクするんだ」
「そうか、後ろばかり気にしないで前も見ろよ。衝突されちゃーかなわんからな」
軽い冗談を飛ばしながら、私はうつろに直感した。
――アントンは今日は戻れないだろう……と。
彼からすれば、なんの気なしに口にした言葉だったのだろう。
だが私は、そこに祈りのようなものを感じたのだ。この感覚は不思議といえば不思議だが、不幸にもこれまで何度か的中してきたのだ。
「そんなことよりエーベルハルト、昨日のポーカーの払い、忘れるなよ。あれは俺の久々の快勝だったんだからな。田舎のビアンカの誕生日も近いんだ。今年はでかい贈り物をしたいんだ」
戦争という殺し合いの中で、私たちはよくこうした日常的な会話を交わした。
それは若さの証でもあったし、そうでなければやっていけない、極限状態の中にいたということでもあったのだ。
「左、何か光ったぞ。見えたか?」
飛行帽に内蔵されたイアホーンに誰かが割って入った。
空は青々と広がり、薄い雲がそこかしこに漂っていた。太陽は我々の右上で輝いていた。
「いや、俺には見えなかったぞ」
即座にアントンが答えた。
「いる。三機、いや四機だな」
「ハインツ、見えるか?」
私は二番機の男に訪ねた。
「見ようが見えまいが、いるだろうさ。奴らはそういうもんだ」
呑気というのではない。ハインツは達観に似た剛毅さを持つ男だった。
だから私は彼を二番機に選び、彼ととも戦い、生き抜いてきたのだ。
私は男たちを鼓舞するように、マイクに向かって叫んだ。
「ホラント、アントンは現コースを維持。いつでも逃げ出せる用意を忘れるな。俺たちはひねって上から行く」
「ヤボール!」
男たちの威勢のよい声が一斉に響いた。
太陽を背に高空から襲い掛かる。
メッサーシュミットの性能を最も有効に使う手段だ。
四年の歳月を共に過ごしたメッサーは、私の肉体そのものと化していた。オイルやガソリンは血液であり、翼は両腕のごとく、尾翼は両足、エンジンは心臓であった。
私はコクピットに座ってはいたが、そうとも言えなかった。両の腕を翼のごとく広げ、自由に大空を飛んでいたのだ。その瞬間、私は完全な鳥になれたのであり、それこそが私の祈りでもあった。ただただ、自由にこの空を飛びたいという。
だが時代はそれを許さなかった。
この鳥達にはさえずり、呼び合う、純粋な鳥たちとは明らかに違う部分があったのだ。そう、鋼の弾丸という鉤爪を持っていたのだ。
「敵、四機編隊。こちらには気づいていないようだ。ハインツはケツのを狙え。俺は先頭のをやる」
スロットル全開で辺りに爆音をまき散らしながら舞い降りる俺たちは、獰猛な猛禽類そのものだった。
照準環に捉えられた敵機がみるみる大きくなる。
「アントン、そっちはどうだ? 気づかれたか?」
私はオトリになってもらった二人の男たちに訪ねた。
普段であれば一番機のホラントに通話するのが常だったが、そのときの私は、あのうつろな直感を信じたのだ。
「やばい! 気づかれたみたいだ。予定通り逃げるぜ」
反応が早かったのはホラントだった。
あと少しで銃撃できる距離に迫ったとき、敵機が二つのグループに分かれはじめた。
「ちくしょう! ハインツ、狙えるか?」
「やるしかないだろう!」
私とハインツは降下速度を少しでも速めようと必死になり、あらゆる手段をこうじた。
エンジンは変わらず爆音をたて、風防を打つ気流の音も聞き取れた。アルミ合金の胴体が大気と擦れあい、ぶつかりあい、悲鳴とも叫びともつかない音を立てていた。
――早く! 早くしろ!
私は苛立ちのあまり、噛みしめた奥歯から言葉を吐き出しながら、引き金を引いた。
一瞬の出来事だった。敵機をかすめて降下しながら、私はひとつの火だるまと、グレーから黒へと変わってゆく一筋の煙の航跡を見た。
それからは乱戦になった。
一体誰がどこにいて、誰が何を叫んでいるのかさえ分からないありさまだった。
ハインツの言ったことが正しかったのだ。奴らはそこにいたのだ……群れをなすようにして。
四人の男は持てる力をあらん限り投入して戦った。そうして戦いは終わった。燃料計が戦いの終わりを告げていたのだ。
集合地点についてみると、どの機もあちこちに銃弾を受けていた。弾痕だらけのもの、薄く煙を引くもの、どす黒いオイルを吐くもの、どれも無残な姿だった。
アントンの姿はどこにもなかった。
空の戦い。地上からそれを見上げた人はいう、「こんなに美しい光景は見たことがない」と。「これが戦争でなければどれほど良いことか」と……。
しかし、その男には空の男達が味わった悲しみを、一生かかっても知ることは出来ないだろう。
昨日まで笑っていた男が、いきなり目の前から姿を消すという悲しみを。
だから私は、その夜一人静かに祈ったのだ――アントンが鋼の武器を持たない鳥に生まれ変わり、故郷の空へと舞い戻り、ビアンカの肩にとまり、愛をさえずることを。




