05-23:エピローグ
―――その後の事を、ここに記す。
―――大神美汐
大神槍悟亡き後、彼女は予定通りユグドラシルの総帥へと就任した。
無論の事彼女はまだ若く、細かな采配をするには力が足りていない。
その為、周囲の仲間達の力を借り、何とか新体制を築き始めていた。
目指すものは変わらず、皆が手を取り合って進む事の出来る道。その理想を忘れる事無く、彼女は己の覇道を突き進んでいる。
手を差し伸べ、手を取り合い進む共存の道は甘いものではあったが、その厳しい部分を受け止める者は存在している。
そんな者たちの尽力で新体制は徐々に安定し、周囲からも受け入れられ、認められつつある。
―――ガルム・グレイスフィーン
彼は事件後、ニヴルヘイムとして活動してきた自らの行いを自白し、ユグドラシルに捕らえられる事となった。
その罪は数多く、簡単なものでは済まされない―――筈であった。
いざ起訴の段階に至って、あらゆる情報を統括しているミーミルから出された罪状は驚くほど小さなものとなっていたのだ。
その室長曰く、『証言している事件の大半は、刻印獣によって起こされたもの』との事であった。
更に残る罪状も、ユグドラシルへの協力を受け入れれば軽減されるという取引まで持ちかけられる。
無論、自他共に厳格な彼がそれを受け入れる事は無かった―――が、最終的には折れる形となった。
その背景には、ある少女とのかつての仲間に関する会話があったのだが、その詳細は定かでは無い。
―――降霧スリス、上狼塚双雅、御津川桜花、スヴィティ・リュング
ガルムと違い、彼女達は事件の後、いつの間にか姿をくらましていた。
その手際は見事なもので、痕跡一つ残らず住居ももぬけの殻だったほどだ。
尤も、事件後一時的に全てのルーンが使えなくなっていた混乱もあって、抜け出す事はそれほど難しくなかったとは言われている。
彼女達は現在、日本各地を転々としながらユグドラシルの追跡を躱している。
元々強かな性質を持つ者ばかりであり、どんな場所でも暮らす事に困りはしないだろう、というのがガルムの弁であった。
―――磨戸緋織
彼女は、自覚した己の信念に従い、ムスペルヘイムの隊長を続けている。
その願いはあくまで、涼二の部下として、涼二の命に従い続ける事。
彼が消えてしまった今でもそれを信じ続けているのは、偏に一人の少女が告げた言葉があるためであろう。
彼女は今、美汐の気付く新体制を支えるため、ムスペルヘイムの強化を続けている。
いつか、その願いの根本が果たされる事を夢見て。
―――大神徹
事件の前後で在り方が最も変わらなかったのは彼だろう。
変わらず《フレキ》の隊長として、警察に協力しながら犯罪者への対処に当たっている。
そんな中、姿をくらました桜花達への追跡が甘いのは、最後の戦いで助けられた故の遠慮であっただろうか。
あの後、しばしの間ルーン能力が使用できなくなり、その反動としてなのか能力を用いた犯罪は増えている。
未だにHとThの力が戻らない為、弱体化は避けられなかったが、それでも精力的な活動を続けているようだ。
―――大神白貴
一時期ユグドラシルを離れていた彼だが、最終的には美汐と和解し、元の場所へ戻ってきている。
とはいっても、ただ保護されるだけの存在という訳ではなく、美汐の助けになろうと努力を続けていた。
立ち位置としては、かつてロキ―――路野沢がいた総帥の相談役という役目。
そして同時に、その類稀な能力を用いた総帥の護衛といった役割だった。
緋織や徹が忙しい中、姉弟の溝を埋めながら、彼なりの努力を続けている。
そして、静崎雨音は―――
* * * * *
ユグドラシル本部の屋上。
本来解放されていないはずのその場所には、一人の少女の姿があった。
静崎雨音―――以前の事件の後、彼女はユグドラシルに所属し、医務官として仕事をこなしていた。
所属はムスペルヘイム、その強大な治癒力は、危険な仕事に就く彼らにこそ必要とされていたのだ。
尤も、己の理で周囲の世界を塗り替えられる彼女は、他のどのような能力者よりも強力な力を持っているのだが。
しかし、彼女はあくまで戦闘にその力を使おうとはしなかった―――彼女の願いが、『家族』を護るものであるが故に。
故に普段はそれほど仕事は無く、時折美汐に呼び出されてその相手をしたり、屋上を借りて園芸などを始めていたのだ。
「……いい天気」
ポツリと、雨音は小さく呟く。
あの事件があったのは冬。しかし時間は過ぎ、今はすっかり春の日差しがユグドラシルの屋上を照らしていた。
恵みの太陽は彼女の力である以上、それは限りない力を雨音に与えてくれる。
名前に似合わぬ事だと苦笑しながら、雨音は周囲の果断に水を撒いていた。
色とりどりの花が咲き誇る一角―――小さく地味な白い花を咲かせるヒトリシズカに、小さな笑みを零しながら。
と―――
「精が出るね、雨音」
「あら……緋織様」
「様付け……せめて隊長にして欲しかったんだけど……いや、今更かな」
扉を開けて現れたのは、苦笑交じりの表情の緋織。
雨音の上司となった彼女は、周囲の花に視線を巡らせながら声をあげる。
「ここ、すっかり綺麗になったね」
「はい。これも美汐様がこの場所を開放して下さったおかげです」
「総帥の部屋に近いここを入り易くしちゃうのはどうかと思ったけど……まあ、怜の植物も見張ってるから、監視はしやすいのだけれど」
小さく嘆息しながら、緋織は備え付けられたベンチに腰を下ろす。
その視線は、如雨露で水を撒く雨音の背中へと向けられていた。
彼女の服装は以前までのような着物ではなく、ユグドラシルの制服となっている。
とは言え、相変わらず普段着は着物のままではあったのだが。
雨音は植物への水遣りに執心しながらも、緋織の言葉に対して声を上げる。
「折角日当たりも良くて、見晴らしもいい場所なのですから、何も無いのは勿体無くて」
「そういう問題じゃないのだけど……はぁ。まあ、いいか」
いくら言った所で、マイペースな美汐と雨音相手では理詰めは通用しない。
早々に諦め、緋織は周囲の花々で目を楽しませ始めていた。
植物の専門家である怜の助けもあり、咲き誇る花々は見事なものとなっている。
そちらにあまり知識の無い緋織が相手であろうと、見惚れさせるには十分すぎるものであった。
と、そんな時、水遣りを終えた雨音が緋織の隣に腰を下ろす。
「それで、このような場所までいらっしゃって、どうかなさいましたか? 何か仕事でも?」
「ああ、いや。美汐の護衛の引継ぎをしたから、近くだったし立ち寄ってみただけ。ここの花は、綺麗だから」
「ふふ、ありがとうございます」
嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに雨音は笑う。
そんな柔らかな表情に緋織もまた顔を綻ばせ、そしてその視線を再び周囲へと向けていた。
しばし、沈黙。
そして、緋織はゆっくりと話し始める。
「あれから四ヶ月……だね」
「はい、そうですね」
「今でも、待ち続けてるの?」
「それは、緋織様も同じでしょう?」
そんな雨音の言葉に、緋織は苦笑交じりに頷いていた。
あの日―――涼二の背中を見送ったあの時、緋織は既に彼が帰らない事を確信していた。
あの時の涼二の願いは、自分自身すらも滅び去る事だったのだから。
けれど、雨音の話を聞いて、諦観に満ちていた心が動き出す。
それが幸せだったのかは、緋織本人にも分からなかったが。
「いつか帰ってくる、か……本当に、根拠も無くて無責任な言葉」
「でも、涼二様は決して約束を破らない人です」
「うん……分かってるよ」
涼二の行く末を認められない者はいくらでもいた。
そして、認められなくとも諦めてしまった者や、認めてしまったものもいた。
最後まで認められなかったのは、ごく僅か。
「力が使えなくなって、しばらくしてから戻ってきて……それでも、HとThだけは戻らなかった。それって、そういう事なんでしょう?
それなのに、どうして諦めきれないんだろう」
「……私には、男女の心の機微は良く分かりません。女としてお慕い申し上げていると言うより、ただ『家族』として共に在りたいと、そう願っているのですから」
「そして私は『部下』として、か……女としてはどうなのか、とは思うけれど」
雨音と緋織は、共に小さく苦笑する。
自分自身の心の中と向き合うには、二人の心は硬いままに成長しきってしまっていた。
相手がいない今の状態では、それと向き合う事は難しい。
共に未熟―――それを知って、二人はどこか安堵する。
けれど、止まったままのそれを動かす事が出来るかもしれないという事を、雨音は知っていた。
「緋織様。実は、スリスさんから連絡があったのです」
「彼女から? ……まあ、監視の目を掻い潜りながら連絡するぐらい、彼女なら難しく無いと思うけれど」
「はい。私の情報端末に、いつの間にか文章のファイルが入っていまして。お勧めの『えろげ』というものと一緒に」
「……ハッキングしたのか、ユグドラシル内部のPCに」
雨音の言葉に、緋織は思わず頬を引き攣らせる。
相変わらず、信じられない手際であると―――そんな者を敵に回していたのか、と思いつつ、緋織は小さく嘆息していた。
ともあれ、『エロゲ』が何なのか分かっていないらしい雨音に注意しようと口を開き―――ちょうどそれを遮るようなタイミングで、雨音は声を上げた。
「緋織様。能力を使わず、そんな事が出来るでしょうか?」
「え……?」
「スリスさんは、能力を使って色々な情報を集めていましたけど……それを使わず、そんな事が出来るでしょうか?」
「それは、不可能だと思う……けど……」
雨音の言わんとしている事を察し、緋織は徐々に言葉を失ってゆく。
そんな彼女の様子に小さく笑みを浮かべ、雨音は立ち上がった。
花壇に囲まれた道を一歩二歩と歩き、腕を広げる。
「当たり前の願いを抱く事は、罪でしょうか?」
「……違うと、思いたいけれど」
「『違う』でいいのです。ただ願うだけならば、本人以外は誰も傷つかない。けれど傷付きたくなかったから、私達は求めてしまった」
静崎雨音は『家族と共に在りたい』と。氷室涼二は『姉と共に在りたい』と。
それはごく純粋で、当たり前の願いで、けれど他者を傷つけるものになってしまった渇望。
「己の願いを肯定してしまったのならば、最早引き返す事は出来ない。ただ、前に進む事しかできない。
故に、それで生んでしまった罪を抱えて、罪を重ねて生きましょう。
認められなくても構わない。理解されなくても、ただ前に進みたい……だから私は信じられるのです。私の信じた在り方を、私の信じた罪を」
―――そしてそれは、氷室涼二も同じ事で。
「戻る事が、共に在る事が貴方の渇望ならば―――そこに疑う余地など、ありません。どれほど罪の道を進んでも、貴方は己の道を違えない」
そして、雨音はゆっくりと振り返る。
その先にいると信じた者へと向かって―――
「故に―――これは私と貴方の、罪科の物語。共に進み続けましょう。貴方とならば、永劫の罪を抱え続ける事ができるから―――」
―――破滅の先の創世を信じて、ただ一つの真実を口にしていた。
最も単純で、最も大切な、その言葉。
「―――――――」
それこそが、唯一無二の真実であった。