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Frosty Rain  作者: Allen
最終話:ラグナロクの終焉
79/81

05-22:崩壊の刻









 日の光に包まれた世界と、戦禍の炎に包まれた世界。

様々な違いはあれど、それはどちらも熱を放つ世界であった。

けれどそこに、一陣の冷たい風が吹く。



「―――ふむ、成程。永らえるとは思っていなかったのだがね」

「そりゃまた、読みが外れて残念だったな」



 その二つの理に縛られぬもう一つの理。それの体現者と化した涼二は、小さく息を吐きながら体を起こした。

最も近くにいた桜花には小さく笑み、そして周囲に視線を巡らせて―――そこでようやく、己の状況を把握する。

どうやら、相当に追い込まれた状況であったという事に。



「涼二様……!」

「礼を言っとかなきゃな、雨音。まあ、今はそんな暇も無いだろうが」



 己の意思で歪めた二つの始祖ルーンと、その中に溶けた静奈の魂。

そこから伝わってくる全てと、そして大神槍悟との戦いで解き放った己の世界から、全ての真実を掴み取る。

その中に秘められた、全ての始まりとなった主の意思を。

そして、己が今何をすべきか―――今の涼二にとって、それは考えるまでも無く瞭然だった。


 周りを見れば、そこには共に戦ってきた仲間の姿がある。

伝えなければならない事、やらなければならない事、そんな事はいくつも思いついた。



(ああ、何だ。こんなにも未練があるんじゃないか)



 涼二は、胸中でそう苦笑する。

けれど、氷室涼二という男はそれに価値を見出す事ができないから。

ずっと昔から、たった一つの事だけに価値を見出していたのだから。

それこそが、今自分がここに立っている理由なのだと、涼二はそれを理解する。



「氷室涼二―――」

「俺の事は役の名前では呼ばないのかよ、ロキ」

「生憎、君に彼女の役割は荷が重すぎたようだ。逆に、役不足だったのかもしれないがね」

「さあな、俺は俺だ」



 氷室静奈―――ヘルの代役ではない。

彼女自身になる事は出来ない。それは、涼二が明確な意思でそれを拒否するようになったからだ。


 身体を起こし、涼二はゆっくりと歩き始める。

桜花の隣を通り抜け、世界の中心に立つ雨音の頭を軽く撫で、美汐を護る緋織に小さく笑みを浮かべて―――通り抜け様、双雅と拳を打ち合わせる。



「よォ。『久しぶり』か、それとも『初めまして』か?」

「……多分、『初めまして』だろうな。これが三度目だが、よろしく頼むぜ」

「あァ、行ってこいよ、兄弟」



 その言葉の意味を知る事が出来るのは、双雅の他には桜花のみであっただろう。

唯一つだけ言える事は―――何かが変わったのだという、ただそれだけだった。

そして、涼二は敵の前に立つ。

その耳朶に残っているのは、『やってやれ』と告げた、愛する家族・・の声。



「桜花。その蛇に全員乗せて、とっとと逃げろ。今のコイツの狙いは俺一人だからな、距離を置いておいてくれ」

「はいはい……ま、頑張ってきなさいな。さ、皆とっとと乗って!」

「だが、涼二は―――」

「いいから、さっさとする! ……やらせてあげてよ、お願いだから」



 緋織の上げた抗議の声に対し、僅かながらに声を細めて、桜花はそう告げる。

そんな彼女の言葉に、涼二は小さく笑みを浮かべていた。

双雅と桜花―――世界がこのようになってから、いつも隣に立っていた存在。

今になってその存在を認識し、そして全てが遅過ぎた事も理解する。

そんな己に対する自嘲を零し、それでも路野沢―――否、ロキの存在からは目を逸らさず、涼二は静かにプラーナを集中させた。



「ッ……涼二、隊長!」



 収束してゆく力の中、涼二は緋織の声を聞く。

それと共に広がってゆく涼二の認識は、確かに彼女が胸のペンダントを握り締め、叫んでいる姿を捉えていた。



「―――御武運を!」



 そして、一瞬の逡巡と共に放たれたのはそんな言葉で。

重荷にならないようにと選ばれた言葉は、ただひたすら部下であろうとする緋織らしいものでもあった。

だからこそ、涼二は苦笑する。もう少しぐらい、色気のある性格に育ててやれればよかったと。

そんな思いを抱えたまま、遠ざかってゆく気配へと後ろ手を振り―――



「一つ、疑問なのだがね」



 水を差された、と言わんばかりの表情で鋭い視線を上げた。

当然ながら、ロキがそれに怯むような事は無い。

変わらぬ軽薄な様子のまま、ただ純粋に抱いた疑問を口にする。



「僕は、君がヘルを―――氷室静奈を求め続ける渇望を抱くよう、調整してきたつもりなのだがね。何故、彼女と共に在り続けられる僕の提案を蹴ったのかな?」

「考えるまでも無い、当たり前だろう―――それは姉さんじゃない、ただの氷像だ」



 手に入らないのならば、戻らないのならばその美しい姿を抱いていたい。

それは確かに、涼二の願いの形でもあった。

けれど―――その根本になった物は違う。

氷室涼二の願いの根本は、もっと単純で陳腐なもの。



「本物じゃないなら、永遠なんて欲しくない。俺が永遠を望むのは、そこに本物の姉さんがある場合だけだ。本物じゃないなら、俺は偽物と一緒に自壊したい」



 ―――ただ、氷室静奈と共に在りたい。

家族と共に在りたいと願う、何処までも当たり前の願いだった。

故に、氷室涼二は偽物との永遠など望まない。それは、ただ虚しいだけなのだから。



「読み違えたな、ロキ。それが、お前の敗因だ」

「読み違え……読み違え、か。ふ、はははは……成程、大した予言者だよ、《予言の巫女ヴォルヴァ》殿。だが、結果は変わらんよ。君を滅ぼし、従える。それが我が世界の理なのだから」

「やってみろよ……させねぇがなッ!」



 意識が広がる。

周囲には既に雨音の花畑は無く、ロキの理によって包まれた状態。

世界という理を従える者同士の戦いにおいては、相手を包み込んだ時点で勝利が確定するようなものだ。

例外は―――



「   Vulnerant omnes,ultima necat.

  時間はすべてを傷つけ、最後はすべてを殺す。


        Semper idem.

      それは、永劫不変の理。        」



 ―――相手の理を押し退けるほどに、強固な理を持つ場合のみ。

そして長年の怨嗟により凝り固まった涼二の理は、これ以上無いほどに強い渇望から生み出されたもの。

世界の管理者たるロキを前にしても、決して見劣りするものではなかった。



「       Mors certa, vita incerta.

   死は確かなものであり、生は不確かなものなのだ。


      Certa amittimus dum incerta petimus.

  故に人は不確かなものを求め、確かなものを取り落とす。  」

「侵食自壊の理……させはせんよ」



 ロキの世界にプラーナが溢れる。

それによって生まれるのは、始祖ルーン能力者たちの生み出す究極の武装たち。

たった一つであろうと、それに穿たれれば命は無いだろう。

災いの枝レーヴァテイン》、《雷神の槌ミョルニル》、《必滅の槍グングニル》。

あらゆる必殺が、涼二へと向けて放たれる。



「          Veritas numquam perit.

              真実は不変。


      Nec possum tecum vivere, nec sine te.

  俺は貴方と共に在れず、けれど貴方無しでは生きられない。    」



 ―――しかし、その祝詞が発せられると共に、あらゆる神器はその動きを止めていた。

氷の茨が持っていた停止と束縛の理が、今破片となって流れ出し、周囲を満たし塗り替えてゆく。

凍結、停止、流動、束縛、侵食、破壊―――全ては涼二の理である自壊へと繋がる、理で作り上げられた道。

そしてその完成を察し、ロキは止める事は無理と判断して大きく距離を開けるために飛び離れる。



「      Vive memor mortis.

    ―――故に、来たる死を忘れるな。    」



 そして―――全ての理が、形を成す。



「   Ultima Forsan

   《死想寂滅・凍花》  」



 放たれる力が、世界を自分勝手な理で塗り潰す。

こんな場所は認めないと、ただ静奈と共に在れる結果が欲しいと、その最後の願いを込めて作り上げられた世界。

広がる光景は大神槍悟と相対した時と変わらず―――しかしその性質は、以前とは比べ物にならぬほどにはっきりしていた。

涼二の展開した力は周囲を覆い尽くしていたロキの力を押し退け、それだけに留まらず、徐々に広がり始めている。

それは、決して力で押している結果ではない。


 ―――《破壊》ではなく《自壊》……故に、その性質はコンピュータウィルスのようなものだ。

無理矢理に壊すのではなく、内部に入り込み、それを内側から侵食して、自ら破壊させてしまう。

世界を侵食する世界。異能を破壊する異能。

それは、あらゆる能力者にとって天敵とも呼べるような存在であった。


 それを前にして、ロキは歓喜の笑みを浮かべる。



「簡単には手に入らなかったとは言え、その性質は素晴らしい。賞賛に値するよ、氷室涼二。やはりその力は欲しいな」

「誰がやるかよ……これは俺だ!」



 対する涼二の返答は、相手を絡め取り侵食しようとする氷の茨であった。

触れたものの動きを止めてしまう不動縛―――しかしそれは、涼二の持つ《自壊》の理により、更に強力なものへと変化していた。

触れれば止まる、止まれば凍る、凍れば自壊する。取り込まれた時点で全てが終わるというのならば、涼二の世界こそが正にそれだろう。



「《模倣宇宙イミテート豊穣の飛剣ユングリング》」



 対し、ロキの世界には無数の大木が発生する。

豊崎翔平の能力である《豊穣の飛剣ユングリング》。その大木は立てであり、その枝は槍であり、その葉は刃である。

強固にして強大な広域型能力。だがそれも、涼二の理から逃れられはしない。


 ―――ガラスの砕けるような音が、鳴り響く。


 氷の茨が触れた《豊穣の飛剣ユングリング》は、その瞬間に凍て付き、崩壊を始めていたのだ。

否、崩壊するのはその一本に留まらない。それと共に、他の大樹もまた凍て付き、自壊してゆく。

それはまるで、凍りついて自らの重みに耐えかねた花のように。



「やはり危険なものだね、君の力は……ルーンとの繋がりを即座に断ち切らなければ、始祖ルーンそのものが破壊されていた」

「お前まで凍りつくように狙ったんだがな!」



 叫びと共に、涼二は更なる力を発動する。

求めた形は、自らが最も信頼するファンクションである《氷雨フロスティレイン》。

以前でさえその力は十二分に強力であったが、今はそれに新たな理が追加されている。

その雨粒は、世界すらも侵食する毒だ。

しかし、ロキもまたそれを許すつもりは無い。



「《模倣宇宙イミテート黒翼の悪龍ニーズホッグ》―――逆巻け」

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――ッ!!』



 現れる影は、黒く巨大な龍のもの。

その劈くような咆哮と共に周囲には嵐が巻き起こり、降り注ぐ雨を巻き上げて天へと返してゆく。

そして、それはオセルの力と交じり合い―――



「では、お返しだ……英雄殿は悉く斬って捨てたが、君はどうかな?」



 ―――巨大な隕石となって、降り注ぐ。

まるで十五年前の再来であるかのようなそれに対し、涼二は地を這っていた茨をドーム状に配置した。

高く伸び上がる茨は宙を駆け、美しい庭園を護る楯の如く張り巡らされる。

そして、涼二はその場から駆け出した。

降り注ぐ隕石が茨に触れて止まり、凍りついて自壊して行くその光景を尻目に、その手に氷の刃を作り出す。



「おおおおおおおッ!!」



 踏み出す足が、世界を侵食する。

涼二はその刃を片手に、ニーズホッグへと突撃した。

以前ならば、そんな事をした所で到底通用しなかっただろう。

ニーズホッグの放つ無数の風の刃を迎撃する手段など無く、涼二一人で倒す事など不可能だったのだから。

けれど決して恐れる事無く、放たれる風に対し、涼二は左腕を振りぬく。

それは同じような風の刃。たった一つだけ、ただ大きく広がっているだけに過ぎないモノ。

しかし、白く冷たいその風は、ニーズホッグの放ったそれ自体を侵食し、自壊させてしまったのだ。



『―――ッ!?』



 突き抜けた白い風の刃は、そのままニーズホッグの顔面に直撃し、その頭部を凍て付かせる。

そしてその瞬間に肉薄した涼二は、振り抜いた自壊の刃を以ってその身体を完全に打ち砕いた。

砕ける破片を足場に、涼二はロキへと駆けようとし―――



「さて、どの程度の熱量ならば溶けるのかな―――《模倣宇宙イミテート災いの枝レーヴァテイン》」



 ―――そこに、無数の刃が雨となって降り注いだ。

舌打ちと共に、涼二は正面に氷の楯を張り巡らせる。

隕石よりも細く、受け止めづらいその形状は、氷の茨によって受け止める事は難しい。

その操作に慣れていれば迎撃する事も難しくはなかっただろうが、ぶっつけ本番である以上、そこまでの精度は期待できないだろう。

とは言え、量産された《災いの枝レーヴァテイン》の強度では、涼二の楯を貫くほどの力は無い。


 ―――そう、本来ならば。



「《模倣宇宙イミテート光輝なる英雄譚ヴォルスング・サガ》」

「―――ッ!!」



 光の羽が舞い落ちる。

大神美汐が持つファンクション、仲間に対して力を分け与えルーン能力を強化するファンクション。

それを浴びた《災いの枝レーヴァテイン》は、吹き上げる炎の熱量を一気に上げた。

灼熱を放つその刃は、涼二の力を以ってしても一気に凍て付かせる事は難しい。

そして―――



「《模倣宇宙イミテート雷神の槌ミョルニル》」



 ―――振り下ろされた鉄槌によって《災いの枝レーヴァテイン》の柄が叩かれ、その刃は一気に楯を貫通した。



「が……ッ、ああああああああああああッ!?」



 胸を貫かれ、地面に縫い付けられ、そして放たれた雷光と灼熱によって身を焼かれる。

その氷と化した身体ですら、二つのダメージは決して軽いものではなかった。

激痛に苛まれる中で、それでも己の意識を広げながら、涼二は胸を貫く《災いの枝レーヴァテイン》を掴む。

傷口から広がる凍結は刃全体に広がり、ついにはそれを自壊させるが―――それでも、ダメージが消える訳ではない。

地面に仰向けに倒れたまま起き上がれない涼二に対し、ロキは変わらぬ様子で声を上げた。



「君がいくら強力な理を持っていたとしても意味は無い。性質が違うのだ。我が理は《軍勢》、物量での戦いなのだ。その一部が破壊された所で、痛痒など感じんよ。

今更言った所で理解など出来ぬだろうがね……さて、それでは終わりにするとしよう」



 言って、ロキは手を広げる。

その中に現れるのは、黄金の輝きを放つ長大な槍。

必滅の槍グングニル》―――かつて涼二を大いに苦しめた神威が、今再び顕現する。

そして、その刃は振り上げられ―――



「では、さらばだ氷室涼二。我が聖戦の開幕に響く号砲となれ―――」



 ―――遥か後方にある巨大な城が、崩れ去った。

何の前触れも無く起こった出来事に、ロキは目を見開き、そちらへと視線を向ける。



「な、に……!?」

「ようやく、見つけた……貴様の世界の、中心……ッ!」



 掠れてすらいる涼二の声。しかしそれには、確かな力が込められていた。

そして、それと共に響き始めるのはガラスにヒビが走るような音―――それは、大いなる崩壊の幕開けだった。



「《連結自壊セルブツァストゥルング》……俺の世界が持つ本来の性質は、自分が崩れ去る事だ……俺の世界とお前の世界を連結させれば、世界も、そして俺達も……全て崩れ去る」

「初めから、狙っていたとでも言うのか……!」

「ああそうだよ。最初から、ずっとな―――終わりだよ……俺も、貴様も、何もかも!」



 その叫びと共に―――世界は、大きく崩壊の音を響かせ始めた。

世界は大きく揺れ、それと共に端から徐々に崩れ始めている。

最早どちらの世界も解除する事は叶わず、その自壊に身を任せる以外の道は存在していなかった。



「崩れろ、ロキ……貴様は欠片一つ残さない!」

「このような狂った理が存在するはずが―――」

「その形を望んだのはテメェだろうが! テメェは退場しろ、ロキ! 管理者か何かしらねぇが、俺達はテメェの都合で生きてるんじゃないんだよ! 箱庭でも何でも、俺達は生きてここにいたんだ! 余計な真似を―――」



 叫び、涼二は大きく手を振り上げる。

今いる場所は、涼二とロキの世界の境目。

そして、二つの世界を侵食する《連結自壊セルブツァストゥルング》の中心でもあった。

ウィルスは、世界を喰らう毒は、最早両者の根本までに食い込んでいる。

故に―――最早、繋がりなどは必要なかった。



「―――してんじゃねぇッ!!」



 そして、拳は振り下ろされる。

それは世界の境目へと突き刺さり―――二つの世界は、分かたれると同時に大きく崩壊を始めた。

音を立てて自壊して行く二つの境は何も無い、漆黒の虚無。



「このような、結末は……なるほど―――」



 呆然とした表情のロキの身にもまた、崩壊の因子は影響し始める。

彼の身体もまた手足の先より崩壊を始め、その広大な世界ごと崩れ、塵と化してゆく。

そして全てが崩れ去るほんの一瞬だけ前―――ロキは、何処か苦笑のような笑みを浮かべていた。



「ならば足掻くがいい、神の人形達よ―――」



 それは未だ生き続ける者達への嘲笑か、或いは憐憫か。その僅かな瞬間では、涼二にも判断する事は出来ない。

そして、次の瞬間―――世界の闇を暗躍し続けた超越者ロキは、完全に崩壊し消滅していた。

その様を見届け、涼二はゆっくりと息を吐き出す。

己の世界の中心にある生垣の縁に腰を下ろし、静かに空を見上げていた。



「……終わった、か」



 そう、何もかもが。残らず崩れ去り、消えてゆく。

しかし、涼二はそれでも満足だった。己の魂を燃やし尽くし、始祖ルーンに食われて静奈と同じ末路を辿れるのならば、未練など無いと―――そう、心から信じていたのだ。

もしも、一つ誤算があるとすれば―――



「え―――?」



 そこに、一つの花の香りが漂ってきた事だろう。

懐かしさを覚えるそれに対し、涼二は思わず顔を上げていた。

そしてちょうどその瞬間、一つの声が響く。



「やはり……私の世界は、貴方の世界に排斥されないのですね」



 白く小さな花が咲き誇る花畑。その中心で、一人の少女が静かに立ち尽くしていた。

その姿に、涼二は思わず言葉を失う。

何故こんな場所にいるのか、他の者達と一緒に逃げたのではなかったのか、聞くべき事はいくつもある。

けれども、涼二の意識はたった一つのことに奪われてしまっていたのだ。



「ヒトリシズカ……」



 花びらも萼もない、小さな花。

甘い香りを漂わせるそれは、間違いなく―――



『どうせ白い花なら、私の好きだった花にしてくれればよかったのに』

「姉さんの、好きだった花……」



 そんな花を己の世界に咲き誇らせ、何故か涼二の世界の浸食を受けず、そして彼女・・と似通った姿をしている。

ここまで来れば―――否、その花を見た時点で、涼二の魂は既に確信していた。

嗚呼、と涼二は小さく呟く。



「何、だよ……本当に、茶番劇じゃないか。あの野郎の事、笑えないだろ」

「……やはり、そうなのですね」

「お前も気付いてたのか……?」

「さあ、分かりません。確信は無いのです。ただ、貴方が……家族が愛おしいと、そう思っているだけ」



 ゆっくりと歩み、雨音は涼二へと近づいてゆく。

その様を呆然としたまま見つめ―――それと同時、涼二の体はついに崩壊を始めた。

足が崩れ、地面へと倒れこもうとしたその身体を、雨音は柔らかく抱き留める。



「皮肉だよ……ああ、本当に。知っていれば、こんな事は望まなかったかもしれないのに」

「今は、そう思っているのですか?」

「ああ……死にたくないし、消えたくない。けど、もう遅いんだ―――俺はそういう理と化してしまった。だからこそ、それ以外の結末はありえない」



 雨音の胸の中で、崩れ去る手足を感じながら、涼二はそう告げる。

最早全てが手遅れなのだ。どちらを選んだ所で、結末は変わらない。

流れ出した理が止まる事など、ありえないのだ。

そしてその理の強度は誰よりも高い―――雨音の力でも、それを止める事は叶わなかった。



「涼二様。私の事を想っていただけるなら、一つだけ約束してはいただけませんか?」

「約束……?」



 崩壊は続く。氷の庭園は崩れ去り、消えた部分は花畑によって埋め合わされる。

最早時間は無い。けれど、雨音の声は穏やかだった。

―――否。



「貴方は旅立つだけなのだと……いつかは戻ってくるのだと、そう約束してください。嘘だって構わない。当ての無い言葉でもいいのです。それさえあれば、私は貴方を信じられる。

私の理を私自身が歪める事無く、貴方の事を永劫待ち続ける事が出来るから。だから、どうか―――」



 その声は、確かに穏やかだった。

けれど、その身体は小さく震えていたのだ。

怯える子供のように、大切なものをなくしたくないと、優しい嘘に騙されていたいと、そう願うように。

だからこそ涼二は本心から、願いを込めて、その言葉を口にしていた。



「ああ……戻ってくるよ。いつかきっと、お前の元に戻ってくる」

「……はい、涼二様」



 身体の震えが、収まる。

胸から上しか残らぬ状態ながらもそれを感じ取り、涼二は確かな安堵を覚えていた。

雨音はそっと身体を離し、崩れかけた涼二へと視線を合わせる。

そして、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべ、声を上げた。



「行ってらっしゃいませ、涼二様」

「ああ―――行ってきます、雨音」



 そして、涼二は目を閉じ―――その全ては、破片となって宙へと融けて行った。

氷の庭園は完全に崩れ去り、後に残るのは、ただ雨音の力に満ちた花畑だけ。


 けれど、その僅かな残滓は風となり―――流れ落ちた雫を、運び去っていったのだった。





















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